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デス・レター(ライブハウスに意味はあるのか)


といっても、俺は、ライブハウスに対して、なんらかの批判や提言をしたいわけでは毛頭ない。そもそも俺は、提言をしたくて一連のブログを書いているのでははない。身の回りに起こることのうち、自分に関係あって且つ、それが自分の思考の幅を広げたり、自分の未熟に気付いたりして初めて、文章を書く気になるのである。

そうは言っても、この2ヶ月、失職をいいことにライブハウスに観に行くことが増えると、自分が出ている身であるから尚更、思ってしまう。一体、ライブハウスは何を目指しているのだろうか、と。

予備校の講師をしていた時、常に心掛けていたのは、「楽しくやろう、俺も生徒も」という事だった。教室は常に笑いに溢れ、俺も生徒も朗らかに学び、学ばせてもらっていた。だが、楽しむことがその場の目的であるはずがない。生徒にとっては、それは大学に受かる事であり、俺にとっては、金を稼ぐ事であった。当然だろう。

楽しくないライブハウスのイベントは、ゴミ以下だ。だが、楽しかったらそれでいいのか?いいわけがない、と俺は思う。であるから、自らのイベントでは、俺を含めた当事者、お客さん全てが、何というか、ハッとしたり、驚いたり、そういった「気づき」のようなものを得てもらうように、イベントを作っているつもりだ。

では、その気づきは、何のためにあるのか?それは立場によって幾つかに分かれるだろう。

出演者にとっては、気づきとは間違いなく、売れるためにある。売れるとは、CDの売り上げであれ配信であれ知名度であれ、ともかく広く名が知られ、報酬が得られる事である。その第一歩として、技術的であれ、マインドであれ、場合によっては自身の存在そのものについて、何かを気づいて、改善に努める。あるいは、他のバンドを見て、嫉妬したり批評したりして、自らに反映させて、やはり向上に努めるのである。

そして、これまで見てきたうち、少なくないハコに、この雰囲気が全くなかった。残念ながら、なかった。帰りの道々「これでいいのだろうか?」と首を捻ること一度ならずだった。自家撞着というか、閉塞というか。だが、見渡せば、お客さんも演者もみな、楽しそうなのである。俺だけが取り残されたように感じたのは、言うまでもない。楽しさの自己目的化のサークルに、俺は溶け込め(ま)ない。

俺たち→も、当然、売れたい。俺たちの歌の大部分が内容的にクダラナイのは、俺の、「歌にはユーモアが必須である」という、作曲ポリシーにすぎない。「楽しい」という事は、目的でなく、前提なのである。

では、ライブハウスとしては、どうなのだろうか?やはり楽しかったらいいのだろうか?そんなはずはない。営利団体私企業である以上、儲からねばならない。ならば、楽しくて儲かったら、それでいいのだろうか?多分そんなはずはない。彼らにも志は絶対にある。考えられるのは、出演してくれたアーティストが売れることであろう。売れれば、ハコの評判という即物的な側面でも、応援してきた甲斐があるといった、マインド的な側面でも、満たされはする。だが、前にも書いた通り、売れるとは、日本音楽産業におけるいわゆる「メジャー」のアーティストに見られる均一的な音質、フォークを源流とする歌詞、歌謡曲から剽窃された歌唱、といったいわば「紋切り型」に落とし込まれること、目に見えている。演者のうち、ある者は進んでその傾向に同化し、特徴を失う。ある者はそれを嫌い、我慢をするかライブハウスを去る。つまり、楽しむことにしか、目的を見いだせなくなる。こうして、ライブハウスにおける円環構造は、完成してしまう。我々は、ライブハウスに、日本社会の平準化、刹那主義、同調圧力の縮図を見ることができる。

→は売れたい。ならば、俺にとっての売れるとは、日本以外である。あるいは、ロック=美しい異物=驚きを禁じ得ない何か、という価値体系を持っている日本の人々(ごく少数だが、そういった人々は確実にいる)に対してであろう。そのためには、差し当たって俺自身が、驚きを体現しなければならない。驚くための感受性を持ち、驚かせる音楽を作ろう。「いい音楽」よりも「驚くべき音楽」を。それが出来て初めて、日本のロックは、世界に出ていける。

俺はこう思っているのだが、ライブハウスの中の方々。彼らはどう思っているのだろう。聞いてみたい。思うことあれば。広く意見を拝聴いたします。

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