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都市は再現可能性で、地方は再現不可能性で成り立っている

お久しゅうございます。

多拠点生活ネタを久しく。

現在ライフスタイルはかえましたが、多拠点生活やアドレスホッパーというライフスタイルをしていたので、ちょくちょく卒論などでのインタビュー依頼がきます。

そこでしゃべる中で経験、脳内の記憶が言語化され、整理されることが多々おこりました。

先日しゃべったなかで言語化されてきたのは、「都市の再現可能性と、地方の再現不可能生」。

これについては面白いと思ったので久しぶりにしっかり目に筆をとる。

・そもそも多拠点生活をはじめた経緯
・どこでも同じ機能があった東京
・「インフラを使う」という感覚
・それを裏付ける「模型都市東京展」
・地方で感じたおもしろさ=そこにしかない、ユニークなもの
・そこにしかいない、ユニークな人
・浦和といえば浦和レッズ。サポーターはどんな人だったか
・結論、都市は再現可能性、地方には再現不可能生がある
・都会人は田舎にいきてぇ、地方の人は都市にいきたがる理由

など。

僕が多拠点生活をはじめた経緯についておさらい

①埼玉県の浦和に住んでいて、たしかに便利なまちだけど、これ、東京でええやん(浦和は劣化コピー)だと感じていた。翔んで埼玉とかでもよく揶揄されていましたね。
②家にいてもメンバーが固定化されているゆえに特になにもおこらず、退屈だった
(一人暮らしへ憧れもあった)
③「就活→バイト→学校→家」の代わり映えしないサイクルがしばらく続いて「このままでは俺の人生退屈なものになるのでは」という危機を感じた
④もともと身軽に生きたい「Z世代的価値観」を有していて、アドレスホッパーの存在を認知していた
⑤なにかを変えるなら住む場所、つきあう人、時間配分を変えろともよく言われるのでバイト後家に帰らずゲストハウスに言ってみた
⑥外国人などもいて交流して「おもろいやん」とドハマリ→ゲストハウス利用の頻度が増えた
⑦多拠点生活系サブスクに手を出す、この頃からアドレスホッパーであると自認

都市は「機能」の集合体である

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(多拠点生活者ミートアップという集会 in東京茅場町のコワーキングスペースCo-Edoにて)
東京という都市で生きるうえで欠かせない考えがある。
ビフォーコロナの2019年はちょくちょく集いがあったが、ホッパーな人たちが口々にそろえて言ってたのは、「東京はみんなで集まるには便利だねぇ」「でも東京は疲れるねぇ。」「もうしばらくはいいや」ということ。

最初の①つである便利さには何が詰まっっているのだろうか。

電源とWifiのあるカフェや店舗がたくさんある。
カラオケや映画館、美術館や舞台など高度なエンタメがたくさんある。
技術、文化などが最先端で、海外への門戸も開かれている。
交通インフラが高度に発展している。

そんなところだろうか。
常に人も物も情報もすごいスピードで動くので、時間もとても早い。
人が人を呼び、小さな町でも一つの地方都市と肩を張るレベルだ。
東京は高度に機能が発達している。

のこりの疲れるという点について。
僕ら人間もヒトといういち動物の種族としてみれば、グリーンジャングルに生きていたのが大半であって、コンクリートジャングルに生きるよう適応しているわけじゃない。
脳みそはたいして代わってないのに情報処理量が増えすぎてしまったことの現れではないか。と、知人がいってた。

「インフラを使う」という感覚

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(代々木上原付近のお風呂&コワーキングBathHausにて)
生活をしていた当時は、バックパックひとつで暮らしていた。とはいえ、バックパッカーのように大容量のものに旅のお供にありとあらゆるすべてを詰め込むというようなものではない。

30Lにもみたいないバックパックに4日分の衣服、PCなどガジェット類、歯ブラシやひげそりなどの衛生用具、大きく分ければこの3種類のみ。

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ではそれ以外はどうしていたのか?

・寝床→ゲストハウス、ホステル
・移動→自転車シェア、電車、バス等
・食→コンビニなどまちのお店
・作業場→カフェ、コワーキングスペース等
・癒やし→サウナや銭湯

これらのまちのインフラやシェアサービスを活用していた。
家の中にあるであろう諸々を所有せず利用する生活をする。
基本、都市であれば上記のようなものはたいていそろうのである。
地方に行けば都市部、東京であれば町ごとに。

余談:模型都市東京展

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上記を裏付けるように、過去、模型都市東京展というものがあったので紹介しよう。
演劇ユニットPortBの高山明氏が企画者で、寺田倉庫とのコラボ企画「模型都市東京展」だ。

一部、上記HP内にある高山氏による企画背景を紹介させてもらう。

そうした目で東京を眺めてみると、この街にはその場でしか成立しないオリジナルなものは少なく、模型に溢れていることに気づく。どこにでもある模型が世界のどの都市よりも偏在し、それが様々な人に利用され、それぞれのやり方で独自に上演/再演される。その偏在性と上演/再演可能性の豊かさが、この都市の特徴とすら言えそうだ。それらの模型を面白く使いこなす人たちが現れ、都市のアクティビティを生み出し、ライフスタイルを更新していく。それが逆説的に、東京という「模型都市」のオリジナリティになっている。

私も被験者のひとりとして協力をしていた。
その時はあまり概念に対して理解が及ばなかったが、都市生活から地方に写ってみてこの主張にかなり高い解像度で共感できるようになった。

地方で感じたおもしろさ=そこにしかない、ユニークなもの、人

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(山口県にある元乃隅神社)
閑話休題、段々と都市だけでなく地方にも出ることが増えてきた。
僕にとって、とても魅力的に感じた。
もちろん、見たことがない土地、そこでの人やものへの邂逅はそれ自体に面白みがあるのだが、決定的に異なるものがある。

それは、そこで生きる人やその人の営みの土地との結びつきだ。
都市は、人の集積によって文化や経済がミックスされて生まれる。
対して地方はその地域の気候や風土の上に人々の営みがある。

都市:人の集積と営み→文化や風土という後天的につくられる。
地方:その場所の気候、風土、歴史、→人→文化という具合に、その土地の先天性をもとに形づくうられる。

極端にいいけば、北海道に住むアイヌの人々の家のつくりと、沖縄に住む人々のつくりの違いを考えてみるとわかりやすいかも。

北海道のアイヌの家は、採れる植物からつくっている。(チセというらしい)

沖縄の家は台風に備えるつくりになっているし、シーサーがついてる。(琉球建築でググってくれ)

都市部にあるビルっはもうTHE技術!という感じで、人類の自然の後天的克服の象徴といえるだろう。

ちなみに僕は卒業旅行でいった山口県の海辺の街のレンガの色のちがいや家の形状にその地域の独特さを感じ、学生を終える間際になってはじめて学ぶことのおもしろさにきづいた馬鹿者です。(それはまた別のおはなし)

そこで暮らすユニークな人

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(日南にて出会ったきょーちゃん)
それらの文化の面白さもあるが、そこで出会う人たちのユニークネスも魅力的に映った。
幸運なことに、様々な経験の末にその地を選んだ、個性的で底知れない「面白い大人」にたくさん出会えた。
(平たく言ってしまえば変態、きちんと言えば自己哲学が確立している人)

彼らの生き方、考え方は僕の考え方を変えた。

「それなりに東京のどっかの企業で働こうか」程度のものから、「今って都市よりも地方で働いたほうが面白いんじゃねえの」というものへ様変わりした。

では、僕にとって浦和はホームではないが、誰にとってのホームなのだろうか。

さて、ここまできて、最初に浦和は東京の劣化コピーとこき下ろしてしまったが、浦和が大好きな人もいる。

象徴的なのは、サッカークラブの浦和レッズのファンではないか。

サッカークラブはたくさんあるが、彼らにとっては大宮アルディージャではだめなのだ。

浦和と同じ名を冠するサッカークラブのファンなのだ。
もっといえば、実際に応援するのはそのなかのA選手であり、B選手という具体的な人を応援している。

選手もまた、サポーターの応援によりパワーをもらう。

サポーター同士も仲間意識が生まれる。

土地に対しての文脈的繋がりと、そこで生きる人々とのつながりを実感しているとき、ホームタウンの感覚は醸成されるのではないか。(ここは議論の余地あり)

結論:都市とは再現性によってなりたち、地方は再現不可能性で成り立つ。

都市は人、物、金、情報を集積するので、部品化したものがうまれる。
人間は労働力となり、金は右から左へ流れ、情報も物もあふれかえる。

対して地方には上記のような資源は往々にして不足するが、欠くことのできない重要性がある。
そして、その地域ならではの文脈と、顔の見える距離感による再現不可能性が生まれるのだろう。

と、論文にするにはいささかロジックの飛躍や証明になるような事例が足りないが、 自分の頭の中の吐き出し先としてこちらに記した。


ここからは余談:都会人は田舎にいきてぇ、地方の人は都市にいきたがる理由はなんだろう

上記の話はよくある話だ。
都市に暮らすメリットは、圧倒的選択肢だ。
学校、会社、住むところ、食べるところ、無限に選択肢がある。
だがときに選択疲れを起こす。
ラーメン屋だってメニューが100種類、どんどん変わり種がでてくる、期間限定品も1ヶ月毎に出てくるのだったらなんかもう疲れちゃう。


地方に暮らしてわかるのは、飲食店で例えても両の手で数え切れてしまう。
数ヶ月も暮せば、一巡しきってしまって代わり映えがなく、退屈かもしれない。

メニューが3種類のラーメン屋、とりあえず最初の3回は別のメニューを頼んで見る、もう空きてくるがラーメンといえばそこしかない。

これが生まれた時から続くとしたら、両者は現状にうんざりしつつ、それぞれメニューが多い方、少ない方にいってみてくもなるだろう。

労働もそうだ。多くの選択肢はあるが、たいがい競争にさらされる。
そして自分の上位互換は掃いて捨てるほどいる都市部。
選択肢と競争、選ぶ方も選ばれる方も疲れるってもんだ。

(あえて誇張して書いてますが)競争の生まれない、刺激と革新の生まれにくい地方。また、閉鎖的で、集団バイアスによって少数派に対して風当たりが強くなることも。
10件の醤油ラーメンしかない世界線に、いきなりみそラーメンを作り出すやつがいたら邪道だって思いたくなっちゃうよね。

つながりや結びつきが強いと、ときにそれが自分を縛る鎖にもなる。
(ときどき今の肩書やや過去をひきちぎって何者でもなくなりたいときあるよね)
だが、それは自分と他者の結びつきによるセーフティーネットにもなる。

育ってきた環境によるないものねだりなのだが、都市に育つと人間らしい繋がりや絆に、地方に育つとしがらみのない自由にほだされてしまうのだろうね。

そんなとりとめもない余談でした。

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