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幸福日和 #073「もしもの未来」

歴史に「もしも」は無いといいます。

確かに、僕たちは現実を生きていますし、今が全てなのだから、
過去のことばかりを振り返ってはいられませんよね。
当然のことなのかもしれません。

でもその使い方を少しだけ変えるだけで、
今日が豊かになり、明日に希望がもてるとしたらどうだろう。

「過去」にもしもを使うのではなくても、
「未来」に対してなら使ってもいいのではないか。
いや、むしろ使うべきなのではないか。

そんな思いで毎日と向き合っています。

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20代の頃、がむしゃらに働きながら、
その状況をなんとか抜け出したいと思っていたことがありました。

朝は夜が明ける前から、始発に揺られて会社に向かうんです。
電車の車窓に映る光景は、明るい昼間の景色などではありませんでした。
窓には未だ明けぬ外の暗闇。そこに、ぼんやりと反射する憂鬱な自分の顔。

帰宅する最終電車の中でも、窓の外はすでに夜も深まり、窓に映る自分の姿を見るのを避けようと車両側に目をやれば、酔ぱらって心地好さそうな乗客や、いちゃつくカップルの姿。自分の憂鬱な気持ちは更に深まるばかりで毎日が終わるのでした。

ただただ、そんな毎日を送っていました。

今ではブラックだと言われるのでしょうけれど、
それが当たり前の日常だったんですね。

そんな中で、
僕は電車に揺られながら「もしも過去にこうしていたら」
ということばかり考えていた気がします。

(もしも)もっと勉強を頑張って良い学校に進学していれば、
良い環境で働けたかもしれない。

(もしも)あの業界に行っていれば、
自分の能力をもっと活かせたかもしれない。

(もしも)あの人の助言に従っていれば、
今のような日々を送ることはなかったかもしれない。

そうした幾つもの「もしも」を過去に向けて嘆くことで、
当時の自分を慰めながら、同時にそうした想いに縛られて余計に身動きが取れなくなっていたんですね。

今になって思うことは、
やはり「もしも」という言葉を過去に振り向けることは
自分の生き方そのものを否定してしまうだけでしかないのだということ。

現実と理想のギャップに嘆くだけ。
過去に戻ることはできませんし、今と過去の差を埋め合わせることなどできません。


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ある時ふと気がついたんです。

過去ではなく、
未来に「もしも」を振り向けたらどうなるだろうかと。


(もしも)この場所から、新しい別の場所に向かうとしたら、
そこには、どような景色が広がってるだろうか。

(もしも)お金があったら、大切な人に何をしてあげられるだろうか。

(もしも)日本を飛び出して世界を知ることができたら、
自分の価値をどのように表現できるだろう。

未来に対して「もしも」を考えれば考えるほど、
いろいろな想いが連鎖して止まらなくなってしまったんです。
自分の中にこれだけの思いがあったのかと思うほどに、次から次へと理想の自分の姿が溢れてきたんですね。

たしかに、今と過去の差は埋められません。

でも、今と未来の差であれば、自分の意思と行動で埋められるということにも気がついたんです。それを実現するために自分は今、何をするべきなのかということも、具体的に考えるようになったんですね。

こうして振り返って見て感じることは、
今の僕があるのは「未来に向けたもしも」の蓄積があったからなのだということ、そうして今日もこうして、その中を歩んでいるということ。

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同じ言葉でも、使うタイミングと想いの向け方で、
まったく異なる意味合いに変わってくると思うんです。

現実の環境や日常の環境は簡単に変えられないけれど、言葉や想いは個人の心がけでどのようにも変えてゆけますから、やはり言葉は良い方向に使ってゆけばいいのだと思う。

太古の昔、人は甲羅の裏に言葉を刻み運命を占ってきました。
そしてまた、世界を言葉で認識しようともしましたし、
言葉によって文明を築き未来を拓いてきたんです。
個人にとっても言葉は大きな力になるはず。

みなさんの「数年後のもしも」はどんな姿ですか?

年齢も国籍も環境も資産も関係ありませんよ。
誰にでも言葉という宝があります。

その言葉で理想の自分を思い描けていけます。
想いが大きく膨らみすぎて、
毎日が待ち遠しくなるかもしれませんね。

あとはそこに向かうだけ。

そのことに気がつけたら、
なにも不安なんてありません。


最後までお読みいただきありがとうございます。毎日時間を積み重ねながら、この場所から多くの人の毎日に影響を与えるものを発信できたらと。みなさんの良き日々を願って。