一人も取り残さない生活再建からのまちづくり
滋賀県高島市の住職・行政書士・FPの吉武学です。
遺言・相続・葬儀・埋葬・終活のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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毎日新聞で東日本大震災の際に、冬至は被災者だったり関係者だった人で、今は記者となっている方が連載で「会いたくて 3.11と私」という記事を書かれています。
石巻市から東京の大学に進学し、以後はほとんど地元に戻っていないという記者の父親は建設会社に勤めておられます。
被災した2階建ての1階が水没し全壊となったそうです。
お父さんは地震保険金、被災者生活再建支援金、義援金に加え、新たな借金をして、家の再建、車2台の購入、家具家電の買い替えをして、生活再建されたそうです。
一方で、マグロ漁船の漁師だった方は、震災で足を怪我したため仕事に戻れず年金頼みの生活となりました。
自宅を直そうとしましたが、台所と風呂場の修繕費用が足らず、残った泥にカビが生えたり、柱が腐って虫に食われた跡があるそうです。
そんな家に住むしかない状態が果たして「健康で文化的な最低限度の生活」なのか疑問が残ります。
今回の能登半島地震でも、生活再建に対して国が支援することに否定的な意見をよく見かけます。
地震が繰り返し起きている地域であることは分かっていたはず、海に近いところに住めば津波の危険があるのは常識。
自己責任論を中心にして、公金で家屋など個人の資産となるものの再建をするのはけしからんん、という論調です。
その理屈が間違いだとは思いませんが強者の論理ではあります。
海沿いに住めば津波の危険があるからと、全ての漁師が廃業して水産業を辞めてしまったらどうなるでしょうか。
都市に住む強者のために、弱者は自己責任で危険のある海岸沿いに住み続けて、海産物を街に送れと言っているように聞こえます。
人が敵わない大自然によって被害を受け、自分の力で生活再建ができない人のために国という組織があるのではないでしょうか。
国民のために国ができたのであり、国の理屈で多くの国民に犠牲を強いるのは大きな間違いだと思います。
一方で被災地内部にも問題が起きている例もあります。
福島第一原発から20㎞圏内の町村では、人口に占める女性の割合が大きく減少しています。
ある記事では地域柄、何事も男性が仕切ったり、男性が上にいる意識があることの指摘がありました。
浪江町の震災復興の記録紙ではインタビュー94人中女性は11人だけです。
富岡町の新築施設の開所式でテープカットをしたのは年配の男性ばかりでした。
過去には東京電力の説明会で質問した女性に向かって、同じ住民である男性から「女は黙ってろ」とヤジが飛んだそうです。
また男女共同参画の計画策定のための町民アンケートでは、「復興半ばの町で、成熟社会の課題であるような男女共同参画や性的マイノリティーの課題を取り上げる段階なのか疑問」との回答が寄せられたそうです。
街を単に元通りにするだけの「復旧」なら、多様な意見を聞くこともなく、以前の図面をもとに淡々と元に戻すだけでしょう。
しかし、災害という大きな傷をきっかけに、新たな街を作っていこうとする「復興」であるならば、街に住む全ての人が改めて街を好きになる、街の魅力を自ら発信するようにならなければなりません。
それは成熟社会といったものとは関係なく、多様な人がまちづくりに関わるということです。
そうした意識が薄く、一部の性別、一部の人だけが主導するような復興に住民はついてくるでしょうか、周りの人は魅力を感じるでしょうか。
東北も能登も地震や津波で大きく傷ついた今、「みんなで」まちづくりをする時だと思いますし、一人の脱落も出ないように国が生活再建の支援をすべきだと思います。