趣味と羞恥と密室と

 知人だったか弟だったかが言っていた台詞で、興味深くて印象に残っているものがある。

「趣味ってものは大概が恥ずかしいもので、だから趣味はおおっぴらにするもんじゃないと思う。」

 言い得て妙だと思った。tastであれhobbyであれ、趣味というのはごくごく個人的な考え方や個々人の内面に直結するものだ。だから、趣味を公にするというのは、人前で裸になるも同然なわけだ。反対に人の趣味をあれこれ批判したり批評したりするのは、そのひとそのものの批評や批判に結びつくことになる。
 趣味なんて偉そうに人に語るもんじゃないのだ。自分の心の奥底にしまっておけばいい。

 その一方で、趣味が自分の奥底にあるものとつながっているからこそ、趣味が合うというのはその言葉以上に強い結びつきだとも言えるのだろう。自分の恥ずかしい部分を共有できる人は貴重だ。


 僕はどうも社会の中で生きるための色々な場面で、自分の「趣味」を軸に考えることをしすぎていたのだと思う。社会とは他者との関係によって成り立つ。そうであれば、自己の深い部分とつながっている「趣味」を基軸に考えることは、結果として自分の行動範囲を狭めることになりかねない。当然、社会という場面(というよりビジネスというべきか)においてはデメリットの方が多いように思う。
 人間は原則として人との繋がりによってしか生きられないわけで、だからこそ共有できるかわからずギャンブルになってしまう「趣味」よりも、共有されるべき何ものかを持つことによって他者と関わっているのだと思う。それが何かは人によって、あるいは場面によって様々なだろう。ニーズのこともあれば、論理のこともあれば、倫理や正義の場合もあるかもしれない。
 おそらく、僕はそのような「他者と共有されるべき何ものか」を、極力投げ捨てるような形で生きてきてしまったのだろうと思う。そうすることしかできなかったというべきかもしれないし、それ以外の選択肢を思いつくことができなかった、のかもしれない。


 でも、誰にだって、他人と共有しきれない「趣味」の領域は持っているのではないかと思う。それはおそらく、共有しきれないからこそ交換ができないし、したがって市場では価値がつかないようなものだ。ほとんどの人と共有も交換もできないから、もしかしたら社会的にはいささか眉をひそめられるような側面すらあるかもしれない。
 ただ、その人がその人たる所以は、その共有も交換もされない部分にこそあるのではないかとも思ってしまう。人に見せると恥ずかしいもの、オープンにするともしかしたら引かれてしまうかもしれないもの、それがその人のもっとも本質的な部分であるんじゃないだろうか。そう思ってしまう。
 とはいえ、例えば私小説こそが本物の小説とか、マネタイズを目的としたものはアートというより商品に過ぎないとか、そういうことを言いたいわけではない。どんなものにもどんな人にも、そういう部分はあるんじゃないかと思っているだけだ。 
 人に見せられるものは、見せることを前提として作られている。どこかで共有されることを前提として構成されている。形にするのであれば、そのようなブロセスは必須であり、避けることはできない。けれど、面白い作品とは、その中に人に見せられないその人の「趣味」のようなものがしまいこまれてあり、しかもそれがある程度共有可能な形で形式化されていることで、結果としてそのような恥ずかしい部分が垣間見えることになるのではないだろうか。作品というものはそのような形で受容されるのではないだろうか。


 気恥ずかしい言い方だが、もし「愛」というものを定義するとするなら、このような交換できない自分の「趣味」を許容し分有できることなのではないかと思う。現実を共有し共に現実を渡ってゆくのも一つの愛の形だろうと思う。でも、自分にとって必要なことは、迂闊に他人に見せられない自分の「趣味」を見せても引かないで、むしろそれを面白がってくれることのような気がする。
 だから、愛なんてものも、おおっぴらにするもんじゃない。愛は現実というより虚構の領域にあるものなのだと思う。だから、趣味も愛も、人目につかない密室で育まれるものだ。


 本当に大切なものなんて、やたらと人からは見えない。むしろ隠し持っていたいものなんじゃないだろうか。現実の荒波に揉まれて失われないように、現実とは違う場所に、ひっそりと。
 

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