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夢の托卵

 庭で子猫が鳴いていると、家人がいう。それも複数。どうやらここを縄張りにするハチワレが庭のどこかで子を産んだらしいと。

 そう訴えるからには私に見にいけということですからね。いそいそと探索に参りまして、古い家ではありますが、縁の下などないし、床下に潜りこめるような破れ目もない。そういいきれるのは、前の住人がタヌキだかハクビシンだかの獣害に悩まされた経緯があり、床下や軒下の、鼠以下の小動物が入りこめそうな破れ目はことごとくアルミ板で厳重に塞がれてあったからで。念のため紫陽花や石楠花の植えこみも枝葉を掻き分けて調べますが、子猫のいるはずもなく。あとは洗濯室と塀との五十センチ幅の隙間が濃厚に怪しいわけでしたが、そこには昨年の夏の豪雨のさいに出来した雨漏りの一時凌ぎに洗濯室のトタン屋根一面に張ったビニルシートが丸めて押しこんであった。これを引っ張り出すのに難儀しそうで躊躇われたのですが、もうこうなるとそこにしか猫の隠れ場らしきはないわけで、私は意を決して一働きすることにした。もうさっきから、どこからともなくハチワレが塀の上に来ていて、じっとこちらをうかがうのでもある。人の手のついた子猫を親猫は見捨てるのではなかったかと、ちらと思わないではなかった。丸められたビニルシートはかしこに水を溜めてずっしりと重く、頃は六月のことで、格好の蚊の温床となっているのでした。どうにかビニルシートの塊を引っ張り出しますと、濃厚な気配とは裏腹に、そこに子猫らはおらず、暗がりに慣れた目が見たものは、細長い露土を埋め尽くす蛞蝓なめくじの大群だった。

 明け方に子猫らがさかんに鳴くというのです。だから当然、この頃はすっかり眠りの浅くなった私が煩わされていないはずはないと家人は思ったことでした。庭に面した部屋を書斎兼寝室とするなら尚更のこと。しかし私はこれまで一度も子猫のみゃおみゃおと心もとなげに鳴く鳴き音など耳にしたことがなかった。
「お隣りの庭のどこかで産んだんだろうよ」庭から戻るなり私がいうと、「そう」と家人は答えましたが、その声にはかすかに失望が見て取れるようでした。
「それより」私はいいました。「眠りを煩わされるといえば郭公かっこうだよ。空が白む頃にどこぞで鳴いている。森閑とした場所で聞くならともかく、こんな街なかでは調子が狂うというか、睡魔はすっかり祓われて、眠りの接ぎ穂を失ってしまう」
 我ながらもう何度もそのように眠りを奪われてきているような口ぶりでしたが、郭公の鳴き声を聞いたのはほんの一度きりでした。知らなかった、と家人はいい、同情するかと思ったら、堪え切れずくっくと笑いだした。「それ、お隣りさんの鳩時計の時報かも」というのでした。
「お隣りは、鳩時計なの」
「さあ。知りませんけど」
 家人はいうのでした。

 それから数日して、未明にふたたび私は郭公の声を聞いたのでした。業腹だったのは、間遠に都合四度聞き、枕元の目覚まし時計を見やれば、きっかり朝の四時を指していた。
 なんのともわからぬながら、隣家との境目の例の隙間に、こちらを誘うような、あるいは排するあまりかえって誘うと紛うような気配の横溢するのに感じたもので、私は隣室の妻の寝床を跨いで洗濯室まで来、隣家への遠慮から平生開けることのない磨硝子の窓をわずかに開いて、下をのぞき見た。
 無毛の裸の童子、とまずは見えたのでした。かろうじて声を押しとどめ得たのは、眠る家人を憚ってのことでした。しかし暗がりに目の慣れるにつれ、それは童子どころでない、得体の知れぬ白いなにかなのでした。息をするように、ゆっくりと一定のリズムでかすかに上下している。やがてみゃおみゃおみゃおみゃお……と、子猫の鳴くと思しき声が、たしかにそこから立ち昇ってくるのでした。


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 私が長のあいだ見たいと思って果たせずにいた古い映画があって、これが隣市のミニシアターでかかるとの情報を人伝に得ましてね。ただし次週の平日の五日間、レイトショーのみでの上映とのこと。二十一時上映開始だから、十九時までに退社すれば間に合う計算です。取るものも取り敢えずといきたいところですが、とかく勤め人の夜はままならない。週が明けてさっそく月曜日火曜日は病欠社員の尻拭いで残業、水曜日は上司のふいの飲みの誘いがあって、木曜日にようやく十九時前に退社する機会を得たわけですが、その日に限ってどういうわけか気乗りがしなかった。家族で食事がしたかった。なぜかそうしないではいられない気忙しさだったんですね。決めあぐねておりますと、家人からLINEが来て、《今日こそは映画見られるかな》と訊いてくる。

《今日は早く帰れるの?》

《帰れる。いま電車》

《なら映画見れるね》

《そうなんだけど、気が進まない》

《見てきたらいいじゃん。わたしたちのことなら気にしないで。たまには息抜きも必要だよ。明日は大雨だっていうし》

「明日は大雨」の一言に、背中を押された格好でした。家の最寄駅から隣市まで、直線距離にして七キロ弱、鉄道の空白地帯をバスで突っ切るか電車で迂回するか、思案のしどころでしたが、いっそ自転車で行くほうが早いしいい運動になると結論された。明日の大雨を暗示するといえばするような空は曇天でしたが、雨催いとまではいかないようだった。

 駅前の住宅街を抜けると、やがて四車線のバイパスに出る。これをひたすら道なりに西進すれば、四十分もかからず目的地に到着するはずでした。
 道はゆるゆると下っていく。ときにはっきりと坂になるところもある。これは、私の住まいを含む地域全体が隣市を流れる一級河川の河岸段丘上にあるからで、段丘を横断するごとに勾配が一時的に増すという塩梅なのでした。
 大きな道路のことで、両側に歩道と自転車道とが、植えこみに隔てられて並走している。まだ宵のうちですから行き交う車の数も多いし、自転車にしても、赤信号のたびこちらの前後左右に並ぶ台数はそれなりでした。走行中にうしろから煽られるのは堪らないので、発進するごとにあえてゆっくりペダルを踏んで他の自転車をやり過ごす。そうこうするうち、ハンドル側のチャイルドシートに子どもを乗せた若くてがたいのいい父親の電動アシスト車が常にこちらを先導する形で走るようになり、求める速度よりやや遅いのでしたが、私自身が煽る格好になるのを恐れて、目測で二十メートルかそこらの距離が空くよう絶えず気遣った。私の後続には少なくとも一台あって、背後にスレスレに近づいてはブレーキを握るを繰り返し、その苛立ちが背な越しにひしひしと伝わってくるのでしたが、先行する自転車があればこそ、私はある程度の心の余裕を保つことができるのでした。

 道路の両側にひしめいたファストフード店やファミリーレストランも次第にまばらになり、何度目かのだらだらと長い下り坂を下るうち、いつか周囲は鬱蒼たる樹々に覆われるようになっていた。バイパスは公営の自然公園を分断するようにして走るのでした。自然公園はやがて広大な墓地に取って代わられ、墓地はまた別の自然公園に連絡し、やがてその自然公園は刑務所の壁に隔てられ、道路側にもクリーム色の壁が延々と続く。刑務所の壁が尽きると今度は鎮守の森が控えて、この地域では最も大きい境内を擁する稲荷大社の大鳥居が、辺りを睥睨するように樹冠の向こうに黒々とのぞいていた。
 最寄駅もなく、住宅街からも遠く隔てられ、そんな場所を、そんな時間に出歩く酔狂者のいるはずもないのでした。もはや新たに加わる自転車だってないのです。ですからさすがに妙だとは思っていた。というのは、先導する自転車の親子が、もうかれこれ一キロ以上こちらと道行を同じくしている。後続の自転車は自転車で、あいかわらずこちらのすぐ背後でブレーキをかけては減速するを繰り返し、いい加減神経に触る。何度か信号待ちの機会はあって、うしろをやり過ごそうとわざとゆるゆると発進するにもかかわらず、こちらの意図が汲めないのか、あるいは引き続き後続でありたいということなのか、金輪際こちらを追い抜いていかない。次の信号待ちのさいに思いっきり睨みつけてやろうと思っていて、ついにその機は訪れて減速しはじめたとき、前方を見て私は「おや」となったのでした。
 稲荷大社の参拝客用の駐車場に至る二車線の道が、信号のところで左に切られていた。拝観時間のとうに過ぎたこの時刻、親子になんの用もあろうはずはないのに、これを自転車は左に折れていった。なんだろうと思いつつこちらは赤信号に捕まって停止して、恐るおそる身を乗り出して左側をのぞきこんだところが、すぐそこの植えこみの陰に自転車をこちら向きにして親子が身を潜めているのが見えた。私を認めるなり、異国の言葉でなにやら捲し立てる。どうやら西洋人の親子のようでした。英語であれば、内容はともかく、それとわかったでしょう。しかし私にはかつて聞いたことのない言語なのでした。異国の言葉による罵声もそうだが、街灯に照らされて青白く抜かれたような二人の形相こそ私にはショックだった。この世のものとは思えず身の危険を感じた私は、信号が青になるかならないうちにすぐさま自転車を発進して、無我夢中でペダルを漕ぎました。追ってくる気配はよもやありません。道は緩勾配で、もはやペダルを漕ぐまでもなく、私の自転車はどんどん加速していった。ようやく行手に街の明かりが見えだして、川の匂いがふいに鼻面をよぎる。人心地がついてすっかり油断したところで、キッと、これは、例の後続の自転車のブレーキ音。
 私はすぐさま自転車を止めて背後を振り返るのでしたが、後続などそもそもありはしないのでした。そこで私はありありと思い出していた。かつてこの道を、毎日のように通う自分のあったことを。
 私の通った高等学校がまさに隣市にあったのでした。当初電車を乗り継いで通っていた私は、自転車のほうが早いし体力作りにもなるからと、自転車で通うことにしたのです。ところがそれは、ひと月も続かなかったのではなかったか。行きはよくても帰りの上り坂がしんどかったとは、容易に想像される。しかしいまこの瞬間、久しく自身に問わずにきた問いの答えが、あたかも封印の解かれるようにして目の前に転がり落ちていた。高校生の私はなぜ自転車通いを早々に止したのか。そう、私はどうやら先刻に似た薄気味の悪い体験を、自転車で通う道中にしたらしかったのでした。
 しかし私は結局、なにがあったのかまで、これとはっきり思い出せるわけではありませんでした。時刻を見ると、映画の上映開始まであと十五分と迫っていた。


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 映画館はほとんど貸切状態でした。席の埋まり状況をスマホで確認すると、百人から収容する会場に事前予約が私のほか三人あるばかりで、それも三人が三人して最後列を飛び石で取っていた。私は中央の端の席を予約してあったのですが、映画が始まってしばらくもしないで列の真中に思い切って移動した。そんな贅沢、生まれてこの方初めてだったかもわからない。私の先に客はなく、映画の途中から入った客にも気がつかなかったから、もしやほんとうに貸切状態だったかもわかりません。

 映画を見終えて陶然とするのも束の間、エンドロールのうちに早くも私は現実に引き戻されていたのでした。これから家までの復路をまた自転車で行かなければならない。どうにも私は気乗りがしないのでした。自転車を駐輪場に置いたままバスないしは電車で帰ることもちらと思いましたが、面倒を先延ばしにするだけで得策とはいえない。いい大人がなにを怯えると、ここは思いっきり自嘲しましてね、映画の余韻の冷めぬうちにと、私はさっさと映画館をあとにしたのでした。
 時刻は零時を回っておりました。駅前の繁華街のうちで、終電までまだ間があったはずですが、ミニシアターから駐輪場まで誰とも私はすれ違わなかった。幅広の国道を行き来してしかるべき車も絶えてなく、街は煌々たる明かりを消し忘れたまま人々から見捨てられたかのようでした。やがて私は例のバイパスへ折れていった。
 鎮守の森のこんもりした影が行手に見えてから、私は妙な動悸を覚えるのでした。その場にへなへなとへたりこみたいような、圧倒的な無力感に押し流されそうになっている。私は歌いながら通り過ぎることに決め、思いつくままにメロディーを口ずさんだはいいが、意に反してそれは自分でも初めて耳にする旋律で、歌詞もお得意のなんちゃって英語、次第におどろおどろしさばかりが募ってやめようにもやめられなくなっている。しまいにはシャウトもとい雄叫びを上げていて、神社の駐車場へ至る二車線道路の赤信号を勢いのまま無視して突っ切った。すると例の植えこみの陰にですね、身を潜める影がちらと見えた気がして、私にはもうそれは、西洋人の親子の乗る電動アシスト自転車にほかならないのでした。雄叫びはなおも止まず、私はただただひたすらにペダルを漕いで、その緩勾配の上り坂を減速せずに上っていった。

 しばらくいってから私は自転車を止めて振り返った。追っ手のあるはずもないのでした。私は安堵してふたたび自転車を漕ぎだした。鎮守の森を過ぎると刑務所の壁が右手に延々と続く。バイパスの左側はハケと呼ばれる崖線で、鬱蒼たる樹々が夜は尚更黒々として路面へ雪崩れかからんばかりに見え、たしか背後に続く丘陵のところどころに古代の先住者の横穴墓が史跡として保存されていたように記憶する。刑務所の壁が尽きると、柵の向こうは自然公園で、湧水池を多数擁していまごろは、羽黒蜻蛉の乱舞が観察されるはずだった。自然公園の先はといえば、広大な墓地。
 上りの緩勾配が続いた。安堵したのも束の間、またしても私は疑心暗鬼に絡め取られる始末でした。速度を緩めればたちまち捕らわれる(なにに?)などと根拠のないプレッシャーを自身にかけてペダルを漕ぎ続ける。東北地方は秋田青森で、この頃出来している熊の被害をなぜか思っているのでした。熊は時速五十キロで走ることができるという。それは瞬間速度のことだろうから、獲物を追尾する平均速度なら高く見積もってせいぜい時速二十キロ程度だろう、だとすると、オレはかろうじて食われていないなどと自分を鼓舞しにかかる。しかし自転車で逃げているところを仮に追いつかれたとして、熊は背後からどう飛びかかるのだろう。噛みつかれるより先に、前足のあの鋼のように硬く鋭い爪が振り下ろされるのだろうか、そしてその一撃で背中はばっくり裂かれるのだろうか。頭のてっぺんに振り下ろされたなら、脳天は西瓜のようにたちまちざっくりと割れるものだろうか。即死ならまだしもだが、意識がありながら食われていくのは、これは堪らない。

 必死になって窪地から這いあがろうとしている自分の絵が俯瞰されるのでした。土地の気、ということも思うのでした。神社やら横穴墓やらの在所である以上、太古からこの一帯はいわくつきの土地だったのではないのか。霊道とやらがあるのかも知れず、そうとは知らずその霊道に沿ってバイパスが建設されたとは考えられないか。悪い気が流れこんではアスファルトのせいで浄化されぬまま窪の底に溜まり、道路の敷設以来、淀みに淀んでいるのではないか。ときに風の加減かなにかで溢れるかして、隣市の駅前を侵食し、それで繁華街とはいえあそこはちょっと足の向かない陰気さを醸しているのではなかったか。そもそも今回の映画鑑賞自体が土壇場で躊躇われたのも、隣市へ赴くことに対するほとんど本能のレベルでの忌避感情だったと、いまごろになって理解されるのでもあった。
 墓地といっても広大ですから、鉄柵越しにすぐ墓の並びが見えるというのではない。柵の向こうにあるのは、おそらくは往時の景観そのままをいまに残す欅、小楢、櫟木といった林群集なのであって、一見するとそこが墓地とはわからない。ここへ来て平坦な道が続いて、私はようやく幻の熊からも霊道からも逃れられる心地がした。
 しかしそれにしても、昼日中の森が人の憩いの場であるについてはなんの異存もないのに、夜のそれは邪気に満ち満ちてつくづく油断ならないものと見えるのである。人心地を得る、とまではいかないのも、右手に墓があるからというより、頭上に覆い被さるようにして茂る樹々そのもののせいであるのは明らかでした。そうして私の耳はときおりとらえるのでした、郭公の鳴き声を、遠く、近く、間遠に。それがじっさいに聞こえているものなのか、幻聴なのかはもはや私には判然としないにしても。

 自転車道は、およそ二十メートル間隔で立ち並ぶ背高な道路照明に白々と照らされている。行手を影がいっさい横切らないのも道理で、植えこみと同じ歩道との分離帯に街路樹は植えてあったから、それらの影のことごとくは歩道側に落ちる。そのこと自体に違和を感じるいわれなどもとよりないわけだ。私自身がそう納得しているにもかかわらず、なんだかさっきから妙だともそこはかとなく感じられるのでした。いつから、どこからでしたでしょう、幻の熊にしても霊道の通るにしても、思えばこの違和感を払拭するために私の無意識が仕向けた苦し紛れの理屈の捏ね回しに相違ないのでした。それにしても稲荷大社の駐輪場へと曲がる道の角の植えこみの陰に身を潜めていた影、あれはなんだったのでしょう。募る恐怖がための幻視というやつだったでしょうか。往路で図らずも私が煽ることになってしまった西洋人親子の自転車としか、それは私には見えなかった。青白く切り抜かれたようにしてあった彼ら二つの顔の形相まで、いまふたたびありありと見えるようでした。あれは怯えの表情だったか。それとも。

 やはりおかしいのは影なのでした。
 墓地の横を走りはじめてから、自転車道が右手のほうから影に侵食されることはままあった。それは、ときおり雲間から満月にはやや欠ける月がのぞいて、月明かりを浴びた墓地の樹々の作る影でした。そのこと自体に違和のあるはずがなかった。ところがどうも一部の影がぐーんと伸びて行手を遮ると思いきや、ぐにゃりと折れて引っこむなどの不規則な動きを示すようなのが、どうにも解せなかった。風で樹冠の枝葉が揺れるせいとも思われましたが、その夜はほとんど無風といってよかった。梅雨入り直前の、蒸し暑い夜でした。空が雲に覆われると、影のいっさいが差さなくなるので私は安心だった。隈なく青白く照らされる路面がこのときほど好ましく感じられたこともありませんでした。ところがふたたび月がのぞくと、ほんの一瞬、生き物のように振る舞う影の一部がやはりどこかにある。我ながら迂闊なことで、影ばかりを気にしておののいていたわけですが、影など虚体に過ぎないという一事を失念しておりました。実体は樹々の頂なり私の背後なりで妖しげな踊りを踊るということに、遅ればせながら私は思い当たったのでした。

 力いっぱいブレーキレバーを握って急停車した私は、恐るおそる背後を振り返りました。
 ちょうど月に雲がかかって、眼前の景色は霜降るようにすっかり夜闇に泥んでいた。追っ手のあるはずもなく、風もなく、葉擦れの音もそよとも聞かれない。あたかも時が止まったように見えるのでした。すると、どうでしょう。雲がまた薄らいで、すーっと下から上へ、真一文字に光の筋の迸ったについては、さながら闇の向こうより鋭利な刃物で夜の帷が一気に引き裂かれるかに錯覚された。しかし夜の向こう側が煌びやかに開陳されるなどはあり得べくもなく、立ち上がった光の筋は次第に太さを増し奥行きを伴いながらゆっくりとくねりはじめて、それこそ天に昇る白龍にも譬えられそうなところ、そんな霊験灼然れいげんいやちこなどとはほど遠い凶々しさを帯びて現前し、白いといっても死者の肌色を連想させる不吉な白さなら、道路照明を凌いで二倍三倍と高さを増していく筋とも帯とも形容される長物の先端には、あろうことか不釣り合いに小さな人の頭のようなものがついていて、どうもそれには私は見覚えがあるようでした。
 揺れる。
 捩れる。
 伸び上がる。
 縮こまる。
 その都度影が私をよぎって、いかにもそれは実体あるなにかなのでした。こちらをからかうともうかがうとも取れる動作は、やがて私からすっかり月を隠して直立すると(つまり私をすっかりその影で覆い尽くすと)、こちらから見ればさながら満月の海原に撒いた金銀砂子の道とも見紛う美しさ、しかしそれはあやかしの幻惑にほかならず、どこぞでじっさいに鳴いたか脳中にぶり返したかした郭公の鳴き声で我に返った私は、直立不動の姿勢を取るどころか唸りを上げながら猛然とこちらへ倒れかかるそれを認めて、すぐさま正面を向いて自転車を漕ぎだしたのでした。
 そこからは影との追いつ追われつでした。影がぐーんと伸びる。その先端より常に先んじようと必死にペダルを踏み続ける。しかし私はこの先に道中最後の急勾配が待ち構えるのを知らぬではなかった。坂にかかればたちまち私は減速して、あれに捕まるのは火を見るより明らかだった。額から汗は滝のように流れ、腿はパンパンに腫れ上がっていた。もはや身も心も限界なのでした。勾配は一段、また一段と容赦なくきつくなっていく。減速は必至で、とうとう影に追いつかれ、それはみるみる太くなり、その濃さを増しながら背後に迫った。
 耳のすぐ間近までそれが来て、その息遣いまで私はつぶさに聞いたのでした。私にほんの少しの勇気があって、顔を少しだけ横向けさえすれば、すぐそこにある不気味の白い顔と対面したことだったでしょう。生きたまま食われるのだけは勘弁してほしいと、刹那に思ったものでした。私は往生際悪くよろよろとしか進まない自転車をついに停めて、目を閉じた。それにしても人間とは土壇場で突拍子もないことを考えるものだと、我ながらつくづく思いました。なぜって、この期に及んで身も心も無になればきっとやり過ごせるなどと、途端に私は楽観したのであったから。しかしあれは意志の働きなどでは全然なかった。そうか、熊に襲われると決まったら、痛いもなにも、なにかが身のうちでオフになるのだとしみじみと得心された。だからでしょう、目を閉じてからの数秒だか数分だかの記憶が、ストンと抜け落ちている。

 気がつけば、私はいまだに自転車のサドルに跨っているらしいのでした。これははっきりと私の内奥からする声が、「生きてるぞ、まだ生きてるぞ……」と鼓舞し続けている。全身が震えるのは、恐怖のせいもあったでしょうが、それ以上にそのときはほんとうに寒かったのでした。すっかり汗に濡れた軀に冷気がゆるく吹きつけるとは、蒸し暑かったはずの夜なのにいかにも妙でした。恐るおそる目を開いた私の額を、刹那に氷のようにも冷たい水滴が鋭く打った。また一つ、また一つと落ちてきて、その雨滴のあまりの大きさと重さとに、水銀はたまた溶けた鉛を私は連想するのでした。周囲は先刻と打って変わってすっかり闇に沈んでおり、かえって道路照明のLEDこそは眩し過ぎると感じられた。植えこみの影も街路樹のそれもくっきりと黒いばかりで、奥行きもなにも奪われて、抽象絵画の一部を見るようでした。

 どうやら私は、万事休すのところ、ほかならぬ雨雲に救われた模様でした。その瞬間に月明かりを消した雲こそは、闇よりなお黒いような雨雲で、どうやらそれは、月光なくしては存在し得ないなにかなのでした。あるいはそれの天敵こそは雨だったのかもしれなかった。そんなことを思いながら、私はギアを一にして急坂をふたたびよろよろと上っていき、そのかんも襲来する雨滴の数はいよいよ増して、どうにか難所を越えたときには、周囲の樹々の葉という葉の表をいっせいにざんと打つ雨音を聞いたのでした。
 雨に打たれながら、私は平坦な道を急いだ。あと十分も自転車を走らせれば我が家なのです。家人と子どもたちを、こんなに愛おしく思ったことはありませんでした。早く家に帰りたい。この一心でした。バイパスにいつのまにか車が行き交うのが目につくようになって、さすがにこの時間に歩行者も自転車に乗る者もないながら、街に人の気配はふたたびよみがえるようでした。
 百メートルほど先に、二十四時間営業のファミリーレストランが見えていました。一刻も早く人の姿が見たいと気は逸るのでした。と、行手の信号がおり悪しく赤になり、私は減速した。
 停まりきったときでした。
 私は私のすぐ背後に、キッと、後続の自転車がブレーキをかける音を、たしかに聞いたのでした。


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 家人の話では、私は午前一時前には帰宅したとのことでした。家人も仕事のあることで構わず寝ていたそうですが、風呂場に入ったきり私の出てくる気配がないのを危ぶんで、様子を見にいったところが、バリカンを終えた頭に丁字剃刀を当てて仕上げにかかる最中だった。完全なる禿頭になろうとするのを見て、どうしたのと尋ねると、どうにもこうせずにはいられなくてとはにかんで、なんだか要領を得なかった。
 翌朝、家人は洗濯室の外にまたもや子猫らの鳴く声を耳にして、眠りを破られた。私がしたように普段滅多に開けることのない洗濯室の磨硝子の窓を開けてうかがうと、隣家の塀と洗濯室の壁のあいだの例の隙間に、丸坊主の私が全裸になって蹲り、みゃおみゃおみゃおみゃおと裏声でさかんに鳴いていた。
 以上が病室で家人に聞かされた事のあらましなのでした。

 なにがゾッとしたといってほかでもない、あなたが甲高い声で子猫の鳴き真似をすること以上に、あなたの頭から腕から背から肩からにわかに毛深くなったと見えたほどに上半身を覆い尽くした藪蚊の大群と、慌てて庭に出て助け起こしてあなたが立ち上がったさいに目の当たりにした、足の甲から脛から脹脛から腿から股間から臍の辺りまでをびっしり埋め尽くした蛞蝓だったと、家人はいうのでした。
 それらいっさいの話は、我が事といわれても、まったく預かり知らぬことなのでした。よほど心身が耗弱していたのでしょうと、医者はいうのらしい。しかし私の家系において少なくとも三親等までは頭を病んだ人間はいないはずだったし、私個人の事情にしても、頭を病むほど負荷のかかる生活などしていないはずだった。それでも知らぬうちに心は壊れるもので……と人はいうのかもしれない。家人の声音はいつになくいたわりに溢れていて、私を壊れ物扱いするのは明らかでした。
 身じろぎしようにも、どうやら私は拘束衣なるものを着せられているようで、どうにも身動きが取れないのでした。にわかに恐慌して身を激しくくねらせるも、ベッドを軋ませるのがせいぜいで、かけ布団すら剥がれず、声すらも出なかった。
 声すらも!
 家人は枕元の椅子に腰かけて、果物ナイフで林檎の皮をくるくると剥いているのでした。私は個室に寝かされていて、カーテンを開け放たれた嵌め殺しの大窓の向こうになだらかな山並みがあって、そのきわにいましも陽の落ちかかろうとするのが見えていた。西日をまともに受けて、林檎を剥く家人は赤々と染まった。
 ふと家人の背後の壁に、その影の映るのが見えましてね。見るうちに、これがすうーっと伸びたかと思うと、天井にかかってさらに伸びていきまして。天井を横切った影は窓のところで寸断されたかに見えながら、窓枠の下辺からふたたび現れて伸びだして、私の横たわるベッドの上まで達するかと思いきや、どうやらベッドの下に潜りこんだようで、家人の足先まで来てようやく止まった。
 私はどうしてもそれ以上顔を上げることができませんでした。そしてその日以来、今日まで私は家人の顔をまともに見ることができずにおります。

 郭公の鳴き声にはくれぐれもご用心を。あれを聞いてまともに思慮する者は、必ずや魔に憑かれます。たまには魔に憑かれてみたいなどという酔狂は、冗談にもゆめ思わぬことです。あれは遠い遠い南国から邪鬼を運んで、北の各地に放つ。北の理知的な平穏のなかへ、南の野蛮な夢を産み落とす。夢の托卵までね、あれはするのですよ。
 今朝も未明に私は郭公の鳴き声を聞きました。きっかり四時に、きっかり四度。家人はあれからずっと私の枕元に控えて林檎の皮を剥いております。剥きながらね、ときおり、キッ、キッ、キッと、笑うのです。






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