恥ずしさを抱えつつ私はゴミを拾う
吾輩は「仕組み化」が好きな人間である。
※ちなみに、猫ではないし名もある。
私は基本的にめんどくさがり屋で、特に「悩む」という行為が嫌いである。「どうしようかな?」と考えているときの脳が汗をかく感じが好きではない。(実際に脳が汗をかけるのかは知らないが)
だから悩まないための仕組みや自分ルールをつくることが多い。
例えば、服選びがそうだ。
私は服を選ぶことが嫌いだ。というより何を着ていこうか悩むことが面倒くさい。(服が好きな母や弟には「悩むのが楽しいんじゃない!」と言われるが、残念ながら全く楽しくない)
なので、服や下着は色も含めて同じものしか持っていない。これなら悩む必要はない!いや、悩めない!!
ちなみに、あのスティーブ・ジョブズ氏も元アメリカ大統領のバラク・オバマ氏も同じ服やスーツしか持っていないというのは有名な話。
現役の大統領時代のオバマ氏曰く「今日、何を着ていくか決断することに力を使いたくない。私には他に決めなければならないことがたくさんあるからね。」とのこと。(現役の大統領が言うとカッコイイですね。)
あとは、電車。
皆さんも経験がないだろうか?改札口とは反対側のホームに自分が乗りたい電車が入ってきた。走ればギリギリ間に合うかも。でも、次の電車でも別に問題はない。さあ、
走る?走らない?
私は35℃超えた日でもサッカーをやるような人間だ(本当はやっちゃいけないんだけど、大人の事情というものがありまして)。走るのは好きではないが、苦手ではない。「走るか、走らないか」悩むのが嫌なのだ。
だから、
「自分が改札を通る前に電車がホームに入ってきたら走る!」
「自分が改札を通るより前に電車がホームに入ってきていたら走らない!」
と決めた。
このタイミングで走ればほぼ確実に間に合うという計算もある。気分的に走りたくないときでも上記のルールに従って電車より自分が先ならルールに従い「仕方ないか」と思いながら走る。別に走らなくても予定には間に合うし、サッカーのコーチに「走れよ!!」と怒られるわけでもない。でも、走る。自分の感情はどうだっていい。何も考えずに(実際は色々と考えているが)走る。自分で決めたルールだから。
こんな感じで私は自分でルールをつくりそれをなるべく守ることを習慣にしている。そして、そのルールの1つが
「落ちているペットボトルや缶を拾う」
ここまでの長い前置きにお付き合いいただきありがとうございます。ここからが本題です。
なんでって?
それがルールだから(笑)
それにゴミが落ちているよりか、落ちていない方が良いじゃないですか。
本当は(上記も噓ではないが)下記の本を読んで「運を貯める」という考え方を知ったから。
詳細は是非、本を読んでもらいたい(別に私に印税は入らない)ので省くが、簡単に言うと
「運は良い・悪いではなく、ポイントカードのように貯めて使うもの」
「自分のリソース(時間、お金、労力)を誰かのために使うと運は貯まる」「逆に誰かからリソースをいただくと運を使ったことになる」
流石にこれだけだとチンプンカンプン(←死語じゃないよね?)だと思うので、「あなたが友人の引っ越しを丸一日かけて手伝ったときのお礼の品」を使って具体的に説明してみよう。
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引っ越しを手伝ってくれたお礼にと、友人はうまい棒を1本くれた。
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これまで10円で買えたのが、最近12円に値上がりしたとは言え、1日引っ越しを手伝ったお礼がうまい棒1本とは、なんとも寂しい。「3度の飯よりうまい棒がいい!」という信念を持ち合わせていない人でない限り「引っ越しの手伝い > うまい棒1本」と考える人が多いのではないだろうか。
つまり、相手にしてもらったことと比較して、自分がしたことの方が価値が高いことを意味する。これこそ運を貯めた状態だ。
では次に、
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引っ越しを手伝ってくれたお礼にと、友人は特上鰻をご馳走してくれた。
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私も先日、特上鰻食べましたよ!美味しかったけど、そこそこのお値段したから、「この半額で食べたナンお代わり自由のインドカレーの方が満足感は高いかも」と、なんとも複雑な気持ちに(基本、貧乏性です、、、)。これが人のお金ならもっと楽しめたのではないかと思う。友人としてあくまで好意で引っ越しの手伝いに行って特上鰻にありつければ「引っ越しの手伝い=特上鰻」と考えて良いのではないだろうか。
つまり、自分がしたことと相手にしてもらったことの価値が同じことを意味する。この場合、運は貯まらないが、使ってもいない状態だ。
最後に、
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引っ越しを手伝ってくれたお礼にと、友人は現金10万円を包んでくれた。
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「友人に10万円払うなら引っ越し業者に頼めば良いじゃん!」という声が聞こえてきそうだ。(ちなみに、私は業者に頼んだが1万円で済んだ)。多くの方が流石に10万円は貰いすぎだと感じ「引っ越しの手伝い<10万円」と考えるのではないだろうか。
つまり、自分がしたことより、相手にしてもらったことの方が価値が高いことになる。これが運を使ったということだ。
また前置きが長くなりそうなので、ここで話を戻すと
私は運を貯めるために落ちているペットボトルや缶を拾っている。見返りを求めているわけではない。自分が貯めた運を使わずに私の寿命が尽きるかもしれない。それでもいい。自分の貯めた運をこの世の中に残して、その運を誰かが使ってくれればそれでいい。別に「ペットボトルや缶を拾う」じゃなくても良かったんだけど、簡単にできそうだと思ったからとりあえずやってみることにした。
ちなみに、そのルールを実行するうえでのルールというか心掛けていることもいくつかあるので紹介しておくと。(どんだけルールが好きなんだ・笑)
・拾うのは基本的にペットボトルや缶のみ
→その他のゴミも含めるとキリがないし、中には色々な意味で拾ってはいけないものもありそうだから。これは拾う、これは拾わないと悩むのが嫌だし、例外をつくってしまうと、この習慣は続かない。
・基本的に目に入ったペットボトルと缶は絶対に拾う
→自転車に乗っているときは自転車から降りてでも拾っている。
・拾えないことで悩まない
→上記と矛盾するようだが、そのときの事情で目の前に落ちていても拾えない(拾わない)ときもある。そのことで落ち込まない。そもそもこの世の中どころか市内に落ちている全てのペットボトルや缶を拾えるわけじゃないんだから、ここで自分が拾えなくても世界は何も変わらない(はず)と良い意味で開き直る。同時に自分がペットボトルや缶を拾うことで少しでも世の中が良くなるかもしれないともわりと本気で思っている。
このルールをつくってから1年が経過し、様々な気付きがあったが、やってみて1番感じたのは
ゴミを拾うのって恥ずかしい
ということだ。
これには私自身とても驚いた。別に悪いことをしているわけではない(むしろ、どちらかと言えば良いことをしていると思っている)。なのに、周囲に誰かがいると拾うことを躊躇してしまう。なんなら、自分の後ろを歩いていく人が自分を追い抜くのを待ってから拾ったこともある。
みんなで一緒にゴミ袋を抱え、軍手をして、人によっては、あの”はさむやつ”(←通じるよね?)を持っていれば堂々と拾える(俗に言う「皆で〇〇すれば怖くない」である)。なのに、通勤途中にその輪から抜け出し、落ちているペットボトルを拾おうとするには、まるで100人程が参加している講演などで「質問ある人いますか?」と聞かれ一番最初に手を挙げるくらいに勇気がいる。
なぜだろう。
状況を場面ごとに切り取って分析してみよう!
まずは、「いつ」恥ずかしいと感じるか?
、、、
、、、
皆さん準備はよろしいでしょうか???
せーのっ!
拾う瞬間だ!(今ではない)
「ペットボトルや缶を持って歩いているとき」や「ゴミ箱に捨てるとき」に恥ずかしさは感じない。「自分で飲んだものですが、何か?」という感じで堂々している。
次にシチュエーションだが、既に話したように皆で拾っていれば怖くもなんともない。また、例えば、ビルの前にペットボトルや缶が落ちていたとしてそのビルの警備員や管理人とか、ビルに入っているテナントのスタッフとか、掃除をしていても不思議に思われない(だろう)立場というか、役割の人としてペットボトルや缶を拾っていれば、恥ずかしさを感じないだろう。
つまりだ。
自分が落としたものでもなければ、その場所の所有者的な立場の人でもなく、ペットボトルや缶を拾うという役割を公的に認められたような役回り(清掃ボランティア活動など)でもないのに、わざわざ大多数の人がやらないようなことをやっている(人と違うことをしている)と思われているんじゃないかと思われていることに対して恥ずかしさを感じているのだ。そう、自分の行動ではなく、「あの人、なんで落ちているペットボトル拾っているの?」と思われている(かもしれない)ことに恥ずかしを感じている。回りくどく書いたが、要するに
「周囲からどう思われているか」
を気にしているのだ。
その証拠に、たまに自分以外の人が落ちているゴミを拾っているのを見かけると安心する自分がいる。(実際にそんなことはないと思うが)ペットボトルや缶を拾っていることを問い詰められたときに「でも、自分だけじゃないですから」と言い訳できるように。
そんなに色々と考えるなら「辞めれば良いのに。」と思った方もいるだろう。その通りだ。でも、自分で決めたルールだから。
「ゴミを拾う」という世間一般で考えたときに良いと思われることをする場合でも、人と違うことをしていると恥ずかしさを感じる。物心ついたときにはオーストラリアにいたので、もしかしたら実はオーストラリアで生まれたのではないかと考えていたことのある私が、自分が”made in Japan”であることを再認識した瞬間である。
私は「落ちているペットボトルや缶は拾う」ということを決めたから、それでも拾える。でも、世の中には「拾ってみようかな?」と思っていても恥ずかしさから行動に移せない人もいるのかな?と思ってしまった。
少しでも落ちているゴミを当たり前に拾えるよう、「同じ行動をしてくれる人が増えると良いなぁ~」と、思っていることにこの文章を書きながら気付きました。そもそもゴミをその辺に捨てないことが大事だけどね。
「落ちているペットボトルや缶を拾ってみたら恥ずかしくなった」
これが私の「やってみた大賞」
そういえば、やってみたと言えば、「オンライン家庭教師」もやってみた。※決して、この1行と↓のリンクのためにここまで文章を書いたわけではないよ。本当に「そういえば!」と思い付いたのだ。
「勉強があまり得意ではない方」や「発達障害を抱えた方」の学習サポートが得意です!
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なんか番宣のためにバラエティー番組に出演した俳優さんみたいな終わり方になったけど、以上です(笑)