こんにゃくメンタルとぐにゃぐにゃ生きる方法
人間生活を送っている以上、時には冬眠したくなったり、人間辞めて猫になっちゃいたくなったりすることもある。反して、物事を吟味してどんと構えていられる自分もいる。そんな自分もいなければ、一人異国に飛び込んだり、紅一点の営業職は務まらなかっただろう。しかし、冬眠したい自分と、一人海を渡る自分、どちらが本当の自分なんだろうか。
その答えがちょっと見えてきた私は、今日も健やかに生きられそうだ。
こんにゃくメンタル
先に書いたとおり、びっくりするほど脆いメンタルを持つ自分と、どうしたのと思うくらいに安定感抜群な自分がいる。だから、自分のことを「こんにゃくメンタル」と呼んでいる。硬いかと思いきや、簡単に崩れるやわらかさ。でも弾力がある。じゃあどっちが本当の自分なのか?
結論から書けば、どちらも本当の自分なのだ、と思うことにした。
自分はひとつ、と思い込むから「どちらが本当の自分なんだろうか」と選択を考えてしまう。自分はふたつあるものなのだ。(これは仏教の観点からも言われていることなんだとか。)
私の場合、一つは目の前のことと戦うメンタル脆い自分。この自分のおかげで、悲しみとか悔しさとか痛みとかを感じられている。
もう一つはどんと構えている自分。ベースはこっちの自分で、落ち着いた心で物事を考えたり判断したりする。
じゃあ一つ目のメンタルぐにゃぐにゃな自分がいない方が良いか、といえばそんなことはない。どんなに頭の良い人でも、他人の心に寄り添える人でも、人は実際に自分の身にその出来事が降りかからなければ本当の意味での学習はできない。
人は人間の働きをしてみて、はじめて人間の苦労を知る。 サン=テグジュペリ
どうやら私は、一方の自分が苦しさや悲しみを乗り越えるから、それが骨となり肉となり薬となって、もう一方の自分がぐんぐん育ってどっしり構えていられる、という構造になっているらしい。
悲しかったり悔しかったり、感情のジェットコースターに乗ってしまうのは良くないことのように思っていたけれども、そんな自分がいるから文学の色んな言葉が身に沁みたり、周囲の人に興味を持ったり、人一倍色んな景色が見えたり、するのかもしれない。
それぞれの「自分」の役割を理解しておけば、ちょっと幸せになれるようだ。
たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる サン=テグジュペリ
この本を読み終えて、そんなことを考えた。
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