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障がいと共に生きるアーティスト達とそこにある世界を発信するフリーペーパーHugs 2024年夏号 vol.9


「枠にとらわれず、自分を生きる」

井谷優太さん
倉吉市在住、サウンドクリエイター

◉プロフィール
1985年、福岡県生まれ。脳性麻痺の障がいがありながらパソコンを使った音楽制作やライブ活動を行なっている。2015年「第12回ゴールドコンサート」でグランプリを、2023年同チャンピオンシップ大会で準グランプリを受賞。2021年には東京パラリンピック開会式に出演するなど、幅広い舞台で活躍している。

 パソコンのスクリーンに集中し、マウスを動かし、キーボードを叩く。すると、ひとつひとつの音が生まれ、組み合わさって曲となっていく。真剣な表情で、時に楽しそうに体を揺らしながら。そうして、サウンドクリエーターの井谷優太さんの音楽が生まれていく。
 生まれつき脳性麻痺で手足が不自由だが自分の好きなことを突き詰め、今やCMやインターネットラジオなど幅広い音楽の仕事を受けるサウンドクリエーターとして活躍中だ。
 「こうでなきゃいけない、こういうのが普通、という誰かにつくられた枠にとらわれず、自分らしい生き方ができる社会になったらいいなあぁ」
 と話す優太さん。現在は日常生活のサポートをしながらマネージャーとして音楽活動を陰で支える父の憲人さんと二人三脚でやってきた。自分の好きなことを続けて音楽活動の道を切り開いてきたこれまでと、伝えたい思いを語ってもらった。

▼障がいを持って生まれた息子

 父の憲人さんが違和感を覚えたのは生後半年ごろだった。
 「初めての子供でしたし、何が正解かもわからないけど、どうも周りの子の成長と比べて遅いように感じていました。病院で調べてもらったら障がいがあることがわかったんですね。最初はショックで、障害のある子供の親になる想像もしていなかったですね」
 当時は仕事の都合で福岡県に住んでいたが、3歳になる頃に地元に戻ろうと決意。実家がある北栄町に近くて、障がいのある子が通っていた保育園があると聞き、旧羽合町に移り住んだ。これからどんな学校生活を送っていけるかも心配だったという。
 「なんとか地元の小学校に通えると思っていたんですが、学校の先生と相談し、米子市の皆生養護学校に行くことになりました。養護学校の隣にある小児医療センターに住みながら学校に通う生活が高校卒業まで続きました。家族がそれだけ離れて暮らすというのは大変でした」
 今でこそ明るく話す憲人さんだが、当時は戸惑いや不安があり、悲観的になることもあったという。
 「よくポジティブだと人から言われますが、当時は全然そんな感じではなかったです。大変だけど、負のパワーを別のポジティブなものに変えようと思い、行動していくことにしました」
 下を向くことをやめ、できることを少しずつ始めていった

▼「優太のことをもっと知ってもらおう」

 どうすれば優太さんが楽しく暮らせ、できるだけ自分で生きていく力を身につけていけるかを、ひたすら考えたという。
 「それには、優太のことをもっと人に知ってもらうこと、たくさんの人とのつながりを持つことが大切だと思いました」
 小学校に上がるときに勧めたのがゲームだった。養護学校に行けば地元の友達と会う機会も減るかもしれない。せっかくできた友達との関係が続くよう、自宅を改装して部屋を作り、米子市から帰ってくる週末にゲームで遊べるようにした。ゲームを好きになったことが優太さんの人生に影響していく。
 「最初は操作が難しかったけど、だんだんとできるようになりました。ゲームのおかげでスティックを扱うのが上手くなってそれが音楽制作の時も、電動車椅子の操作にも生きている。高校時代にはパソコンを学んで画像編集やデザイン制作のソフトを使えるようになったのも、ゲームでパソコンにも慣れていたからだと思います」
 憲人さんは、積極的に優太さんを連れ出した。当時勤めていた会社でテニス同好会を作り、合宿などがあれば一緒に参加。余興のバンド演奏で歌う父を、最前列で見て楽しそうにはしゃいでいたという。好きなことを楽しむ。父から受けた影響はたくさんある。
 「父とカラオケに行って音楽も好きだったし、映画を見るのも好きでした。特に洋画。好きな映画は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『エイリアン』です。テクノロジーが発展すれば、なんでもできるんだと思った。その世界が映画の中にはありました」
 鳥取市の佐治アストロパークのプラネタリウムの音楽を制作するなど、宇宙や近未来のことに関することも好きだ。その好奇心は遠い未来や広い世界を見ようとしていた。

▼音楽と出会い、社会とのつながり

 人生が大きく変わったのは、音楽との出会いだった。養護学校を卒業後、憲人さんが中心となって北栄町に就労支援作業所を立ち上げ、「ようやく一緒に暮らせ、働く場所もできた」と安心する父の思いと息子の反応は違った。
 「家から作業所まで5分で、その往復ばかりの毎日。ずっと給食の献立をパソコンに打ち込むだけでつまらなかった(笑)もっと社会と繋がりたいと思った」
 自己主張をしたい年頃。髪の毛を派手に染め、ある日は電動車椅子で片道10km以上離れた店に行ってコーヒーを飲んで帰ってきたことも。一人暮らしもこの頃に始めた。憲人さんの想像を超え、持ち前の行動力を発揮していく。そんな頃、DTM(デスク・トップ・ミュージック)と出会った。
 「たまたまネットで知った音楽を作るソフトの体験版をやってみたら意外とできた。それが音楽を始めたきっかけです。外国製のため日本語の説明は一切なく、自力で使い方を習得していきました」
 12000以上ある音を組み合わせて楽曲を作っていく過程で、実際動かしてみながら一つ一つの音を出して覚えたという。
 「ソフトにある音が多いので、良い意味で偶然の出会いがある。狙って音を作ることもあれば、その偶然性を楽しみながら作ることもあります」
 一日中、パソコンの前に座って没頭したという。2015年には日本バリアフリー協会が開催した音楽コンサート「第12回ゴールドコンサート」に挑戦し、グランプリを受賞すると、その数年後には各大会優勝者が集うチャンピオンシップ大会で準優勝に輝いた。

提供:NPO法人日本バリアフリー協会
提供:NPO法人日本バリアフリー協会

▼「怖いより、おもしろそう」が先

 「大きな舞台で演奏し、グランプリをもらったことに刺激を受けたのか、もう東京に住む!と言い出して(笑)。まぁ焦るなと落ち着かせ、困ったものだなぁと思ったけど、普通に大学四年間に行かせたと思えば東京にも行かせてやろうと思い、送り出しました」
 と、憲人さん。四年間、東京と鳥取の二拠点生活を始めると、積極性をさらに発揮。自ら連絡をして東京芸術大学長の日比野克彦氏のアートプロジェクトに参加することになると、それをきっかけに東京パラリンピックの開会式に出演。人脈を広げ、その後はパリや東京で行われるファッションショー、各種プロモーションやCM楽曲が依頼されるまでになった。どんどん前へと進んでいく優太さんに、未知のものに対する恐怖心や躊躇はないかと聞いた。
 「『怖い』より『おもしろそう』が先にある。東京に住んでいた時も、新宿の歌舞伎町に遊びに行ってみました。ゲームで地図は覚えていたし、全然怖くなかった(笑)」
 楽しいという気持ちは、何よりも原動力となった。

▼音楽を通してできることを

 好きなことで生きていくのは、簡単なことではなかったかもしれない。音楽を始めた頃、楽器屋で「車椅子が楽器に当たるから出てってくれ」と言われたこともある。でも、音楽を作っていると時間を忘れたし、自分が表現したことで誰かに喜んでもらえ、評価してもらえることが嬉しかった。音楽があればどこまでも世界が広がっていく感覚は、きっと幼い頃に見た映画の世界に感じたワクワクに似ていたのかもしれない。
 「今度、名探偵コナンのカードゲームのCMに使う音楽を作ったんです。こういう感じでとデモを渡されるけど、その雰囲気で何個もパターンを作らないといけません。でも、ディレクターに仕事が早いね、と言われました。曖昧なニュアンスを伝えられ、音楽を作っていくことも多いですが、相手とどれくらいコミュニケーションが取れるかで変わってきます。素直にその人を感じること、これが大事ですね」
 そのほかにもさまざまな依頼が来るようになった。仕事で得た収入は増えたが、「ほとんど制作のソフトとか機材に投資しました(笑)」と笑う優太さん。またそこから新しい作品が生まれてくる。
 「中途半端はやめろ、それなら突き抜けろと言っているんです」。優太さんに何度も驚かされながらも、背中を押してきた憲人さん。その関係性が今につながった。数年前から優太さんは鳥の劇場(鳥取市鹿野町)が企画する「じゆう劇場」で俳優として参加。送り迎えしていた憲人さんも気づけば俳優になっていたというから、本当によく似た親子だ。
 自分らしく生きることを見つけた今、思う。
 「この世界は(仮)。一つしかないように見えて、人それぞれで見方が変われば、違う景色が広がっている。どう見るかはその人次第。誰かが決めた枠ではない、その人らしい生き方ができ、みんなが幸せな社会を作るため、音楽を通してそれを伝えていきたい」


編集後記

なんでも楽しもうとする、怖がらずにやってみる。目の前のことをどうとらえて、自分が何をするかという点で、障がいの有無は一切関係ない。片道10km以上あるカフェに一人で出掛け、東京を車椅子で駆け回り、父に内緒で沖縄に飛んだ優太さん。取材中、その行動力に何度も驚かされた。独創的な音楽と気さくな人柄にも惹かれたが、何より枠にとらわれない生きる姿勢がかっこよかった。彼は、この世界は仮の世界だという。見ている人の見方によって変わるから、と。その言葉がずっと残っている。

藤田和俊


あいサポート・アートセンターのお仕事紹介


Hugs 2024年夏号 vol.9
2024年6月1日発行


発行/あいサポート・アートセンター

   〒682-0018 鳥取県倉吉市福庭町1丁目105番地2

   TEL / FAX : 0858-33-5151

   E-Mail : tottori.asac@gmail.com

   HP : https://aisapo.art/

取材・編集・撮影/合同会社 僕ら 藤田和俊
デザイン/森下真后
協力/鳥取県

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