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デス・レター(音楽は虐殺ストップのために何ができるか)


SUGIZOというミュージシャンが被災地に行ってボランティア活動をした時のセルフィーが、失礼だだのデリカシーがないだので糾弾されている。確かに自撮りは何か下品を孕むし、ボランティア活動はそもそも、名乗ってしなくても良い。だが、恐らくSUGIZOは、自らの著名を利用して「俺は行動した」と主張し、被災地の(未)復興の現状を広めようとしたのだろう。その心自体はむしろ認められるべきで、デリカシーがないだのの茶々を入れることになんの意味があるのか、とは思う。

これと同じことを、パレスチナに赴いて行うことは、日本人のほとんどにとって、不可能だ。そもそもパレスチナが封鎖されていて、入れない。こちら(つまり俺)の側でも、渡航費がない。助けたいの気持ち山々だが、どうしたものかとなる。取り急ぎFree Palestine!と叫べば、馬鹿どもが茶々を入れにくる。イヤな国だぜ日本は。

上記の通り、俺は、IDFの行為は虐殺だと考えているし、SUGIZOに茶々を入れる日本人もクズだと思っている。そして、最も重要なことは、SUGIZOのとった行動は、アーティストの武器を全く活かしていないということである。彼の行動は、音楽家ではなく、著名人としての行動だ。それは言い換えれば、この非常時に音楽は無力であるという、即物的な諦観である。そして話は、「非常時に音楽は必要か」という、議論し尽くされたかのように見えるクリシェに逢着するのである。

音楽(家)に、何ができるのか。

ここで唐突に、先般敢行された、タッカー・カールソンによるプーチン独占インタビューを、俺は想起する。断っておくが、俺はカールソンが大嫌いだ。トランプの片棒を担いだ嘘つきヤローだからだ。だが、今回彼がやったことは、彼の意図しないところで、称賛されることだと、考えている。インタビューの内容が、ではない。彼がプーチンに、直接話を聞きに行ったこと、そのものが、である。

彼は恐らく、このインタビューが、自身が立つ極右勢力の主張の後押しになると思っていただろう。だが、彼はプーチンに対峙するにはあまりにも無知だった。そしてその無知が幸いして、彼は期せずして、東西の窓口になったのだ。インタビューが進むにつれ、彼は聞き役に徹するようになった。プーチンはしゃべりにしゃべった。ここでもカールソンは、期せずして傾聴者の役割を果たしている。

バラック・オバマは言った。「まずはケイタイを閉じよう」デイヴィッド・バーンは、「アメリカン・ユートピア」の中でこう言う。「私たちは自身を超えて繋がることができる」この、知恵に満ちた提言を、文句ばっかりの左派を差し置いて、事もあろうに、大バカ野郎のカールソンがやってのけたのである。彼はXの記事のためだったが、結局プーチンに直に会いに行った。そして、1番高いレベルで、人と人を繋げたのだ。

俺たちは音楽家だ。音楽の特権は、人と人とを繋ぐ仲立ちになれることだ。つまり、俺たちはみな、あの夜のカールソンになれる。それはスタジアムかもしれない。ホールかもしれない。ライブハウスかもしれない。どんなに規模が小さくても、俺たちの武器は、行使すべきだ。ウクライナで、パレスチナで、能登で。音楽がなんの役に立つのか。答えは、そこでも、そこでなくても、役に立つ。俺たち自身の主張は、実はどうでもいい。俺たちの存在が、音楽そのものが、人と人を繋げる。音楽を奏でる俺たちは、自分の主張など、しないよ。俺たちは、あなたの話を聞いている。話してくれよ、あなたのことを。カールソンの、魂の抜けたような呆け顔こそが、ロックを演る瞬間の俺たちであれ。俺はそう思う。

SNS上のFree Palestine運動は、地味だが、身を結びつつある。頼もしいことだ。一方俺たちの主戦場は、ライブハウスである。規模は小さい。地味だ。そして、迂遠に思える。当面の成果は皆無と言っていい。俺たちが演奏する間にも、ガザでは人々が死んだり傷ついたりしている。明日どうしようもできないのを知って、俺たちは無力感を味わい続ける。だが、俺たちが歌うことをやめたら、SUGIZOに茶々を入れたバカどもが増殖するだけなのだ。分断を抑止する効能が、音楽にはあるのだ。なぁに。俺たちの無力感なぞ、小さい小さい。俺たちの努力の積み重ねが、希望を繋ぎ留めると思えば。

「歌をやめるんじゃねぇぞ!」俺は13年前、ブンブンの川島に、こうメールした(彼は岩手県出身である)。その時は多分、理屈抜き、直感で言っていたと思う。13年経って、そして不幸な出来事がきっかけで、内実がわかるとは、とは俺もほとほと愚かだ。それを承知の上で再び言うぜ。

俺たちミュージシャンにできることはある。歌をやめるんじゃねぇぞ!



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