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二口女

妻との馴れ初めは、いまどき珍しいことに見合いなんです。上司の大学時代のご学友のお嬢様でして。見合いをしたのは、そう、昨年の春頃でした。

さらに遡ること年の瀬に、私が役員の居並ぶ酒席で問われるまま長年恋人のない旨話しましたところ、件の上司がそれを気に留められて、後日、特別な事情がないならいい人があるからその縁談を受けてみてはどうかと、そうおっしゃるわけです。君は会社の将来を担う人材なんだという叱咤激励をも、その言外に察するに私もやぶさかでなかった。

私も三十になんなんとする齢で、独身のままでは勤め人の今後になにかと障りがあろうとは感じておりました。特段自分を奥手とも思わず、異性からのアプローチも人並み以上にあるほうとは自負しておりましたが、なにぶん恋愛に限らず、人間関係全般に私は淡白すぎるよう。このままではいけないと思い悩んでいた矢先でありました。縁談を断る理由など、もとよりございません。

白金は老舗の珍宝園に一席設けていただきましてね。上司のご学友というのが、さる有名商社のパリ支局長を長年務められ、このたび役員に昇格されたとても優秀なお方であらせられるのでした。ご一家もパリ滞在をともにされ、一粒種のお嬢様が当地のリセを卒業されたのを機に帰朝されたという。お嬢様のほうは、本邦にて大学卒業後希望通り国連関係の仕事につかれて三年と働いたものの、激務に堪えかねて現在は苦渋の決断で在宅の翻訳の仕事をしながら自宅療養に励んでいる由。心身の病い持ちでないことだけは、私どもが命に代えて請け合いますと、父君も母君も深々と頭を下げられる。それは、もう、と私としては捗々しくお返しする言葉なんてないわけでして。

私の履歴について、先方はとりあえずの及第点を与えている模様でした。
「あとは、まぁ、お若いお二人にお任せして……」
そう上司のとりなしたのを機に、両家の二親はいそいそと席を立って別室へ引き移った。

私は洋装、向こうは和装です。萌黄地に春の花散らした艶やかなお着物です。帯に藤の花とは、無粋の私にもわかります。ずいぶんと派手なお召し物でも、それに負けない晴れやかな顔の作りをしていて、宮崎美子という女優さんのお若い時分を彷彿とさせるような、要は明るい美人さんなのでした。それは写真以上の好印象でした。

惜しむらくはその体型で、ぽっちゃりという形容ではもはや収まるべくもない、巨軀なのでした。私はご覧のとおり痩身の部類ですから、これではもう、並び歩くだけで人様の笑いのタネになるのは明らかでした。

互いの趣味について訥々と尋ね合い、どうにも投合できぬままいたずらに時を過ごして、とうとう私ははばかりに立つ口実をもうけたのでした。途中ハンケチを忘れたのに気がついて引き返すと、座敷から話し声がする。娘が誰かと話している。私は柱につと身を寄せまして、悪いとも思わずに聞き耳を立てました。

「それでどうなんだい」
「どうって、わたしはどうでも、向こうはきっと気に入らないわ」
「なんで」
「だって」
「だって、なんだい」
「だってわたし、こんなおデブさんなんだもの」
「まぁたそんなこといって。蓼食う虫もなんとやらでね、そう世の中決めつけたもんじゃないよ」
「姉さんになにがわかるのよ」
「なんだってわかるさ。こと妹の命運はさ、あたしの命運でもあるんだから。今度はきっとうまくいく。妙に予感がするんだよ」

初めケータイで誰か、お姉さんと話してるのかと思った。ところがどうもデバイスを取り出してなにする気配ではない。それでは一人二役かとなりまして、ご両親が深々と頭を下げられたのがいまさらのようにまざまざと思い出された。二重人格というんですか、いや、あれは一人の人間のなかに人格が複数あって、同時に二人以上が発現することはないのでしたっけね。とすると、イマジナリーフレンドってやつかと思いなされまして、いずれにせよ正気の人ではないわけだ、とちょっとがっかりしたわけなんです。とてもこれ以上は聞いてられないとなりまして、踵を返しかけますと、
「それよか、j’ai faim! あたしゃ腹が減ってたまらんのよ」
「お姉さん、ちょっとのあいだ、我慢してくださいな」
「ああいう痩せた男ってのは、たいていが緊張しいの腸弱だから、いまごろは個室にこもってうんうん唸ってるところさ。当面戻ってこないんだから、そこの茶菓子、おまえのと向こうの落雁だよ、いますぐ食わせてちょうだいな」
「ダメよ。あの人に気づかれて、私なんていったらいいのよ」
「正直に、あなたの分まで食べちゃったって。イヒヒヒヒ……」
「いやよ。そんなの、惨めすぎるわ」
いいながら後ろ手に簪をさっと抜き取りましてね、結い上げた髪をわさわさっと下ろしましたところが、なんとしたことでしょう、長の黒髪が蛸の触手のように八方にうねりながら伸びていきまして、そのうちのひとつが卓上の落雁をつまみあげると、これをうしろへ持ってきまして、そこへ娘が両手を回して後れ毛を残らず上げたところが、うなじにお目見えしたるは真紅の分厚な唇、これがクワっと開きまして、漆黒の奈落へ落雁が放りこまれたではありませんか。あまりのことに声も出ない。足元がわなないて、立っているのもやっとでした。

「姉さん、早くしてっ」
「さすがは珍宝園、こいつは諸江屋だね。よく味わって食わねば損損」
舌なめずりすると、またうねうねと髪が動いて二つ目の落雁をつまみあげ、これを大口へ運ぼうとして、ここに至ってぴたりとすべての所作が止まった。
「ちょっと、姉さん、どうしたのよ」
娘はさっきからずっと前を向いてるきりなんです。だからうしろのことは皆目わからない。私もなんだろうとなりまして、うなじにある大口を気力で観察するわけなんです。そうしますとね、うなじにあるのは口ばかりなんですが、掻き上げた髪のなかになんとなく視線の発信元があるような気がして、それを辿りますとね、座敷の壁際に飾りの船箪笥がございまして、その上に古風な銀縁の丸鏡が置かれておりまして、その鏡のおもてに、娘のうなじが正面から映っている。ということは、うなじからは、その鏡を通じて柱の陰に立つ私が丸映りしているというわけなんです。すると鏡のうなじ全体がほんのり上気しましてね、肉厚な唇がにわかにすぼまって、チュッと音まで立てまして、いわゆる投げキッスをこちらへ送って寄越したのでありました。

というわけで、縁談のお相手は世にも珍しい二口女だったんです。早々に秘密を暴かれて破談を決めてかかる向こう様でしたが、とんでもない、こんな良縁、こちらとしては願ってもないことなんで、なんなら婿養子に入ってもかまわないとこちらから頭を下げた次第。

お姉さまは、あちらの欲求を食欲で代替していたものですからね、以来みるみる食が細くなり、娘もそれに合わせてみるみる痩せてまいりまして、いまでは街を歩けばモデルの勧誘の声がかかるほどの美ボディになりました。

結婚してはや一年ですか。そりゃあ、もう、薔薇色の日々ですよ。少しやつれたんじゃないかって? そりゃそうでしょうよ、なんてったってうちの妻には口が三つもあるんですから。

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