見出し画像

イギリスのロマンティックバレエとその立役者

こんにちは。
ただのバレエ好きのあゆみです。

今日は台風が近づいているからか、
湿度が高く、ジメジメしています。

とはいえ、明日は待ちに待った「バレエの饗宴」があるのですごく楽しみ!!
天気なんとかもってくれるといいなぁ。

ちなみに、「バレエの饗宴」の演目の一つである『パ・ド・カトル』の作品紹介は
前回のnoteで公開しましたのでよければそちらもご覧ください


今回のnoteは、前回のnoteで紹介した『パ・ド・カトル』の振付者の
ジュール・ペローが活躍した国のロマンティックバレエ時代の話です。


それでは、スタート!!



◆センセーションが多く起きたのはイギリス


今までのnoteの内容が、実際に起こったのは、フランスが多かったのですが、
実は、ダンサーの舞台デビューなどはイギリスで起きたことが多かったんです。

ダンサーたちのデビュー


  • マリー・サレ

宮廷バレエの終わりに活躍したマリー・サレはフランス人でしたが、
最初からダンサーだったわけではなく、実は最初はパントマイムの舞台でロンドンでデビューしました。

この記事に登場した、サレがまだ宮廷バレエの時代に、コルセットを脱ぎ捨て、髪を垂らして踊ったのもロンドンです。

そして、
マリー・サレと彼女のライバルのマリー・カマルゴが登場する
ジャン=ジョルジュ・ノヴェールの著書
『舞踊とバレエについての手紙』
が書かれたのもロンドンでした。
(この著書についてはまた今度触れます。)

  • ファニー・エルスラー

  • ファニー・チェリート

  • カルロッタ・グリジ

マリー・タリオーニのライバルとして有名なファニー・エルスラー、
前回のnoteで紹介した『パ・ド・カトル』の初演時の出演者で、ロマンティックバレエ後期の4大バレリーナと呼ばれていたファニー・チェリートとカルロッタ・グリジ、
それぞれのダンサーデビュー公演もパリではなく、
ロンドンで行われました。



ロンドンでバレエが人気だったワケ


19世紀頭に、イギリスで起きた産業革命のおかげで、
お金持ち市民が増えたことが大きな理由の一つと言えます。

経済的に余裕が出て、劇場に通ういわば ”娯楽”にお金がかけられるようになったのでしょう。

この件に関しても以前のnoteで触れてますので、詳しくはそちらをみていただけると嬉しいです☺️


◆パリ🇫🇷とロンドン🇬🇧の徹底的な違い


パリにあって、ロンドンになかったもの、
それは、、、

  • パリ・オペラ座という国営の劇場

  • それに付属するバレエ学校、バレエカンパニー

です。
パリには、これらのものがルイ14世のおかげで完備されていました。

国営の劇場もダンサー育成機関もなかったイギリスは、どうしていたのかというと、
フランスからダンサーや作品をロンドンに引っ張ってきました。
ドーバー海峡をピューっと超えて。

そのため、ロンドンで活躍しているダンサー、振付家の多くはフランス生まれでした。(またはフランスでバレエを習っていた)


そこで、
イギリス・ロンドンに革命を起こしたダンサー/振付家を次に紹介します。


◆ジュール・ペローという天才振付家


ジュール・ペロー  Jules Perrot

1810~1892 
フランス生まれのダンサー/振付家。
後にロシアでバレエマスターも務める。

https://jp.rbth.com/arts/82160-roshia-baree-wo-idai-na-mono-ni-shiageta-gaikokujin より引用〉

フランス・リヨンで生まれ、
幼い頃は、オーギュスト・ヴェストリスにバレエを習う。
(今度また詳しく紹介するけど、
マリー・タリオーニ、ファニー・エルスラー、クラシックバレエ時代に大活躍のマリウス・プティパらの師匠)

その後パリ・オペラ座に所属し名ダンサーとして活躍

1835に、パリ・オペラ座を離れた後は、ヨーロッパ各都市で講演を行い、
カルロッタ・グリジ(『ジゼル』の初演時のジゼル役、『パ・ド・カトル』のオリジナルキャスト)
を見出す。
ペローとグリジは、師弟関係から、恋仲になり、公私共にパートナーとしても活躍していた。

ドガ作『バレエのレッスン』の中のこの男性はジュール・ペローらしい 〈https://jp.rbth.com/arts/82160-roshia-baree-wo-idai-na-mono-ni-shiageta-gaikokujin より引用〉



ロンドンに移ったわけ


パリ・オペラ座で『ジゼル』のタイトルロール、ジゼルやくの振り付けを終えた後、
ペローはパリ・オペラ座に残してもらえなかったんです。

そこで救いの手を差し伸べたのが、
ロンドンのハーマジェスティーズ劇場の総支配人の
ベンジャミン・ラムリー
(この方、前回のnoteから大活躍です。)

ラムリーがペローを自分の劇場に呼んで、
ハーマジェスティーズ劇場付きの振付家として迎えたのです。

それが功を奏して、ジュール・ペローは後世に残る作品を振り付けします。

ロンドンで振り付けた代表作


・パ・ド・カトル 1845年
前回のnoteで詳しく触れたので今回は割愛します。


・オンディーヌ 1843年




人間に恋した水の妖精の話。
現代では、ピエール・ラコットや Sirフレデリック・アシュトンが作り直してたりもします。

・エスメラルダ 1844年

美しいジプシーエスメラルダをもとめ争う男たちの話。
バレエをやってる人の間では、コンクールでよく踊られる女性のヴァリエーションや、あってもグラン・パ・ド・ドゥぐらいのイメージしかないと思いますが、
実は、しっかりストーリーがついてる作品なのです。
しかも原作は ヴィクトル・ユゴー。『レ・ミゼラブル』の著者としても有名ですね。


そして、エスメラルダが評価されたのは、
ストーリー性。

もちろん原作のストーリーも良かったんだと思うんですけど、
それをバレエ作品として作り上げたジュール・ペローもすごく評価されました。

ペローは、ジャン=ジョルジュ・ノヴェールが著書「舞踊とバレエについての手紙」で提唱した、
バレエダクシオン=物語とバレエが一体化していること
を見事にやって見せたのです。

ペローは自身が振り付ける作品のほとんどの作曲を
チェザーレ・プーニ
に依頼しました。

イギリスからロシアへ


1850年代に入ると、ジュール・ペローはダンサーとして
サンクトペテルブルグ🇷🇺の帝室バレエと契約し、
その後はバレエマスターも務めました。

この頃に、内妻のカルロッタ・グリジと別れ、
帝立劇場学校の生徒だったカピトリーヌ・サモヴスカヤと結婚し2児をもうけました。

余生はフランスで過ごしたみたいです。


まとめ

今日はイギリスのロマンティックバレエとその立役者のジュール・ペローを紹介しました。

現代でバレエを楽しんでいる皆様に馴染みのある作品名や、振付家の名前などが出てきました!
これからもっともっと楽しくなる時代に入っていきます。

個人的にはまずは明日の「バレエの饗宴」とその後の東京シティバレエ団の『白鳥の湖』楽しんできます🩰
感想はTwitterやこのnoteで発信します。

今日も最後まで読んでいただきありがとうございました!
Twitterではタイムリーに色々呟いてますので、
よければ覗いてみてください☺️

それではまた〜🙌

この記事が参加している募集

よろしければサポートお願いいたします! いただいたお金は書籍購入と舞台鑑賞に使わせていただきます。