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デリカシーのないぼくが僕になるまで

★少しの間、これでしのいでおいてくれ

 ミユが目を醒ましたようだったので、僕は椅子の背凭れから胸を剥がしキッチンへと向かった。ツマミに手をやり、テフロン製のフライパンと小ぶりの鍋を火にかける。火が付くと、僕は背中越しに、役割を果たし終えた弾道ミサイルのようにソファに身体を横たえているミユに向かって、「よく眠れたかい?」と声をかけた。両雄の調理器具に熱が行き渡るまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。フライパンを押し出すように揺するとパシャパシャと液体の揺れる音がした。いくらやってもフランベのような大きな音にはなりそうにはない。コンロのツマミを回し、火を弱めてから僕はリビングに戻った。けれど、ミユはまだ起き上がってはいなかった。眠りと現実との区別がつかないようにうっすらと目を開けてソファに横たわっていた。


 僕はソファの前を通り過ぎて窓際まで行くと、カーテンの裾から外の景色を眺めた。もう夕暮れも終わりかけで、空に浮かぶ厚い雲はオレンジ色に染まっていた。その上には星に先だって、真っ白な月が早くも登場している。だいぶ過ごしやすい気温になってきた。窓から忍び込む風が快適さに拍車をかける。クーラーも扇風機もいらない。そんなもの、最初からないものだと思えばいいのだ。


 カーテンを元通りにし、キッチンへ帰ろうと振り向くと、ミユがソファから起き上がっていた。ミユはソファの曲率の一番高い先っちょに、まるで面接官の前にいる怯えきった学生ように背中をぴんと伸ばして座っていた。鼻の上には、潰されないよう僕があらかじめテーブルに移しておいた丸縁の眼鏡。でも、眼鏡をかけているからといって、目覚めでぼやけた世界がより鮮明によりはっきりと映ることはない。ミユが僕の部屋に持ち込んできたのは度の入っていない伊達眼鏡なのだ。ミユはその直立した姿勢で、「帰るわ」と言葉少なに唇だけを動かして言った。「だいぶ長い間お邪魔しちゃたわね」

 そう言いながらも、ミユは動くそぶりを見せなかった。礼儀正しい姿勢を崩さず、何かに緊張しているような姿でソファにじっと座っていた。ゆっくりと息を繰り返しながら、部屋が何も見えない暗闇となるまで待っているように。全てのものが一切の輪郭を失い闇へと溶け込んでいく。その瞬間を希望ではなくいくぶん受動的な気持ちで待っているかのように。


 しばらくして何かから醒めたかのように瞬きすると、やっとミユはソファから立ち上がった。そして、まるで僕の視線を避けるように下を向いたまま、青いロングスカートを手でパタパタと波打たせると、寝ている間についたシワを取った。「さっきは変なこと言ってごめんなさいね。また今度連絡する」シワを伸ばしおえると、ミユは顔をもたげ上げた。細い眉が持ち上がり、口元が微笑みを形作っていた。微笑みを象るミユの唇は年上の人に囲まれている時のように、横に長く広がっていた。


「ずいぶんと長く寝てたよな。それじゃあきっとお腹が空いているに違いない。それを見越して、優しい誰かさんが料理を作っておいてくれたみたいだ」僕はミユから目を離さなかった。
 眉は自然な位置に向け少し落ちかかってきていたけど、口元はまだ微笑みを形づくっていた。解いておくのを忘れてしまったみたいに、唇だけが横に向けて広がっている。「あなたに悪いから夕食は家に帰って食べるわ。昨日の残り物が冷蔵庫にあるの」
「それってたった一日置いただけで腐るのかい?遠慮せず食べていけって。もう作っちゃったんだからさ」
 僕の言葉が上手く聞き取れなかったかのように、ミユは何も言葉を返してこなかった。口元から微笑みが消えると、彼女の表情は途端に生気のないものに移り変わった。頬も白く、少しやつれたようだ。「まあ座って待ってろよ」僕がキッチンに向かって歩いていくと、ミユは愛用にしていたソファにまた座り直してくれた。座ったといっても立っている時と同じぐらい背筋をピンと伸ばしている。そこが寛ぐ場所ではなく、そうしているのが見た目におかしくないという、ただそれだけの理由で。


 僕はキッチンに行くと蛍光灯を点け、やり残していた夕食の準備に取りかかり始めた。手をかざすと、さっき火を点けておいたフライパンと鍋がいい具合に温まっていた。あぶくが出ない程度にまで火を弱め、どちらにも蓋をしておく。保存容器に詰めたゴハンを二人分冷凍庫から出し電子レンジにかける。ゴハンを温めている間に冷蔵庫から野菜スティック用としてキュウリとニンジンを出し、それぞれ持て余すことなく、また指よりは長いぐらいに寸法を合わせて切っておく。どちらも二等分にすれば上手くいきそうだ。規格に合わせて野菜は作られているおかげでフォルムの如何で悩まされたことはない。まずは皮をピーラーで剝ぎ、それから端を切り落した。僕がいそいそとキッチンで夕食の準備に取り掛かっている間、ミユからは何も話しかけてこなかった。なんと静かなものだ。ソファに座っている彼女は暗闇の中へと溶け込むことに持てる力を全て傾けているのだ。人の気配の混じることのない、深い暗闇の中へと。


 実際の室内は静かだとはとても言えない状況にあった。料理人としての僕の腕が冴えわたる調理場からは、まずもってガスコンロが出す火の音がしているし、それにフライパンや鍋が出すぐつぐつという音もしているのだから。もちろん切断、撹拌、移動などの処置に際して出る分別不可能な音もある。けれど、そんな音がいくら響きあったとしても彼女の耳には届いていなさそうだった。例えここがダンスフロアで陽気な人間たちが一堂に会し、騒音に合わせてせっせと自分の四肢をみだらに揺れ動かそうとも、彼女一人は奥深い端っこのところに座っているだろう。音も、色も、形もみんな彼女の前を通り過ぎていく。いや、通り過ぎていく他ないのだ。


 キュウリとニンジンを適度な長さに切り終え、それらをミユから譲り受けたマグカップに交互になるよう立てかけた。生野菜ではさぞ味気なかろうかとの配慮から、冷蔵庫から味噌とマヨネーズを出して重なり合わないよう小皿に塗り付ける。使った味噌とマヨネーズは冷蔵庫にさっさとしまう。あとやることと言えば、前菜として彼女の前に給仕しに行くことぐらいなもの。電子レンジのドアの前に立って身構えておくほどには、冷凍ご飯は微妙なさじ加減を必要としていない。
「少しの間、これでしのいでおいてくれ」


 一息もつくことなく僕は給仕したその脚でキッチンへと戻り、フライパンからトマトで煮込んだハンバーグを深い皿へと移しはじめた。鍋からは具がたくさん入ったミネストローネをボウル型のカップに取り分ける。取り分けた後に飾りとして千切ったバジルを一つまみ入れておいた。彩りはばっちりだ。それらもまたもやテーブルに持っていくことになる。一息つきかけたところで背後からチンという完成音。冷えきっていたゴハンもやっと温まってくれたわけだ。全てが一つのタイミングで出来上がると、何はともあれ嬉しくなる。キッチンの電気を消し、二人分のスープを手に僕はテーブルに向かった。テーブルの上に置いておいた野菜スティックはまだ一つも売れていなかった。ミユは野菜スティックには手をつけずに、容器であるマグカップそれ自体に視線を降り注いでいた。マグカップの一つの特徴として、内側に美術館オリジナルのロゴマークがプリントされているが、僕が普段使いしているために、そのロゴはコーヒーに洗われ薄くぼやけている。その日々の格闘の証であるコーヒーの痕を、ミユは親しい友人が生前に書き残した日記か何かのように見つめていた。


 テーブルにスープの入ったカップを僕が置こうとすると、彼女は初めて僕の存在に気付いたかのように顔を上げてくれた。そんな目で彼女に見られると、どうしたって止まって注目を集めるほかない。次回来た時に僕の存在を彼女に気づかせられる自信は残念ながら僕にはない。
 僕が見ている中、ミユは目を瞑った。瞼をしっかりと意識してのことだった。追い出したいというよりは、束の間だけでも閉じこめておきたいようだった。しばらくして目を開けると、「ソファに座って」と彼女が言った。僕はカップをテーブルに置いて、彼女の横に腰を下ろした。
「ねえ、マコト」彼女の声は、抑揚のない声だった。

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