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読書記録。~変化するわたし~

『死にたいけどトッポッキは食べたい 2』
ペク・セヒ・著
山口ミル・訳
光文社

初めて読んだ韓国エッセイ『死にたいけどトッポッキは食べたい』の続編。
著者とドクターとの対話1つ1つが私の生き方にも当てはまるような気がしてなりません。

今作では著者の身にいくつかのアクシデントも起こりながら、それを受けて変化していく姿が描かれています。
それが私自身の変化にも重なり、自分のことのように感じながら読み進めていきました。

分かってほしいがための主張

これだけの証拠があれば、きっと私が精神的なダメージを受けているって分かってもらえる。
その自信と同時にあるのが、これだけ準備してもなお分かってもらえないのではないか、という恐れ。

近い将来、私は高校に顔を出す予定があります。
特に深い意味はありませんが、ただ会いたい人がいるから、会いに行くだけです。

信頼できる人なので、大学生活で自分を追い込み過ぎてしまったことも、ダイエットしていたために拒食に走ってしまったことも、今治療の最中であることも伝えるつもりです。

でもそれを話したところで、それを高校中の多くの人に知ってもらうことで、何か私に得することがあるのだろうか?
今まで支えてくれた人たちの、応援してくれた人たちの期待に沿えない大学生活を送っていることを、わざわざ報告するようなもの。

それでもただ私はそうした”大人”たちに、プレッシャーを与えすぎるとこうなりますよ、と示したかっただけだと思います。
そして”大人”たちに同情と謝罪の言葉が欲しい。たったそれだけ。
そんなことして、誰が幸せになるだろうか?

私もそこがよくわからないんです。行ったり来たり。つらい時は本当につらいと思うし、切実につらいんですが、その一方でお前のどこがそんなにつらいんだ……と。
『死にたいけどトッポッキは食べたい 2』
p.68

どうしてここまで放っておいたんだ、と周囲の人々に訴えたい一方で、
自分自身をここまで追い込んで、ここまで傷つけたのは他でもない私である。
助けてほしいならいくらでも助けを求めればいいのに、それができないで生きている。

それが爆発して初めて周囲の人々に知れ渡る。
…いや、爆発してもそれを隠して生きている部分もある。

私は、自分が辛い思いをしたり、不幸になったり、誰かの助けが必要な状況に陥ったりするようなところに、一種の快感を覚えていたのかもしれない。
たくさん、たくさん我慢して、貯金のように忍耐をため込んで、
「ほら私はこんなにつらい思いをしているんですよ」って。
いつかお金の貯まった貯金箱を抱えて自慢するように、不幸自慢をしたいだけなのだろうか?

自慢して、自分のつらい思いを訴えて、そして今まで私に重圧をかけてきた人々を責めて、その人たちから私は何を得ようとしているのだろう?
自分のつらさをどんなに伝えたところで、聞く耳を持たない人も、理解してくれない人もいるというのに。
不幸を貯めて空回りするなら、そんな悲しいことはない。

それよりも、もっと強くなろうよと、この本は私に教えてくれる。

今は矢を相手に返すことを覚えた。おまえなんかにつぶされてたまるかと思っている。私の人生も、私自身も、そこまでダメなわけではないと思っている。自分で自分を厳しく検閲するのではなく、第三者に対するようにおおらかに、理性的に自分を観察して、正確に判断することを覚えた。
『死にたいけどトッポッキは食べたい 2』
p.133

嫌なことがあったとして、それを我慢するしかない自分にいちいち悔いていてはきりがない。
それだったらいっそ、耐える力がある自分を認め、さらに相手に屈することなく自分の意見を主張できればそれでいい。

どんなにストレスが自分を襲っても、自分を甘やかしましょうと言われたところで、自分は無価値だと考えていた私にとってそんなことはできなかった。
今でこそ多少は自分のために何かすることができつつあるけれども、過去の私はまるでそれがダメだった。

今後も勉強で忙しくなると、もしかしたら自分へのご褒美ができなくなるかもしれない。
また苦労することに快感を覚えてしまうかもしれない。

でもそんな時、わざわざ自分で自分を甘やかす必要はない
ただもっと冷静に、客観的に自分自身と今置かれている状況に目を向けることはできないだろうか?
そんなことを自分自身に問いかけたくなります。

変化は恐れなくてもいい

拒食症を治療していると、体重や体型が回復するにつれて、拒食ピークだった時期に戻りたいと思うことがあります。
回復したらきっと、「あの時拒食症だったのね」だけが伝わり目に見える証拠がない。
そうすれば、拒食症だった自分のつらさを伝えたところで説得力が薄れるから。

でもこの本は、自分の心の傷を訴えるために自分をさらに追い込む必要は無いと教えてくれた。
さらに、そこから回復していく自分を恐れる必要はない、と。

読み進めていくうちに著者が良い方向に変化していくのを見て、「いいなぁ、私はそんな風に変われるのだろうか」と思いながらも、「これなら私にも起こった変化かも…?」と気づかせてくれる、そして勇気づけてくれるような気がします。

子供の頃は傷つけられて何もできない人だったのに、今はできる人なんですよ。とにかく自分が思ったことを言えるんですから。
『死にたいけどトッポッキは食べたい 2』
p.155

私の場合、少し前までは周囲の空気に押されて何もできずにいた。
自分ばかりが無理をすればその場は収まるから、自分だけが我慢すればいいと思っていた。
確かに自分が無理をすれば何とかなることが多かったからそうしたけれど、それが悪い方向にエスカレートしてしまったのもまた事実。

そんな私が今こうして、やりたい勉強に取り組みながら興味のある本を読んで、行きたいお店に行くことができる。
参加したいコミュニティには自分がやれる範囲で、少しだけ参加することができている。
罪悪感はゼロではないけれど、以前に比べればずいぶんと減ったようにも感じている。

うまくいかないこともあるかもしれない。
以前食べられたものが、食べられなくなった経験も多くしている。
でもまた食べられるようになる日を待てばいい。

今日、塩パンを購入しました。
看板メニューだったからというだけの理由で。
バターの効いたパンは怖くて食べられないというのに、食べられるのだろうか?

でも、美味しく食べることができればそれでいい。
そんなことを考えながら、いつ食べようかと想像を膨らませながら、食べる日を心待ちにしている。

いずれにしろ、こうやって生きていくわけじゃないですか。私が、私という人間がドラマティックに変身するわけもなく、少しずつ変わることがあっても、あるいはまた元に戻るかもしれないし。そんなふうに考えた時、人生とはこういうものだと受け入れることがいちばん重要ではないかと思ったんです。

その時のあなたもあなたであり、今のあなたもあなたですから。

全て、私なんです。
『死にたいけどトッポッキは食べたい 2』
p.206

たくさん食べられる私も、少ししか食べられない私も、
周囲の期待に応えるしかないと諦めていた私も、自分のやりたいことがやりたいと主張する私も、
全部、他でもない私なのだから。
その私自身の変化を恐れるのではなく、むしろ楽しみたい。
そう思いました。

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