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宮崎駿と半藤一利のおかげで

久々に見た圧倒的知性のぶつかり合い

 本日、宮崎駿と半藤一利の対談の番組をYouTubeで見た(あえて番組名は書きません)。パヤオマニアの僕はもちろん過去に何度も見ていた。そして本日、YouTubeのホーム画面に上がっていたので、久々に最後あたりを見た。

 いやあ、やっぱり凄い。2人の知性が。こんなふうに対談できる2人の人間ってなかなかいない。軽薄な現代人のままじゃ絶対に無理。ファッショナブルな文化論や芸術論を語る連中は数多かれど、ここまでしっかりとした知性を持って話すことのできる日本人が、今どれだけいるだろう? この2人の話を延々聴いていたいと思った。

 宮崎駿が半藤一利をアトリエから見送り、番組は終わった。僕は2人の対談にあらためて感服していたが、宮崎駿も半藤一利に「感服」したと述べていた。感服しきりだ。

一気に夢から醒めた

 僕は今回、たぶん10分ぶんぐらいしか見ていないと思う。しかしさまざまなことを感じた。特に、今の自分の軽薄さだ。なんて安っぽいものに振り回されていたんだろう、まるで現代人そのものじゃないかと、現在の自分の愚かしさを俯瞰することができた。

 現在の自分の特に愚かしいのは、ある人に振り回されていることだ。自分がゲスだからこそ、そんな事態になっているのだ。ハッキリ言うと、客観的に見れば相手はかなりのゲスだ。そんな人を「いや、あの部分は良いのでは」とか「もしかしたらすごくいい人かもしれない」などと考え、そのワケの分からなさに魅力さえ感じてしまっていた。拒絶と憧れ。それは苦しく、相反する思いに引き裂かれるようだった。

 だが、長く続いたこの苦しみも、2人の”おじいさん”の対談を見たことで、いつの間にか夢のように消えた。というのも、自然と視点が高いところに持ち上げられ、自分の薄っぺらさ、愚かしさに気付かされたのだ。長いことできていなかった〈自己客観視〉ができた。いや、自己客観視すらスッ飛ばして、一気に自分や周囲の本質が見えたのかもしれない。IQが急に上がったようだった。

正気

 というわけで、先ほどの〈ある人〉への執着や、それに伴う苦しみから解放された。唐突すぎてその欠落に動揺しているくらいだ。「あんなことで悩んでいたなんて信じられない。人生が勿体ないだろ」という、今のクールな自分の声が頭の中で聴こえてくる。まさにその通りだ。人生にはもっと大事な、意識を傾けるべきことがある。

 動画を見ていて、さらに感じたこと。2人とも、つまり宮崎駿も半藤一利も、「気高い」のだ。愚かしいことには付き合ってられないだろう。というか、あまりに低レヴェルなものはマトモに相手にしないし、ほとんど眼中に入ってこないだろう。高い知性は、まず気高さから来るのかもしれない。

 対談後、宮崎駿は半藤一利を評して、「正気ですね」と言っていた。だがそれは2人ともに言える。現代の低俗でゲスなあれやこれやに踊らされていない。そんな愚を犯すには知性が高すぎる。

 高い知性は、愚かしさという苦しみから解放してくれる。まずは少しでも高い視点から物事を眺め、冷静に、正気でいるようにしたい。あ~、おかげでラクになった。

(了)

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