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わたしと越える夜

突然、すべてが虚しく思える時がある。

私はなんでがんばっているんだろう。
結局一人ぼっちだ。
そんな考えで頭がいっぱいになり、神隠しにあったような孤独に襲われる。

そうなる時、たいてい太陽は沈んでいる。
「人に頼りたい」という考えが一瞬頭をよぎるが、本能が「これは自分1人で乗り越えるべきだ」と訴えてくる。

そして、深夜の散歩に繰り出す。
紫外線やたくさんの人もいない、ノイズの少ない時間。

自分の体温以外に熱を感じない。
ひんやりとした空気の中、ポケットのケータイだけが生ぬるい。
中途半端なぬるさに気分が悪くなる。

携帯は家に置いてくればよかったな。
今の私には要らないものだ。

こんな夜は地図も見ずに歩く。
普段は行けない、願望に気づきもしない「こっち行ってみたいな」と思う道に行く。
そして出会ったコンビニに入り、「今日世界が終わるなら食べる」というような食べ物を食べる。

カヌレだったり、照り焼きチキンサンドイッチだったり、カレーパンだったり。
不思議とカップ麺などの加工食品ではないのだけど、こういう時に自分の好きな物が純粋にわかるということだろう。

小麦粉や砂糖や酸化した油で作られた物を食べること。
地図を見ずにどこかへ行くこと。
深夜に眩しい光を浴びること。
嗜好品を食べること。
そんな普段はマイルールで封じていることをする。

それらをすると、孤独感がふっと軽くなる。

先のことばかり考えて生きていると、今の自分を見失いそうになってしまう。
つい、これから何年も続く、いつ終わるのかいつまで続くのかもわからない時間のために今の自分を蔑ろにして生きてしまう。

そんな時間が続くと、この夜のように「今の自分」が構ってと言い始める。

私はもともと自我が強い。

それは、未来に向かって進みたいと思う気持ちもだが、今を生きている自分にもある。
特にそれは、過去や未来と比べて生きているだけあって強く、無視できる声量ではない。

これに関しては、普段は足を引っ張られることの多いキャパシティの狭さに救われる。
「今の自分」をないがしろにした反動がこまめに来るのはありがたい。
深夜に数時間無心で歩き、体に良くないと言われているものを食べる程度で済むのだから。

あてもなく歩き、「自分がどこかに行ってしまいそうな不安」を感じる。
でもそのたびに「置いてきた義務から解き放たれていく心地よさ」も感じる。

そして、たいていの場合植物や水辺のある場所にたどり着く。
生まれ育った環境に近いから落ち着くのか、ヒトはみんなそうなのかはわからない。

そこで体内の空気を入れ替えるように深呼吸をして、無心でその場を堪能する。
普段はイヤホンで遮断している世界の音と向き合う。
植物や景色から、すべての時間の中で唯一の世界が目の前にあるのを感じる。

そうするとやっと気分が晴れてくる。
孤独感は気が済んだようにどこかへいく。

やっと「私」は構ってもらえて満足したようだ。

孤独感の正体は、「他人との間に感じる孤独」ではなく「私へ感じる私の孤独」。
未来や、周りに気を取られて日々をせわしなく過ごすと泣き出す赤ちゃんのようなものだ。

そんな時はノイズの少ない時間を過ごし、今の自分が求めるものを与えてあげる。
そうしたら、向き合ってもらえた事に満足した孤独の赤ちゃんは眠りにつく。
また明日から人生を生きていこうと前向きになれる。

無視してしまっていてごめんね。
また明日からの日々では一緒にいられるように気をつけよう。
なるべくこまめに、できれば常に。


本当に「人と生きる」力を鍛えるために


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