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drive my car #4


4

 いよいよ激しくなる雨と風。建て付けの悪い古い家のことで、そこかしこで隙間を抜ける風音が立った。時折家が大きく揺れた。かと思えば、ガラスに細かな振動が伝って、不出来な楽器のひと節のように鳴る。子ども部屋で寝床を接する小学校低学年の弟がとうとう耐えかねて、親といっしょに眠ると言ってぐずり始めた。半醒半睡の淡いにいた響可は起き出すと、弟の手を引いて二親の寝室に行った。弟は母と父のあいだへ、響可はその反対の母の側へ潜り込んだ。
 遠くで人が大声で呼び交わすように聞こえた。あるいは叫んでいる。なにかが爆ぜるような音が立って目を開くと、窓の外に青白い光線が横一線に走るのを視界がとらえた。雷なら音と光の順は逆のはず。かまえていると、雨風の音の向こうに地鳴りが膨らんで、あれよという間に迫った。
 次の瞬間、大きな衝撃と揺れがきて、家が大きく傾いた。

 梶原のした告白の夜以降も、佐波と彼との関係に特段の変化はなかった。
 あいかわらず佐波は寡黙で、自分から話しかけてくることはまずない。梶原のほうもあいさつのほかは事務的な指示と確認に終始し、立ち入ったことを尋ねるようなことはなかった。無関心が人を追い詰める、という自責のあるいっぽうで、無関心を装うことが配慮となる関係もやはりあるだろう。娘からなにか言い出す前にこちらから聞くことはしまい、と梶原は決めていた。そしてそれは関係性の安定に奏功していると思われた。
 稽古が夜にかかることが重なった。梶原が夜に人と会う機会も増えた。そんなときは、早く上がってかまわないと言われるが、佐波は近くの駐車場に停めて梶原を待った。車のなかで待たないのは、自分の匂いが車に染み付かないようにするための配慮だった。人は自分では気づきにくいが、それぞれに固有の匂いを持つ。車は所有者の巣のようにしてあるべきだというのが佐波の持論であり、自分の気配が車にわずかでも残り続けることを佐波は自身に許さなかった。
 四月も終わろうとしている。日に日に暖かいが、時に寒い夜もある。街なかのベンチや植え込みの縁に腰掛けて、街灯の灯りを頼りに本のページを繰る。寒い夜にはジャケットの襟を立てる。件の十九世紀の舞台作家の短編集を佐波は読んでいた。この作家は短編小説でも優れた仕事をした、といつか梶原が話したことがあった。

 ゆかが大きく傾いで部屋の片隅に寄せられた一家四人が事態の尋常ならざるに気がついて、にわかに勾配となった畳を這い上ろうとしたところで、足元にひたひたと水が寄せてきた。家全体が回転するようで、方向の感覚がつかめない。なんとか壁沿いまできた響可が手探りした電灯のスイッチは、何度上げ下げしても反応しなかった。ベランダに通ずる引き戸のガラスの向こうにはあるべき街の灯りひとつ見えず、四方を漆黒の闇が取り囲んでいる。あるのはガラスを打つ雨滴と天井からおびやかしにかかる風の音ばかり。勾配の下で弟を抱いた父親がなにか叫んでいる。雨風の音が凄くて耳に届かない。聞き返す。叫んで聞き返す。父親と母親の動作がシンクロナイズして、引き戸のガラスを指した。あれを引いてベランダへ出ろと言っている、らしい。響可は察するままに引き戸を開けに行った。地鳴り、地響きと聞こえたものが、間近に滝でもあるような水の走る轟音に取って代わる。晩夏に似つかわしくない冷気が顔をなぜ、同時に川の匂いが鼻腔いっぱいに膨らんだ。遠くの山裾にあるはずの川の匂い。傾いだベランダの下三分の一ほどが暴れ水に浸されて、柵の向こうを見やれば、茫漠たる水の広がりに、家々の二階より上の部分が、あるものはとどまり、あるものは流されて、流されたものはとどまるものにぶつかり、めりめりと崩れる音が方々に立って、人々の姿は見えず、しかし呼び交わす声が風雨の音にまぎれ、轟々と水は走り、全体、得体の知れない巨大な動物の死体の流されていく光景のように眺められて膝がわなないた。

 サーカス小屋の座長の妻となったその女は、座長の意見をそのまま引き写して自分の意見にしてしまう。座長と死別したのち、材木商に見初められて結婚すると、やがて材木に関するすべてが彼女の世界となり、生まれてこのかた材木のことしか念頭になかったかのように振る舞う。前夫のときに傾倒したはずの芝居や芸の全般について、信心深い堅物の材木商がいっさいの興味を示さなければ、妻もまた関心を持たないどころか軽侮する始末。材木商とも死別することになる女は、今度は獣医と昵懇になり、話すことのいっさいがっさいが家畜の病に関することになる。
 その短編の女主人公に、佐波は人のわからなさの本質を見るようだった。人は程度の差こそあれ、周囲の人間や環境に影響され、絶えず変容しながら生きている。自分の確固たる意見などしょせん人は持ちようもなく、それはつまるところ誰かの意見の借り物にすぎない。そしてその誰かもまた、誰かから拝借した意見を自分の意見のように言うにすぎない。誰かの意見なり思想なりを受け入れる容器がまずそこにあって、だから我々人間の本質とは、「容器を満たさなければ生きられない」なのであって、容器の内容物などではけっしてない。どんな思想に染まろうと、どんな極端な考えを抱こうと、それはその人の本質ではないということになる。しかしそれは本当だろうか。
 いっぽうで、これは十九世後半の西洋社会の、ある階級に所属する女の生きにくさを象徴的に描いたものなのかもしれない、と佐波は考える。夫の次に女が頼るものがほかならぬ子どもなのだから。
 女三界に家なし。祖母が生前よく孫を膝の上に呼んで聞かせた話を思い出す。女は幼き時分は親に従い、結婚してからは夫に従い、老いては子に従えと昔は言われたもの。家に縛られるから、そうなる。これからの女は家を飛び出して、自由勝手にやるがいい。
 父の家督として譲られた家から離れられない女が描かれている。獣医が従軍して何年と帰らず、女の容れ物は空虚となり、とたんに容色は衰え、家は黒ずんで屋根は錆びつき、庭は荒れ放題。かたやジプシー村と呼ばれた界隈はジプシー通りと名を変え、サーカス小屋や牧場のあったあたりには新築の家屋が軒を連ねている。
 女は家を出ればよかったのだ、と佐波は思う。家を失えば、女は自由になれたはず。思うはなから、水の音が耳に広がって、川の匂いがそこはかとなくあたりに漂った。

 父親が片手で弟を支えながら片手で母親の背中を押していた。響可はベランダの柵を足場にして水際に迫った屋根の上に飛び移っていた。ベランダから母が手を伸ばし、響可がそれを取る。すでに父親は胸まで水に浸かっていた。弟が父親の頭にしがみついて泣いている。本やらぬいぐるみやらスリッパやらが水に浮いている。母親と目が合って、お母さん、と呼びかけていた。自分の声ではないように震えていた。
 その刹那、鈍い音と同時に衝撃が立て続けに来て、響可は危うく屋根から放り出されそうになった。崩壊した家の端材やらなにやらがのろのろと流される我が家に押し寄せて、その衝撃で父と弟がいた壁の反対側の窓が破れ、一気に水が部屋のなかに流れ込んだ。
「お母さん」
 叫んでいた。
「お母さん」
 必死に両手で母親を引き上げようとしていた。すると、母親のもうひとつの手が、響可の手を力任せにたたいて、そうしてから響可の指を引き剥がしにかかった。
「お母さん」
 母の手が離れた。
 家が片側へ傾いで、瓦の大半がなだれ落ちた。屋根のほかはすべて水に没した。ところどころ屋根の野地板がめくれて垂木が剥き出しになった。この下に父と母と弟がいる。それをわたしは助けられない。父と母と弟が水のなかにいる。それをわたしは、どうすることもできない。

 梶原は戻る間際にメールで一報を入れる。それを機に立ち上がり、尻を払って涙をぬぐう。閉じた文庫本を尻のポケットに突っ込んで、足速に車に戻る。ほろ酔いの梶原が往来に出ると、浅葱色の愛車がきちんと路肩に停められて、彼の帰還を待っていた。
 佐波が運転手を務めてからこちら、梶原の愛車は毎日入念に磨かれた。夜に見るシトロエンDS21はいっそう輝いて、いつもつややかに濡れているように見えた。

(つづく)

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