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人生における「運」の役割

「人生はギャンブルだ」、そう言われたら、何と答えるだろうか。

「入試、就職、結婚  みんなギャンブルみたいなもんだろ!」

これ、『こち亀』の両さんのセリフ(有名らしい)なんですが、これに対してエリート後輩の麗子と中川は「そう思って無計画に生きているのは両ちゃんだけよ」「みんなはギャンブルと思っていませんよ」と答えるらしい。ちょっとまって、このやり取り、めちゃめちゃ深いよ!

「人生に、自分ではどうしようもできないことは付き物」という両さんの意見は分かるけれども、「努力によって変えられる」ことも確かに存在する。一方、麗子と中川に対しても「じゃぁ明日、大きな病気が見つかったら?1時間後にたまたま事故に巻き込まれたら?」と突っ込みたくなる。

と、いうわけで今月は「人生と運」について考えました。


人生とはカードの見方を鍛えるトレーニング


この世に存在している以上、自分で選べないことはたくさんある。逆に、それがこの世に生まれてくる条件なのかもしれないなぁ、と思った。

もしかしたら。誕生するときに、「おめでとうございます!あなた、これから生きられることになりました。でも、アフリカの象かもしれないし、アメリカの大統領かもしれないし、犯罪者か、蚊か、何として生まれるかは選べません。さあ生まれますか、どうしますか?」みたいに聞かれてから、みんなこの世に生まれてきているんじゃないかな(笑)。

上に載せた「不道徳的倫理学講義 人生にとって運とは何か」には、古代から現在までの偉大な倫理学者・哲学者がズラっと登場するのですが、やっぱりみんな行き着く先は「運命は定められている」「運は選べない」というところ。

いつ病気になったり、事故に巻き込まれたり、地震がくるかなんて、不確かで誰も分からない。そして運命は変えられない。

じゃあ、幸せになれる人とは、「運が良かった人」だけなんだろうか?

そうではないと、私は思う。

一般的に「運が悪い」とされる事実は、確かに変えようがない。でも、その「運が悪い」の見方を鍛えられている人が、「幸せになれる人」だと思うのだ。

例えば、「泥棒にお金を盗まれた」とする。このカードは、誰もが「悪い」カードに見えるだろう。でも、そのカードを引くことは避けられない。「運命」として定められていたものだから。じゃあどうするのか?事実は変えられないけれども、「どう考えるか」を変えることはできる。

私だったら。この前どこかで読んだ「アフリカで立ち上げた会社のお金を信頼したいた人に盗まれた」という文章を思い出すかもしれない。昔滞在していた、インドの小さな村の、家とは呼べないような家を思い出すかもしれない。そして、「私にとってあのお金って何だったんだろう」なんてふと考えだすかもしれない。(分からないけれども。実際は、まずは多分泣いて怒って落ち込むと思うけど。)

自分に配られるカードが変えられないのだとすれば、そのカードの見方を鍛えるしかない。その色んな見方ができるようになるために、私たちは、色んな人と関わって生活しているし、時に遠く離れた異国の文化に触れたりするんじゃないだろうか。

めいめいが生まれつき異なる運命に縛られているからこそ、我々はそれぞれ異なる人生を歩む存在となる。

人生がギャンブルであるとするならば、その「運」というもののおかげで私たちは一人一人ちがった人生を送っていて、他人の生活や文化に興味を持つのかもしれない。

なんて、二十数年しか生きていない私が言うのは甘いのかもしれないけれども、今のところ、そんなふうに思っている。





読んでいただきありがとうございました😊 素敵な一日になりますように!