見出し画像

drive my car #5


【前回までのあらすじ】
梶原の帰還を待ちながら、佐波はチェーホフの短編集を読む。読みながら六年前に一家を襲った洪水の夜を思い出す。

5

 梶原の演技は安定していた。すでに十度を超える公演で、なにごともなければ彼の仕事を代表する芝居となることは間違いなかった。

 死ぬまでその役どころを演じ続ける生き方を選択することもまた可能だったろう。端役を含めた彼以外の役者は年どしに少しずつ交代する。それでも重要な役どころは数年は変わらないもので、彼らは近年梶原と共演することの気楽さをことあるごとに口にした。当初は緊張の連続だった、と彼らは言う。台詞一つひとつに対する梶原の解釈がリハーサルを重ねるごとに目まぐるしく変転する。勢い、彼の脚本全体に対する解釈が安定しない。また演出家はそのような主役の解釈を際限なく許す人だった。だから梶原の一挙手一投足から誰しも目が離せなかった。仕事外の発言すら見逃せない。しかし近年、とりわけ妻を亡くしてからの梶原に、周囲はある種の御しやすさを感じていた。人はそのような場合、艱難によって人物は丸くなると評価したがるものだ。
 梶原の芝居に対する情熱の翳りをそこに見る者はひとりもいなかった。

 梶原は首都高速道路を愛した。とりわけ「首都高夜景」と呼ばれる眺めに近年彼の無聊は慰められた。あるいは幾重にも交叉する高架を夜に下から眺めること。高度経済成長の賜物であるところの無骨な構造物について、月並みではあるけれど、場所のそれであれ時間のそれであれ、座標を見失うような束の間の感覚を、梶原は自身に似つかわしいものと感じた。完成して十年にも満たない首都高は、ソ連のさる映像作家に未来社会を幻視させた。その未来社会は、蛍光灯の白とナトリウム灯のオレンジに照らされた黒ずんだコンクリート砂漠から、レースのように編まれた鉄の骨格と鏡面ガラスの広い皮膚からなる迷宮へと成熟し、とりわけ夜の東京は、果てもなく清潔で、果てもなく静かだった。それでいて絶えず息づいているようなのは、赤や白や緑に加えて、昨今では青が加わって、そこかしこに散りばめられた光が、一定のリズムで明滅するからだった。東京はいつだって濡れている。路面も、車も、外壁も、建物も、樹々も、空も、何もかも。

 ソ連のその映画をふと思い出すことがあった。アメリカの監督による映画のほうも梶原は観ている。いずれも遠い昔のことで、記憶はあいまいながら、惑星自体にたしか人の意識の深層を分け入ってそれを支配する能力があって、主人公の宇宙飛行士が、近づきつつある星に惑乱され、謎を残したまま命を絶った妻の生前の姿をありありと目の前に見る。そうではなかったか。

 そういうことはあるかもしれない。

 梶原は思うのだった。たとえばこの、絶えず濡れて開かれてある夜の東京はどうだ。青山あたりで女の霊を拾うタクシーの怪談話があるけれど、夜が凝って心の奥深くにしまってある「形」がしっとりと濡れた姿を借りて、すぐ隣りにひたと身を寄せてくることはあるかもしれない。
「いつ、来たの」
「もう、さっきから。高井戸を越えたあたりから。あなた、ちっとも気づかないから」
「考えごとをしていたものだから」
「どんな」
「どんなって、取り止めもないようなこと」
「あなたはいつもそうなのね。取り止めもないことばかり」
「そうかな。でもこうして会えるのは、やっぱりうれしいね」
 うっすらと笑みでも張り付くような顔が窓ガラスに映るようで、梶原は途端に夢想から返る。佐波は何も気がついていない。気がついたとしても、それをそぶりに見せる娘ではない。気が置けない、といえばたしかにそうなのだ。不満はない。物足りなさの、あるはずもない。

「光陽のアラさんによれば、きみのドライブテクニックはプロ並みと聞くが」
 後ろ斜めから見る佐波の右側頭部がにわかに強張るように見えた。梶原はかまわず続けた。
「十代は相当やんちゃだったのかな。それとも走り屋か」
「暴走族だったとか」
「たとえばね」
「まさか」
 そのまま押し黙るかに見えた。よほど自分の過去には触れられたくないのだろう。会話は済んだものと思って梶原は窓外に目をやった。佐波が口を開いた。
「車の運転は、父から学びました。中学生のわたしに、仕事用の軽トラを使って、半クラとか、クラッチの切り替えとか、父が教えてくれました。もちろん公道ではありません。田舎ですから、土地はいくらでもありました。頭で操作するな、耳を澄ませ、全身で振動を感じろ、時には嗅覚も頼るんだって、これが父の教えです。軽トラ相手に」
 そう言って佐波は笑った。
「どう運転するべきかは、車が教えてくれる、と。そんな父ですが、走り屋だったとか、族だったとか、そんな過去はありません。若い頃から寡黙で実直で通った人です。妙なこだわりのある人でした。もっと色々と教えてもらいたかったけど、もうこの世にはいません。洪水で家族は家ごと流されました。わたしだけ、屋根の上に逃れて助かった。今から六年前のことです」
 佐波は続けた。
「どうしてわたしだけ生き残ってしまったのか。どうしてみんなと一緒じゃなかったのか。どうしてお母さんは……考えても答えなんか出ないのに、どうしても考えてしまう。まわりはみんな優しくしてくれました。でも人はいつまでも優しいわけではない。だって自分もそうだから。だからいつまでも甘えているわけにはいかなかった。いつまでもどうしてと自分に問いかけてふさぎ込んではいられなかった」
 佐波のことばが途切れてからまもなく、背後から地響きをともなう爆音が近づいて、左車線のこちらを追い抜く刹那、リアスポイラーを威嚇的に上げた青と白二台のスポーツカーが矢のように行き過ぎた。
「それで父のことばを思い出したんです。考えるな、と」
 心の声に従うようにしてアルバイトを始め、貯めた金でまずは車の免許を取った、と佐波は言った。近くにサーキットがあるのは昔から知っていた。車を貸してくれると聞いて、暇さえあれば通うようになって、いろんな車種の、いろいろにチューンナップされた車に乗るうち、車と対話することの醍醐味を覚えていった。
「どんな機械にもクセがあります。それを探りながら、その潜在能力を最大限に引き出すことが、最高の快感でした。なにもかも忘れられた」
「快感」
「そうです。快感です」
 この車の対話はどうだった、と梶原は聞いた。
 ためらう気配が膨らんだ。
 再び背後から重低音のエンジン音が迫って、今度は黄色と黒と赤のスポーツカー三台が連なって疾風のごとく駆け抜けた。
「そうですね」
 佐波は言葉を切った。
「なんというか、押さえつけられてきたって感じがします」
 そういう不満がこの車から聞き取れるのか、と佐波は尋ねた。妻の、入りはメゾフォルテ、そこからのピアニッシモにしてモデラートな運転を思い出していた。
「この車は不満なんて言いません。人に従順な車です。そのように設計されている。それでもなんと言いますか、旧い車だからというより、この車は天性として、荒ぶれた面を持っています。ラリーやレースにも参戦した車です。荒木さんに言わせれば、育ちのいい不良みたいな車。ほんとうはよく走る車なんです」
「ルーレット族顔負けの」
「まさか。さすがに今の車のようにはいかないでしょうが。それでも善戦はすると思います。少し、走らせてみますか」
 梶原はフロントガラスの向こうを見遣った。この鈍重な車が疾走するとは思えなかった。ただ、娘が見せたがるものを見たいという興味は募った。梶原はなんとも答えなかったが、それをうべなうものと察した佐波が言葉を継いだ。
「ご安心を。無茶はしません」

 言うが早いか、クラッチを踏んでエンジンを高らかにふかして四速から三速、三速から二速へつないでから、そこからじわじわとアクセルを踏み出して重い車体を引っ張っていった。エンジン音が高まっていき、これまで耳にしたことのない音域に達すると、タ・タン・タンのリズムでクラッチとブレーキとアクセルをほぼ同時に踏み込んでギアレバーを右手で引き下げる。タコメーターの針がレッドゾーンにかかったところから一気に左に振れ、そこからまた徐々に右へ押し上げられていく。これを繰り返して二速から三速、三速から四速、四速から五速へとシフトを上げていくあいだ、佐波は全身を使った奇妙な舞踏を繰り返し、しかしその慌ただしさとは裏腹に、車体は微塵も揺れず、加速しながら路面にピタリと張りついた。
 カーブに差しかかるとにわかにエンジンが咆哮し、シフトダウンがなされると音もまた転調する。おのずとフォルテとフォルティッシモを、ときにフォルテ・フォルティッシモとを往還する。なるほど、育ちのいい不良とは良く言ったものだ。音はそれなりに荒ぶっても、走りはあくまで柔らかなものの上を転がるような感じだ。
 目の前に立ちはだかるビル群が舞踏会の紳士淑女のように回転しながら両脇に退いて道を開け、その合間へ車が吸われていくような錯覚を得る。右手に火の柱のような東京タワーが見え、これまた回転しながら背後にみるみる遠ざかる。やがてフロントガラスの左端に、緑とオレンジに染められた巨大な中空の矩形が見えて、これが道路の蛇行するたび、ゆっくりと画面を右へ滑るかと思うと、左へまた動いて、あたかもジグザグを描きながら向こうからこちらへ近づくようだった。道が次第にまっすぐになり、ライトアップされた吊り橋の主塔の二つが、意外な巨大さで眼前に迫った。
 車は加速をやめない。はたから見れば弾丸のようにも映っただろうか。
 橋にかかる。上は空の闇、左右は海の闇。対岸を示す光が横一列に連なって、そこから浮かび上がるようにして、高層ビルの影がまばらに見えるが、明かりを灯す窓はほとんどなかった。
 佐波の舞踏がいつのまにかやんで、いつもの背筋の張った運転姿勢に戻っている。車は橋を渡りながら減速した。渡り終えて次のジャンクションにかかる間際、左側を光の筋が並んで、ゆるゆるとこちらを追い抜いていく。
 乗客ひとりいない車内を煌々と照らして、新幹線は音もなく走り去った。

(つづく)

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?