デス・レター(表現者とは何か)
先般、マンガを原作とするTVドラマが、原作マンガと大きく設定が違ったことに端を発し、結果、マンガ原作者が自殺するという痛ましい事件が起こった。これについてコメントだの意見だのを言える立場にも筋合いにも、俺にはない。だが、このことが惹起した、「ある文化芸術作品はだれのものか」という問題は、小さなライブハウスの、その隅っこにいる俺にも、大いに関係がある。
かの一件ではっきりしたこと。それは、原作者が自身の作品の中に、確実に伝えたかった、伝わってほしかったことがあって、それが捻じ曲げられたのが嫌だったということであった。この点、俺とは隔たりがあると思ったことだった。
曲を作るとき、俺には確かに伝えたいことがある。意識はしなかったけれども、確かにある。それは何かということについては、別の項に譲るとして、俺たち→は、それがライブハウスで、あるいは音源によって、聴き手に聴かれた時、彼らにどのように解釈されたとしても、それを是認するというスタンスである。それが俺たちの意図と全く逆の解釈であっても、是認する。ネガティヴな反応であっても、是認する。それは、俺たちが、ある曲の効果について、その目的について、あるべき目標を持っていないからだ。原作時においても、制作時においても演奏時においてもそうだ。予想もしなかった聴かれ方が出来したとき。それは俺たち制作者にとっては、新たな視点への気づきであり、人間としての幅を広げるチャンスである。だから、よい。こういうものだ。
唯一の例外は、俺たちの曲が、差別や分断、禁忌や特定の者(たち)への罵倒と解釈され、それをよいことであると喧伝された時である。俺たちの歌が、例えばヒットラー礼賛ととられたら、俺たちは全力で反撃する。そう解釈したものを罵倒しつくす(現に一度、あった。あるDJに向かって力の限り罵倒したことがある)
してみると、(表立っては穏やかな対応をなさっていたけれど)件の原作者の心の中では、ヒットラー礼賛に解釈されたくらいのひどい改ざんだったのだろうな、と思う。俺はそのドラマのことも、原作もよく知らない。だから軽々しいことは言えない。言えないが例えば、特殊な職業、女性性といった、日本では抑圧されているものに対する温かい眼差し、共感が、ちゃらちゃらした薄っぺらい恋愛ドラマに書き換えられていたことが、「ヒットラー礼賛」くらいのネガティヴダメージとなって原作者に感じられたことは、感受性が強ければ、当然そうなる。一方、改ざんした側にとっては「たかが恋愛ドラマにちょちょっとアレンジしただけだ。たいしたことじゃない、何が悪いの?」と思ってしまうこともまた当然ありうることであり、同時にそれは、他者の心情を洞察することを知らないテーノーのやることである。
俺は、軽薄形骸化な解釈は是認する。だが、そうしたやつとは付き合わない。バカだからだ。バカ菌は伝染する。オジーオズボーンは、カニエウエストが自身の曲をサンプリング使用したと知って、「シオニストに関わりたくない」と烈火のごとく怒った。日本テレビは以後、バカの巣窟として、原作者から嘲笑の的になるであろう。公的に使われるときは、使う人びとに会ってみることだ。
だが一方で、俺たち制作側の人間は、自身の作品にそういった軽薄形骸化された解釈があり得るのだということを覚悟しなければならない。すると我々に「正しさ」は必要なのか、ということになる。自分の曲に正しい解釈などあるのだろうか。俺は果たして、何かの表現者なのか?俺はここで唐突に、ボブディランの態度を想起する。彼の曲に、ジョーンバエズはベトナム戦争への反戦態度を読み取り、彼に連帯を求めた。その時ディランがとった態度は、冷笑とは言わないものの、「そう取るんだったらそう取ってもいいじゃない」くらいの冷ややかさであった。彼がエレキギターに持ち替えたとき、聴衆はそれを裏切りととらえて、激しく非難した。この時もディランはそれを無視した。
複製芸術が普及した今、彼のこの態度こそが、制作者がとるべき唯一の態度だと思う。そして、あるいは従って、「表現者」という単語の「表現」とは正確には、作者のメッセージを指さない。「表現」とは、作品であれ、ライブであれ、感知できるものそのものであり、その背後に控える作者そのものの人間像であり、それは、作品の受け手が感じとるものである。ならば作品とは、会話や議論創出のきっかけに過ぎないではないか。この結論に「表現者」たちは耐えられるか。
俺は、それで問題ない。だが、楽しくやって、楽しく酒を飲んで、家に帰る道すがら、「本当にそれだけだったのか」聴き手がそう思った時、それこそが、作者が本当に「表現した」(「表現したかった」ではない)ものの入り口だったのではないだろうか。
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