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これからの『指導者』のあるべき姿とは

 先日、YOUTUBEで、元ラガーマンで現在パワーリフティングの選手として活躍している信田泰宏さん(@yasuhiroshida)が過去のスポーツ経験を語る映像を観た。それは、ただのスポーツに関する動画では決してなく、自分は『これからの指導者のあるべき姿』に関する一提言として、重く受け止めた。

彼のスポーツ経験と現在

 彼は小学生から15年間ラグビーをしていた。中高は主将を努めるほどの実力者であった。しかし、彼は言う。「好きでやってたはずのラグビーがいつの間にか嫌いになってる」と。

 彼は子供の時からよく脳震盪を起こしていたという。ラグビーは脳震盪に対するケアが厳しいスポーツではある。しかし彼は必ずしも指導者に恵まれたとは言えなかった。その中でも、指導者の実名を挙げて感謝を述べている人もいるが、多くはスパルタ的な指導であったという。彼のインスタグラムでの言葉を原文そのまま引用したい。

…『(中略)…試合前に怒鳴る。気に入らない選手かがいる。顔色を伺いながら練習をする。自主練してたら「おれの機嫌取りの為に練習してるのか!」と言われる。部員がルールを破ってしまった時は責任を僕達生徒たち押し付け尻拭いをしない。体育祭という意味のある立派な教育行事の際も全校生徒のいる前でラグビー部が正座させられる。…』

 競技の特性上、強者に立ち向かわなければいけないため、部員を鼓舞する意味もあったのだろう。メンタルの強さも他の競技に比べて求められる側面もある。または、指導者も『自分自身がそのような指導を受けてきた』からなのかもしれない。

 そして彼は、大学生の時にうつ症状を発症、それから睡眠中の中途覚醒などに苦しむ日々を送っている。(実際の経緯はもっと細かく語られている。また、この文章では『スポーツ』の定義なども明記していないので、ぜひ気になった方は下の動画をご覧いただきたい。また、ミスリードなどありましたらご指摘ください。)

自分自身の経験から

 以上、信田さんについて書いてきた。自分自身は元アメリカンフットボール競技者で、精密な検査を受けたわけではないが、実は彼と同じ3時間ごとに目覚める症状に何年も悩まされている。夜、ぐっすり寝て朝パッチリ目覚めるという経験は記憶する限りない。〈比較的〉眠れた日はあっても、夜中に確実に目覚める。そのために、食事の精選や運動、サプリメントなどを試したが、睡眠の質は全く向上しない。

 話を元に戻すと、自分のこの症状も脳の障害と仮定し、彼と自分を比較したとき、現実の受け入れ方の決定的な差は、明らかに『指導者』にある。実際、起こっていることが同じでも、自分は大学時代、指導者はいたが学生主体でプレーでき、勝ち負けの責任を自ら幹部が負った(監督・コーチの放任という意味ではない)。アドバイスはもらうが、方針は自分たちで決めていた(それはそれで別の意味で辛いものがあったが…)。

 したがって、私は自らの行動・意思決定の責任は自分にあると思えるため、スポーツ経験を経て負った傷について『指導者が…』、『コーチが…』と指導者やコーチを主語にして悩むことは一切ない。『指導者』が、選手(子ども)に何らかの行動や意思決定を強要した時点で、その選手(学校でいうと児童生徒・子ども)は責任を取る主体を、自分でなく、指導者に求めるようになってしまうのだ。

 彼はこうも述べている。…『(中略)…僕は大学3年の最後に遂に障害の症状が発症して、そこから苦しい日々を過ごしてますが、エゴで僕らを指導してきた大人達は責任をとってくれるのですか?好きでやってたはずのラグビーがいつの間にか嫌いになってる。15年やったラグビーが最後嫌いになって終わる。…』

 彼は、責任を取ってくれるんですか?と問うが、実際、指導者は事実上責任を取ることはできない。おそらく、彼自身もそれは分かっているのではないかと思う。悲痛な、あまりにも悲痛な叫びである。指導者の立場に身を置くものは、この言葉を重く受け取るべきである。

指導者のあるべき姿とは

 スポーツも、教育も間違いなく転換点にある。正しい教育はないが、間違った教育はある。たとえ子どもであっても、その子どもの人生の主人公は、その子自身でしかない。主人公は、自らの人生の舵取りをする主体である。その主人公の人生を、どうして間違った方向に導くことがあろうか。親であっても、子どもの人生に介入すればするほど、何か起きたときの責任を親に押し付ける。「あの時~してくれなかった」「いつも~」「怒ってばっかり」…。もちろん子どもに責任はない。

 指導者がもつべきは〈権力(power)〉ではなく、〈権威(authority)〉であり、「~させる」力(have to)ではなく、「~したい」と思わせる力(want to)である。指導観、教育観に多様性はあって然るべきである。ただ、その矢印の方向、向かう方向性は同じでありたいと思う。

編集後記

※ 発達段階、集団の状態によって指導法は異なる。確かに短期的には、一時的なpowerもhave toも必要な場合もあるかもしれない(例えば、他者の尊厳を著しく傷つける言動、命に関することなど。)。上記の話は、指導の方向性を述べたものである。

※ 〈権威(authority)〉…ここでいう〈権威〉とは、〈権力〉との対比で用いた。体罰など相手を威圧したり、逆に報酬を与えたりすることで服従させる〈権力〉ではなく、そのような力に依らず、ある一定の知識をもち、〈正しさ〉を中心とした振る舞いであるが故に、信頼できる他者として、正統性を内在した力を〈権威〉として用いた。定義は、H. アレント、ピーターズR.S.の著作を参照されたい。ただ、アドラー心理学的には、権威も優越コンプレックスとして否定されている。同じ地平を歩く存在として、一人の大人(指導者)と子ども(選手・児童生徒)がいるだけだ。しかしながら、〈権力〉による指導から、いきなり〈援助者〉になることは、これまで見てきた指導者を想像するに困難である。

※「~したい」と思わせる力(want to)は、ウィリアム・ウォードの『凡庸な教師は、ただ話す。良い教師は、説明する。優れた教師は、態度で示す。そして、偉大な教師は心に火をつける。』における偉大な教師がすることを換言したものである。

※最後に、様々な経験と自身の状況・思いを発信し続ける信田さんに心より尊敬の意を表したい。自分も競技終了後も筋トレは続けているが、信田さんの記録は斜め上をいっている。刺激を受け、ホームジムに新しくインクラインベンチが仲間入り。ありがとうございます。

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