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ぼくが僕になるまで(少年期④)

★自分の世話は自分で見れると思っているうちは、まだガキだ。

 協定その四: マンションの他の住人にはちゃんと目を見てあいさつする。

 爪先で探り、扇風機のスイッチを入れた。弱のボタンの上に赤いランプが点き、扇風機はゆっくりと稼働し始める。首が動き、空気の流れを部屋に作る。三十度ほど首を回転させて、また元の位置へ戻る。古いのか、常にカタカタと何かに擦れる音がする。
 甲野さんは窓際に立ち、オーガスタの世話をしている。夜の寒気から守るため、夕方に必ずオーガスタをカーテンの内側に招き入れている。葉を巻き込むことのないようカーテンは窓に、鉢はしっかりと両手で支えて部屋の中へ。葉っぱをめくり、目につかない葉の裏まで一枚一枚確認する。個別の挨拶が済むと、遠ざかり、全体の調和も確認する。


 確認がひとまず終わると甲野さんは振り返り、鉢を引き連れてしまわないようカーテンをたくし上げてから窓枠の上へと腰を下ろした。甲野さんが座るとなると、それだけで窓枠はいっぱいになる。「おまえ、将来なんになる気だ」甲野さんはすっきりとした笑みを浮かべていた。
 ぼくは甲野さんの視線を避け、目線を床へと落とした。床は塵一つなく、体育館のフローリングのように光り輝くまで磨かれている。「いまのところ弁護士か医者にでもなろうと思ってる」
「そりゃ大したもんだな」甲野さんははっきりと笑う。「畑が違うところが少し気になるが。なんだ、次はMBAでも取るつもりか」
「そういうんじゃなくってさ。まあ、どっちかになれればって話」
「ほう、頼もしいこった」
 ぼくは床から視線を上げた。甲野さんは口角に付け加え、眉もつり上げていた。「そういえば甲野さん、前に大企業で働いてたって言ってたよね」
「そうだな」甲野さんの顔から笑みだけが消える。そうすると、眉だけが上にポツンと取り残される。「そんな時もあったな」
「それが今ではフリーライターってわけだ」
「なるほど」甲野さんはニッと笑う。「お前は俺をクズ呼ばわりしているわけだな。社会に揉まれて落ち零れていったクズだと」
「そうは言ってない」
「ごまかさなくっていい。ごまかしは誤解を与えるし、焦点がぶれる。俺には気を遣わないでいい」甲野さんは窓枠から腰を上げた。「どうだ、腹減ってないか」


 甲野さんは窓から離れ、台所に向かう。天井からぶら下がる紐を引くと、長い予備動作のあとで白い光が灯る。冷蔵庫のドア枠に手をかけ中の様子を窺い、奥から蓋の青いプラスチック製の保存容器を取り出してきた。中から取り出したその容器を、視線と平行になるまで持ち上げ、下の方から中身を推測する。甲野さんは納得がいかないように眉をしかめた。
「これでもいいか?」受け取って蓋を開けてみると、中にはきゅうりの塩漬けが入っていた。きゅうり全体に、輪切りにされた唐辛子がまぶされている。「お前にはもっと身になるものを食わせたいんだが」
 ぼくは肩をすくめてみせる。
 甲野さんはぼくの顔をまじまじと見る。「お前はもっと食わなきゃだめだ」
「そんな必要ない」
「いや、お前は自分が思っている以上に栄養が足りてない。子供は腹に入るだけ食うべきだ」
 甲野さんはシンク下の引き出しから爪楊枝を二本出し、一本をぼくにくれた。
「自分の腕を見てみろ、それじゃ掴んだだけで二つに折れちまいそうだ」
「甲野さんと比べればね。でも甲野さんぐらい腕が太いやつなんて周りにいない」
 甲野さんは唇を噛む様に内側に丸め、ぼくの横の机の上に腰を下ろした。日頃の成果か、甲野さんの腕はぼくの腕の二三倍は太かった。それぐらいの腕の太さがあれば、大概の子供の腕はへし折れてしまうはずだ。ぼくじゃなくたって同じこと。ぼくじゃなくたって。
 爪楊枝で刺して、きゅうりを一口食べてみた。予想より塩辛くなかった。
「これ、自分で作ったの?」
「ああ。これを作ったと言っていいかは議論の余地が残るが」甲野さんも爪楊枝できゅうりを一つ刺して食べる。「なんだ、意外か?」
「腹が減れば外食でもしてるのかと思ってた」
 甲野さんはにやりと笑った。「そういう時もたまにはあるが、大抵の飯は自分で作る。外で食うとなるとコメの量が多くて困るし、なにより味が濃い。自分で作った方が好みの味つけにすることができるし、その日の体調に合わせて食べる量を調節できる。食材を残さなくていい。それに肩が凝った時のいい気分転換にもなるしな。創作で食い扶持を稼いでいるやつは、ぜひともやるべきだ」甲野さんはきゅうりから出る水分を余すことなく絞り出したいのか、一個のきゅうりを何度も何度も噛んでいた。

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