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CRISPR(クリスパー)究極の遺伝子編集技術の発見(ジェニファー・ダウドナ著)を再読し、コロナ後の世界を考える

究極の遺伝子編集技術として2012年に発表されたCRISPR-Cas9。発表されて間もない頃に一度読んでいたが、今般The Tangled Treeを読む中、人の遺伝子の8%がウイルス由来という件に既視感を覚え、そうだ、ダウドナの本に書いてあったなと思い出し再読してみた。

この技術が開発される前は、無害化したウイルスを運び屋として使う方法、即ち無害化ウイルスに遺伝子を搭載し、ターゲットに向け打ち込むという方法がメジャーだった。いわゆる遺伝子組み換えというものである。商業作物に用いられるようになったのは2000年頃だろうか。私自身、当時大豆のトレーダーをやっていて、遺伝子組み換え大豆が登場したために、これが非遺伝子組み換え品と混じらぬよう分別管理流通という手間のかかる流通体制の構築に関わった経験が今でも忘れられない。遺伝子組み換え作物は不気味なモンスター食品として取り上げられ、生態系に意図せぬ影響を与え、人体への悪影響も計り知れないというイメージがメディアで形作られたのである。確かに、当時の遺伝子組み換え技術は、たとえは悪いが謂わばスカッドミサイルのようなもので、成功精度が低いのみならず、ターゲットまでの道のりで問題が起きるリスクも否定できず、普及の速度は遅かった。

これに対し、2012年に発表されたCRISPR Cas9は、細菌がウイルスを撃退するメカニズムを研究する中で発見された、ターゲットウイルスを切り刻む役割の酵素Cas9と、Cas9をターゲットに確実に誘導するRNAを組合わせ、狙った通りに遺伝子を編集できるという優れたツール。スカッドミサイルの遺伝子組み換え技術に対し、こちらは謂わばパトリオットミサイルの精度で且つターゲットをピンポイントで破壊した後、そこに搭載した編集用遺伝子を嵌めるというもの。これを用いると、非常に高い精度で狙った遺伝子を思いのまま編集することが出来る上に、従来の技術に比べて極めてコスト的にも非常に安価であり、高校生でも気軽に利用できるキットとしてCRISPR Cas9が普及しているという。

ダウドナ曰く、生物は過去に侵入してきたウイルスの遺伝子情報を自らの細胞のDNA内に記録しているという。そして記録した遺伝子を容易に識別できるよう、回文形式の遺伝子でこれを挟み込んでいるというのだ(この回文構造をCRISPR、即ちClustered Regularly Inter-spaced Short Palindromic Repeatsという)。回文とは「たけやぶやけた」のような、上から読んでも下から読んでも同じ意味となるものであり、遺伝子の話でいうと、DNAは4つのアミノ基(アルファベットの頭文字を取ってA、C、G、Tと言われる)の組み合わせなので、ウイルス情報は、AGGTCC<ウイルス情報>CCTGGA、というような形で保存されている。そして細胞内にウイルスが侵入した際は、細胞がウイルス遺伝子情報をメッセンジャーRNAに複写し、メッセンジャーRNAは酵素Cas9と共に、細胞内を素早く動いて複写された情報と同じ遺伝子を見つけ出し、これを切り刻むというメカニズムでウイルスを撃退するという。

遺伝子編集ツールとしてCRISPR Cas9が発見されて以降、遺伝子編集技術の進歩は目覚ましい。Natureの2018年の記事には、3,588種もの生物に備わっている様々なCRISPRやCasの分類に関して紹介されているが、わずか5年ほどの期間に世界中で研究が大きく進んでおり、世界規模の巨大データベースが構築されていることが見て取れる。難病治療にも効果が見込める分野であり、多くの資金と人的リソースが割かれ、今も日進月歩で進歩していることが容易に想像できる。

一方、本技術の応用は倫理的問題も絡むため一筋縄ではいかない。遺伝子編集によりHIV遺伝子を取り除いたベビーが生まれたという衝撃的なニュースが駆け巡ったのは2018年のこと。ダウドナの著書も技術的な記述は半分程度で、残り半分はこれが実社会で応用された際の懸念が述べられており、実際に中国の科学者によるヒト胚にCRISPRを使った論文が発表されたことも紹介されている。人間が人間の遺伝子を改変することはどこまで許さるかという議論は、遺伝子編集ベビーの研究者に懲役刑が科されたことで、中国のような国であっても簡単に進められる話ではないという整理が一旦着いたと思われる。

しかし、ここに来てコロナウイルス問題が起きたことで、倫理的に応用が躊躇われた遺伝子編集技術が、コロナを乗り切るために一部の国で積極的に利用されるようになるかもしれない。たとえばコロナを含めた感染症への耐性を遺伝子編集技術が開発されれば利用する国が出てくるだろう。また具体的な実例を重ねる中、遺伝子編集応用へのハードルが低くなると、優生学的でおぞましいとされてきたDesigner Babyを実際に試す国まで出てきても不思議はない。今、世界で支配的な民主主義的価値観の下では想像し難いものの、欧米諸国がコロナによる社会的混乱を抑えることが出来ず、ポストコロナ(アンダーコロナと言うべきか)で迷走を続けるようであれば、既存の価値観が崩れ、人類サバイバルに最適な社会として、ユヴァル・ハラリ教授のホモ・デウスが席巻する世界が一つのシナリオとして起こり得るかもしれない。勿論そのような世界は望みたくないが、一つの価値観を絶対的なものと信奉して思考停止に陥るよりも、Worst Scenarioも想像しながら、今後の打ち手を考えていくことが求められていると思う。

最後に、冒頭の人の遺伝子の8%がウイルス由来というのは、同著ではこのように過去に細胞に侵入したウイルスに関する情報の保存量がDNA全体の8%をも占めるというのだが、実際にはThe Tangled Treeで言われているように、ウイルスが人体に侵入してそのまま組み込まれ一体化した事例もあるので、8%全てがウイルス撃退用アーカイブということではないのだろうと思うが、これに就いては今後の研究課題の一つとしたい。




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