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あいのさんか #10/10(完)

突然転校した畠中アツコちゃんはセンターの家にいる、とユキヒコくんは主張した。わたしは『未来の王国』という童話を思い出し、幼稚園児のころ、センターの家に遊びにいったときのことを思い出した。
前回までのあらすじ


10

 公園で遊んでいると、タワーマンションのれいのおじいさんが遠くに見えた。

 子どもたちが走り回る園内に足を踏み入れたおじいさんの赤と黒の制服姿は、もちろん目立ったし、いかにも場違いな感じだった。わたしは目が合うよう念じて大きく伸びをして右手を振り、やっほー(A)をあらんかぎりの声で叫んだ。はたしておじいさんはすぐ気がついてくれて、手を振って返した。それから小走りになって近づいてくる。わたしに用なんだと思って、わたしはわたしで駆けだした。走りながら、おじいさんの腕に、ママの作ってくれたパッチワークのリュックが提げられているのをわたしは認めた。

「ママ、アツコちゃんのマンションのおじいさんが、リュックを届けてくれた!」
「え? アツコちゃんのおじいちゃま?」
 あとからママのところに追いついたおじいさんは、息を整えながら、いやいや、私は畠中様のマンションの管理人をしている者です、と訂正した。
「まぁ、それはわざわざありがとうございます」
 ママが深々と頭を下げた。
「いえいえ、どういたしまして。ほんとうは畠中様がご退室された当日に、こちらのリュックをアツコ様に託されたのでしたが、どうにも私がれいのはやり病にかかりましてね。先だって晴れて無罪放免となりまして、それからはちょいちょいこちらの公園を覗かせていただいたような次第で。ようやくお会いできて、これで私も肩の荷が下りました」
「アツコちゃん、元気だった?」
 わたしは聞いた。
「ええ、それは、とっても」

 聞きたいことがたくさん、突然頭のなかに殺到しているのにわたしは気がついた。おじいさんは、なんでも知っていて、なんでも答えてくれそうな気がした。なにから聞こう、と考えあぐねているうちに、おじいさんが帽子を取ってわたしたちに挨拶した。
「それでは、わたしは、これで」
「あの」
 考えがまとまらないうちに、わたしはあせるあまり、先にことばを発していた。おじいさんが顔をあげた。なにもいわず、わたしの次のことばを待つ。
「あの、わたし、アツコちゃんに、さよならをいえなかった」
 すると、どういうわけか、涙があふれて止まらなくなった。

 おじいさんは、わけ知り顔にうなずいてから、満面の笑顔になって、わたしの視線の高さよりやや低い位置になるようしゃがみこんだ。そして、いった。
「大丈夫。私がみなさまになりかわって、万感の思いをこめて、アツコ様をしっかりお見送りいたしましたから。アツコ様なら、大丈夫。あなた様の思いもきっと、届いているはずです。だからこそ、こうしてリュックも戻ってきたのではありませんか」

 うちに帰ってリュックの中身を点検したわたしは、あのとき封を切らなかった菓子箱や菓子袋のほかに、れいのケース入りのカセットテープがまぎれこんでいるのを発見した。テープには、二週間くらい前の日付と、「ママとヒトサライ3号」とつたない鉛筆の字で記したシールが貼られてあった。



 そのときからわたしは、学校の休み時間でも放課後でも、そこが空いていれば校庭や公園の鉄棒に取りついて、晴れの日には欠かさずひとり黙々と逆上がりの練習に励んだ。もう遊んではいられなかった。日が暮れても、わたしは気の済むまで逆上がりの練習をした。すっかり暗くなった公園の隅のベンチに腰かけて、ママと妹はわたしを待った。ママは、わたしが帰るというまで、もう時間だからと急かすようなことはなく、好きなようにさせてくれた。ほんとうは色々と手伝いたかったはずだが、鉄棒にぶら下がるわたしが人からあらぬ加減であらぬ方向に力を加えられることをなによりもきらうことを、ママはよくわかってくれていた。ときおりグズる妹を、なんとかなだめるママを尻目に、わたしは繰り返し繰り返し、空に向かってあしを蹴り上げた。

 わたしは逆上がりができそうな感触を徐々につかむどころか、練習を重ねるごとに、からだの動きがバラバラになって、逆上がりとは似ても似つかぬなにかに挑戦しているような錯覚を覚えるのだった。逆上がりのできる子たちの逆上がりをいく通りもこの目に焼きつけてきたから、イメージトレーニングは完璧のはずだった。そしてわたしの動き、わたしのからだは、イメージの統一からどんどんかけ離れていく。

 やがて手のひらの皮が剥け、血がにじんだ。わたしは包帯を巻いてもらい、その上から軍手をして、逆上がりの練習をやめなかった(タキタくんは文字があるところでは必ず立ち止まって熱心にそれを読む。こないだは火災警報器の注意書の細かい文字を微動だにしないで追っていた。廊下に張り出された子どもたちの読書感想文のすべてに目を通すのも全校生徒でおそらくタキタくんだけだったろうし、新しく設置されたエアコンやプロジェクターの取扱説明書も熱心に読んで暗記していた)。

 地面に激しくあし裏を打ちつけるせいで、靴底が剥がれた。そんなものはでも、いくらだって修繕できる(ユキヒコくんはホカワ先生と「対決」して以来、学校を休んでいる。おうちの人が、教科書で教卓をたたいたホカワ先生の行為を暴力だとして告発したらしく、校長先生が何度かわたしたちの教室に授業の見学にきている。ホカワ先生はホカワ先生で、この頃ではなんとなくわたしたちによそよそしかった)。

 鉄棒に下腹部をしたたか打ち続けるせいで、やがて棒状のアザがオマタの上あたりに横一線についているのを、お風呂のときにママに発見された。たしかにわたしは、毎日逆上がりの練習をすることで、いたずらにからだをいじめてるのと変わらない(風邪の次は骨折で学校を休んでいたフウカちゃんは、今度は偏頭痛に悩まされて登校できないでいる。この調子では年内には会えないかもしれない)。

 恐れるな、助走をつけて離陸せよ、空高くあしを蹴り上げよ、目をつむるな、顎を引け、空の果ての果てを見定めよ、下腹部を鉄棒から離すな、密着させよ、肘を曲げるな、巻きつけ、鉄棒に巻きつけ、もっと勢いをつけて、もっと高く、もっと遠くへ、空を駆けるように、空を飛ぶように(アツコちゃんはコンシェルジュのおじいさんが真冬の駐車場の番をするのを見つけると、きまってカイロを届けにきてくれたそうだ。管理人室にきて、何時間もそこで過ごすのも度々だったそう。お土産といって、食べきれないほどのプチケーキを持ってくることもあった)。

 ある日突然、それは起こる。わたしはあいかわらず鉄棒にひとりだった。日は暮れかかり、子どもたちはまたひとりまたひとりと帰路につき、公園の隅のベンチにはママと妹が赤々と夕日に染まるばかり。

 これが最後と蹴り上げたあしが、何者かにさっとつかまれたようになって、前へ引かれ、そのままでは仰向けに落ちる、と危ぶまれた瞬間に、今度はすうっと真上に持ち上げられて、わたしはいま、自分のからだがピンと一直線になって、地面に対して逆さに垂直になっているのを知った。スカートがめくれてスパッツが丸出しになっていた。その瞬間は永遠のようにも長く、わたしはなにかの決断をうながされるように感じた。やがてわたしは決断した。とても難しいと思っていたそれは、拍子抜けするほどたやすく、あっけなかった。世界は回転した。わたしは元のように地面に立っていた。ベンチのほうから歓声が上がる。世界が、回転した。そして、わたしは再び地面に降り立って、その世界は元の世界ではもうなかった。そしてわたしもまた、元のわたしではなかった。



 翌日の放課後、急いで帰宅すると、ランドセルを投げだし、パッチワークのリュックを背にするなり、矢も盾もたまらず飛び出した。ちょっと、どこへ行くの、とママがいうのへ、公園、とわたしは答えた。それはおそらく、わたしが生まれて初めてついたウソだった。

 事前に学校支給のiPadで調べた経路をたどって、わたしは自転車を走らせた。住宅街の外れの、大学のキャンパスに隣接する閑静な一画に、それはあった。辻の角のひとつを占めており、わたしは辻をはさんだ斜め向かいの電信柱の陰に身を寄せて、待った。
 どのくらい待っただろう。時計もないので時間の経過はわからない。女の子がふたり、家のなかに入っていった。それからおそらくはセンターのお母さん役の人が、二度玄関を行き来した。見覚えのない人だった。アキホくんにも会えるかもしれない、と思って息を詰めていたが、とうとう男の子の姿は見かけなかった。

 日もとっぷり暮れて、アテがはずれたかと思いかかったその矢先、向こうから、見覚えのある背格好のシルエットがとぼとぼと歩いてくるのが見えた。ふいに逃げだしたくなっている自分を鼓舞して、わたしは自転車を降りて塀に立てかけた。辻に差しかかったアツコちゃんは、あいかわらずぶつぶつと独り言をいっている。ギャル服も健在。それを見てわたしは、アツコちゃん、えらい、と思う。

「やっほー」
 アツコちゃんの行手に踊りでると、わたしは呼びかけた。
 顔をあげたアツコちゃんは、わたしが誰だかちょっとわからない、という顔をするようだった。対峙するふたりの影はとても長くて、辻の路面を斜めに横切ると、希望の家の玄関脇の壁で折れて、頭の部分がふたつ並んだ。アツコちゃんのは大きくて、わたしのは小さかった。

 わたしはアツコちゃんのほうへまた一歩踏みだすと、背伸びをしてその耳元に口を寄せ、練習しておいた「あいのさんか」をひとしきり歌った。

「なにそれ。捨てられた犬の鳴き声のマネ?」
 怪訝そうにいって、アツコちゃんは身を離すと、怒ったように顔をこわばらせてしばしこちらを見下ろしたが、それも長くは続かず、やがてわなわなと震えてきて、とうとう吹き出した。

「逆上がり、できたんだよ。今度、見せてあげる」
 わたしはわたしで、満面の笑みを作って、そう告げていた。

おわり

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