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「あなた、今度の日曜日、上野、行けますよね」
 夏休みのイベントの一つとして、上野で開催中のデ・キリコ展へ子どもたちを連れていくという約束を、辰美は忘れたわけではなかった。駅構内に貼られたポスターを目にして以来、中学生の息子がその展示会に行きたがっているとは、妻より前々から知らされていた。まだまだ日はあると悠長に構えていたら、気がつけば八月も下旬、あと数日もすれば子どもたちの夏休みも終わるし展示会も終わるとあって、心残りでないわけはなかった。それでもいつまでも重い腰を上げないのは、日時指定のチケットがなければ入場できないとサイトで知ったからで、辰美にとって混雑する美術館ほどうんざりするものもなかった。車酔いする人間がバス旅を思い浮かべて頭の芯から嘔気の滲むように、入り口付近の黒山の人だかりを想像するだに怖気をふるわずにはいられない。

 妻に問われ、辰美は生返事をする。
 八月最後の日曜日といえば、サントリーホールの青薔薇ブルーローズでの希江のリサイタルと重なった。六月の梅雨入りの時分に届いた一通の白封筒には、宛名のみが達筆で記されてあった。それをいつもの習いで諸々の通知といっしょに夫の自室の机上にある鎌倉彫りの文箱のなかへ重ね、以来それについてはいっさい問い質しもしない妻であったが、はたしてお腹のなかでなにを思うやら。彼女に限ってこの一事を捨ておくはずもないのだ。封筒の中身が生涯初めて契ったひとからのコンサートの招待状であるについて、むろん辰美はおくびにも出さなかった。
「チケットは明日、わたしが人数分購入しておきますから」
 妻は念押しするようにいった。


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 本館の大講堂で行われるマクロ経済学概論の講義は、四月中こそ連日の満席だったのが、五月の連休明けから空席が目立つようになり、六月ともなると半分も埋まらなかった。出席者は所定事項を記した出席カードを教卓の横にあるボックスへ投ずれば出席とみなされ、じき一人が十人分の出席カードを代筆しようと、老教授は根っからの節穴か、節穴を演じるに甘んずるふうだった。四月時点での講義の盛況ぶりは、テレビのコメンテーターとして多少は知られた名物教授に対する期待値の表れにほかならず、六月時点でのこの閑散ぶりは、そのカリスマのかりそめをこそ暴露していた。

 大学入学早々、辰美は孤独だった。その孤独を得難い病いのように彼は愛した。地元くにでは名士で通る叩き上げの父親がほとんど独断で敷いたような辰美の進路だったのであり、地元で唯一の私立の大学附属校に中高と通わされたにしても、学歴ばかりはどうにもならなかった父親のやみがたい願望の、遅ればせながらの代替に過ぎなかった。都心の一等地に月十万を超えるマンションを借りたのだって辰美のためというよりは自身のためであり、長期休暇の折に東京の大学生の息子を訪ねるのが父親の当座の夢であった。辰美は勉強に限らずスポーツでも芸事でもさしたる努力をせずとも短期で要領を得るに優れ、加えてボンさん育ちが奏功したものか、なにごとにつけ恬淡で、こだわらず、だから父親と争うことなどついぞなかった。
 父親の桎梏しっこくは当面逃れ得ないにせよ、彼もいまや千里の彼方と思えば辰美は哀しくも自由であり、つまりは嬉しくも孤独だった。孤独をかこちながら、高三の修学旅行で見物したパリはソルボンヌ大学の amphithéâtre階段教室を彷彿とするこの摺鉢状の大講堂を少し高いところから一望に見渡すのは、辰美にとっての至福だった。ハイブランドの服を嫌味なく着こなす周囲の良家の子女らのうち、およそ百年前に建てられたこの学問の大伽藍の、本邦建築史における重要性を意に介する者など一人としていはすまい。黒板の上に君臨するソクラテスとの対話をモチーフとした巨大なモザイク画、作りつけの椅子、机、照明はいうに及ばす、講堂内の設備において建築家の天才の刻印されぬものなど一つとしてなかった。意匠の細部について、フランク・ロイド・ライトの模倣ないしは影響を指摘する批評家も少なくないが、建築家が目指したのは江戸小紋のアール・デコ風の大胆なアレンジであり、和洋折衷様式にほかならなかった。そしてその試みは随所で破綻しており、和でも洋でもない新しいなにかが絶えず生起しようとしては小康し、小康しては生起しようとする未生の運動そのものとして空間を満たした。良き建築物の内部に身を置くとは、すなわち良き思想、良き哲学、そして崇敬なる野心に全身を委ね包まれることと同義であるとは、辰美が十八にして自力で会得した人生訓だった。辰美としては、未熟者が末席を汚す心算で講堂後方の隅に身を置いたのであり、はるか昔に物した自著を教材にそれをほとんど朗読するばかりの老教授の講義をBGMに、もっぱら手元に開くのは『マノン・レスコー』『クレーヴの奥方』『危険な関係』といった、フランスの古い心理小説の翻訳だった。文学への傾倒は、父親に対するささやかな、そしてあまりに常套的な抵抗としてあっただろうとは、いまにして思うことである。

 辰美のこの孤独の揺蕩たゆたいを不意に乱した者こそ、ほかならぬ希江だった。遅れてきた上にこの伽藍堂にあって、わざわざひとつ飛びの席に着座する何者かの、社会的距離感ソーシャルディスタンスの狂いに対する非難の一瞥をくれながら、そのじつ見て取ったのは、肌の抜けるように白い黒髪の長い女であるという一事だった。いい匂いがした。同じことが二週三週と続けば関心を寄せざるを得ないのも道理、読書はともすると散漫になりがちで、チラチラと盗み見たところでは、キャンパスの銀杏並木の下を闊歩する女子らに負けずとも劣らない都会育ちの楚々たる風情を纏いながら、派手さとは対照的な落ち着いた感じがいかにも好もしく、加えて開いたテキストの上に重ねる形でなにやら文庫本を読み耽るようなのが辰美の気を引いた。

 その日、講義が終わって立ちかけた辰美の眼下へ、横からすうっと裸の文庫本が差し出された。文庫本より先に、添えられた手の美しさにまず目を奪われた。細い華奢な指先に並んだ爪の桜貝を、辰美は生涯忘れ得ない。新潮文庫のそれは、プロスペル・メリメの『カルメン』だった。その心を読んだ辰美は、黙ってリュックを探って革カバーつきのそれを引っ張り出すと、カバーを外して机上の文庫本の横に並べた。岩波のコンスタンの『アドルフ』だった。
「そうきたか」
 女子はそう呟くと、ひったくるようにしてカルメンを取り上げ、挨拶もなく颯爽とその場を立ち去った。

 その翌週の講義の終わりに、今度は辰美からその日読んでいた文庫本を示してみせた。それを認めるなり、胸先の空気をつかむように右手の拳を握り締め、「ビンゴ」と小さく叫んだ。机上には、新潮のレイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』が仲良く並んだ。
 それは、運命さだめの暗示としてあまりにも雄弁だった。しかしまた、安定を約束された世界線に生じた齟齬のようにもあのときの明澄感は異様に際立っていたと、いまの辰美ならそう思い出すかもしれない。


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 都内の某高級住宅街にある家に来るよう希江に誘われたとき、そして家には家政婦しかおらず、両親は毎夜八時を過ぎなければ帰宅しない、家政婦は全面的に自分の味方であると希江がいい添えたとき、そうなるための誘いとわかっていながら、辰美のほうの準備はままならなかった。なにぶん初めてのことだからとはいい訳の常套句だが、あらかじめ避妊具を買っていくというさもしさに、そもそも彼の若さは堪えられなかった。コンビニであれ薬局であれ、それをレジで店員に差し出すことの後ろ暗さに、彼の若さは堪えられなかった。
 辰美にとって希江は初めての相手であり、希江にとって辰美もしかりだった。希江の家は大邸宅とまではいかずとも、往来に面してわずかに凹面を成す、大谷石の砕片を平たく積み上げた塀からして洗練の極みというもので、塀に続くシャッターの降りたガレージは三台ぶんの間口があった。玄関の扉の重厚感といい、上り框から続く床板の飴色の艶やかさ、そして軋みひとつ立てないその堅牢さといい、なにからなにまで辰美の初めてじかに触知するものばかりだった。居間に置かれた家具調度の類はどれもイタリアから取り寄せた一品ものという話。ほとんど骨董ともいうべき和式のそれに統一された実家のありようと引き比べ、その対照的な贅のこらし方に辰美は舌を巻いた。極めつけは壁にかけられた数点の絵画で、どこかで見たようなとしばし立ち止まって眺めるうち、最近小説の新刊本の表紙を手がけるようになった新進気鋭の銅版画家が、売れる前に父親の注文を受けて描いた肉筆画であると希江は明かした。
 二人は狂ったように交わった。二階の香を焚き染めた、一人娘の部屋で。カーテンを閉め切った薄暗い部屋の、どこまでも続く純白の海原の上で。二人はさながら二頭の淫らな鰻であった。交わり、絡み合い、それ以上互いへ潜りようのないことがもどかしくて喘ぎながら、中央に慎ましい井戸の開く褐色の不毛の砂漠へ、続けざまに三度放たれて、三度拭われた。
「声が……」
 そういって希江は両手で顔を覆った。それを引き剥がしにかかる辰美、くるくると笑いながら希江はかわしてタオルケットを引ったくると、古代ギリシャか古代ローマの女のドレープのように身に纏って軽やかにベッドから降り立って、壁際のバング&オルフセンのオーディオセットへつと寄って電源を入れた。微睡まどろみの渦へ急速に引きこまれながら、辰美はかろうじて感想する。
「聴いたことある」
「ヴィヴァルディの夏。わたしはいつもこれを弾きながら、ひとり昂っていた」
 大音量の「夏」に満たされながら辰美はふたたび奮い立たされたもので、それから冬の終わりまでさらに四度と解き放ち、鈍く光る柔らかな砂漠を泳ぎ切る。

 希江の家の最寄駅から辰美のそれまで同じ路線で三十分とかからないはずが、三時間の道行となったのは、電車の空席にありついてそこへ座るなり泥のように眠ったからだった。樹々の向こうがふいに開けて、黒々とした海の遠く彼方に儚げに浮かぶ漁火を見たのは、あるいは夢ではなかったかもしれない。その私鉄の下りの最果ては、海辺にある古い城下町だったのだから。それからまた眠りの底へと引き摺りこまれ、目覚めたときには車内は帰りの通勤客でごった返していた。
 ぎゅう詰めにもかかわらず、いつまでも自分の両隣りの席が空いたままなのを、辰美はしばらくして訝った。最寄駅に来て立ち上がると、周囲の人間らは弾かれたように彼に道を譲った。女を初めて知った男ならではの放つ気でもあるかと面映さを感じながら駅のホームに降り立った辰美だが、便所へ立ち寄って洗面台の前の鏡を一瞥するなり、車内でなぜ自分が周囲から避けられたかを知るに至る。
 タックアウトの白シャツの裾が血に塗れていた。当初、これを着たまま希江の上へのしかかったのを思い出した。それが破瓜の痕跡であると思い当たるまでに、辰美はしばらく時間を要した。


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 八月最後の日曜日が意識されると、たちまち辰美の夜は狂い始めた。明け方まで爛々と目が冴え渡る。脳中に金色の音が一筋に鳴る。徹夜に耐える年齢ではなかった。日中も意識すれば金色の音は始終聞こえていて、前触れもなく心臓の鼓動がトットットットットトトトトトトト……と速くなり、とめどもなく駆け出す気配におののいて、ふと立ち止まる、目を閉じて壁に手をついて呼吸を整えながら、破滅に至らぬようやり過ごす。
 夜中の二時を回って、自室の机に向かって座りつき、往時のよしなしごとを手繰り寄せながら、辰美は自身の首まわりを右の手のひらでぐるりと撫ぜた。そこへ添えてじわじわと力をこめ始める希江の両手の感触がまざまざと蘇るようだった。音大に進むべきか最後まで悩んだというほどの腕前で奏でられたヴァイオリンソロの音まで、かすかに聞こえるようである。ヴィヴァルディやバッハを音量を絞ってスマホで再生すると、往時の会話までありありと思い出されてくる。初めての者同士は死んだのちにまた向こうで落ち合うの。上背のある彼女は裸身にシーツを袈裟懸けに纏うと、ふだんさしてクラシックに馴染むわけでない辰美にさえ速すぎるのではと危ぶまれるほどのテンポで、フレンチオールドのヴァイオリンを弾きこなした。腰まである髪の、薄暗がりに振り乱れるさまといったら、荒れ狂う黒き火焔のようだった。だからいっぱいしよう。互いに忘れないように。辰美はつまらぬ理屈で応酬したのを思い出す。もしどちらかが早死にしたら。そのあとで、生き残ったほうはたくさんの恋愛をするかもしれない。生涯この人という人といずれ結ばれて、その後は波乱なく天寿をまっとうするかもしれない。それでも初めての者同士は死んだのちに落ち合うのか。必ず落ち合う。のちに誰かと二百まで添い遂げようとも。先に逝った魂は、だから三途の川アケローンを渡る手前であとなる魂を待ち続ける。もしわたしが先に逝き、日夜対岸の三頭狼ケルベロスの咆哮に怯え渡し守カローンに罵倒されながら何十年と暗黒の河原を彷徨うなんてことがあるとしたら、わたしにはとても堪え難い、だから。そういって騎乗する彼女はやおら両腕を伸べて下なる者の首へ輪っかにした両手を添え、じわじわと力をこめる。辰美がその戯れを面白がるのも束の間、思わぬ剛力に狼狽えて、降参を叫ぼうにも喉は潰され、その華奢な両手首をつかんで剥がそうとするも、二本の冷たな鉄棒かなぼうのようにびくともしない。

 招待状に印字されたソリストの名は旧姓のままだった。しかし仕事とプライベートで姓を使いわけるとは十分考えられることで、未婚であると決めつけるのは早計だった。チケットの表にはマックス・エルンストのタッチに似た油彩の一部が大半に印刷されてあって、協賛する大手企業二社の名が見えることから楽団がプロであるとは判断されるが、むろん辰美に聞き覚えのあるものではなかった。ネットで容易に調べられようが、そうする気にはとてもなれない。

 やがて胸の古傷が疼きだす。
 大判革装のイタリア美術史の何巻目かを枕元の紫檀のナイトテーブルに開いた希江は、ステンドグラスのティファニーランプに照らして、ページいっぱいにあるフラ・バルトロメオの聖セバスチャン殉教図をしげしげと眺め、左脇と右下側胸部に刺さった矢を愛おしげに指先でなぞり始めた。その同じ指先で、辰美の左脇と右の側胸部をなぞるのだった。いまや辰美は完全なる囚われの身であった。両手はあらかじめ用意された革紐で何重にもいましめられて頭上のベッドボードの端に固定されてあり、両の足首には同じ革紐が固く結ばれてその端はベッドの脚へ括りつけられてあった。勢い脚は大の字に開かれて、下腹部より下をシーツで覆われる以外はまったき裸であった。自身のこのあまりの無防備さに怯える辰美の耳元につと口を寄せ、希江はいう。怖がらないで。大丈夫なんだから。純白のハンカチを取り出すと、そこへ(おそらくは父親の仕事道具の一つだったろう)茶色い小瓶を逆さにして中身を染みこませ、辰美の鼻と口とを覆った。たちまち遠のく意識において、見紛いようもなく矢の形状をしたものが希江の両手に握られ、彼女の頭上に振り翳され、たちまち振り下ろされたのをしかと見届けた。その先の記憶が曖昧模糊としている。右の側胸部に得た激痛を鮮明に覚えているつもりでありながら、それは意識を回復してからのあとづけの偽記憶であるのが本当のような気がするのである。見知らぬ中年女が辰美に覆い被さって、四肢に結ばれた革紐を必死に解きにかかるのを見たように思う。おそらくは希江の家の家政婦だったろう。希江の泣き叫ぶ声を聞いたようにも思う。あるいは白髪の紳士が辰美の顔を覗きこむ。瞳孔を調べ、脈を測る。心音を聞く。希江の父親だったかもしれなかった。いずれにせよ、意識を取り戻したときには、縁もゆかりもない海辺の総合病院の個室に辰美は収容されていた。
 のちに若い男の看護師が来ていうに、この念書にサインするまで君はここから解放されない。施術された記録も入院した記録も残らないし、辰美の実家へ今度のことが知らされることもない。もちろん治療費その他を請求されることもないから安心したまえ。
 一人になって、渡された念書の文言を何度となく読み返し、辰美はついに涙を流した。置かれた状況をどこか他人事のように感じながら、割り当てられた自身の役割において、泣かねばならぬと思ったから泣いたのだった。二度と希江と会えなくなることが悲しいとか悔しいとかではなかった。あるいは、念書にサインさえすれば許されるという安堵も、少なからず手伝ったかもしれない。そして翌日、誰にも見送られることなく辰美は退院した。


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 胸の古傷が疼く。
 冷たい指先がそこへおずおずと這っていき、探り当て、柔らかになぜる。これはなに、と尋ねられ、幼少時に父親から受けた嘘の虐待について、辰美は訥々と打ち明ける。いつまでも息子が補助輪なしの自転車に乗れないと聞いた父親が、自ら指導を買って出て、補助輪を外した自転車を持って庭へ出た。息子に好きなように乗らせてしばらく観察し、「ここのあいだを通ってごらん」といって示したのが生垣沿いの芝地の縁で、ゴムホースがまっすぐ横たえられて片側のコース取りをしている。父親のいつにない優しい声音に怯えつつ、この程度の幅なら十メートルかそこら直進するのはわけないと自転車を構えると、向きが違うと父親手ずから自転車を置き直す。生垣が右側になるようにして進めというのだ。おまえは右に逸れていく傾向があるからと父はいうのだったが、垣根は枳殻からたちで構成されていて、悪辣としかいいようのない鋭い棘がほうぼうへ突き出していた。
「父はそこへ突っ込んでいく息子を助けなかった。息子は息子で、わざと枳殻のほうへ軀体を寄せていったように思う。そうすることのほうが、父親になにかいわれるよりよほど救いだった。でも、枳殻の棘に深く全身を食い込まれて身動きの取れなくなった息子を見下ろした父親の、あの蔑んだ、冷め切った目を、死ぬまで忘れるものではないよ」
 聞きながら、愛おしむかのように、あるいはそうすることで傷痕が消えるとでもいうように手はそこを執拗になぜる。くすぐったいと身を捩るがどんな姿勢をとっても手はついてくる。たまらず上からつかんで引き剥がしにかかると、それは拍子抜けするような軽さで、手首より先の部分のみが辰美の手の内にあり、まるで裏返しにされたゾウリエビのように、まじまじと見つめる彼の顔の前で、白い細い五本の指を蠢かした。
 それはかつて若い時分の妻の右手だった。いまとなっては手首の向こうは時の彼方に霞んで、辰美とかかわった少なからずの女たちと重なって、もはや見分けもつかない。

 八月最後の日曜日は、台風が関東地方に上陸すると天気予報は告げていた。
 日曜は台風らしいねと辰美のいうのへ、妻はあえてその仄めかしを受け流すようだった。辰美もそれ以上はなにもいわない。当日になればなるようになると、どこかで多寡を括っているのでもあった。
 いつになく大きい台風が来るとのことだった。今般の報道にかかればなにもかも「記録的」ということになる。しかしじっさいのところ、衛星写真を見れば台風の目は九州のさらに西の海上にあるのに、渦の一端が蕨の茎のように東へしなやかに伸びて、東北より南を真白く覆った。その結果として一日の天候は目まぐるしく変わり、晴れたかと思えば暗雲立ちこめて雷雨となり、ふたたび晴れ間を見せながら雷鳴はいつまでも去らず、遠くの雲のあちこち発光さすさまは、さながらこの世の終わりの予兆であった。そしていずれの時間にも、上空の風は凄まじく、黒雲の切れ端が、追われるように、あるいはどこかへ馳せ参ずるように、矢のごとく飛び去った。
 週末にかけて天候の荒れぶりはクレシェンドをなし、日曜当日の未明から吹き荒れる風は家屋という家屋を揺らして眠る者らの眠りを脅かし、襲来する雨の一滴一滴はさながら高炉で溶かされた金属のよう、地を覆うことごとくを銀色に染め上げる。水は雨樋を溢れ、滝となって庭の露土を打ち、たちまち溝をなして軒下に煮えたぎる池をなした。
 戸外の騒擾に一旦は目を覚ました辰美だが、ブラインド越しに見る薄闇の庭の樹々のなぶられるさまを眺めるうち、次第に心身ともなずんでふたたび眠りを得たもので、その声を夢うつつに聞いていた。
「……そろそろ起きて。支度して。出かけるよ」
 足先にある自室の戸が開けられて、見ると黄色いレインコートを着込んだ妻と子らの四人がこちらを覗き込んでいる。
「出かける? どこへ」
 辰美のいぶかるのへ、
「上野だよ。デ・キリコ展」と妻。
「いや、新幹線も運行停止するって」
「中央線は走ってる。こんな日だからこそ、あなたも人混みに煩わされなくて済むでしょうよ。絶好の鑑賞日和だよ」
 妻はいうのだった。いや、デ・キリコなんて興味ない……といいかかって、息子が見たがっていたのだと辰美は遅ればせに思い出した。いいだしたら聞かない妻であるから、観念して飛び起きると、起きしなの支度もそこそこに、押入から数年来袖を通していない黴臭い黒のレインコートを引っ張り出してきてそれを羽織り、先陣切って玄関の扉を開けた。開けた刹那、眼前に広がったのは庭にあるより広大な雨滴に煮えたぎる濁り池。往来からきざはしを数段下がったところに玄関はあったから、往来の側溝を溢れ出た水が階に沿って流れ落ち、玄関先の三坪ほどの土地をすっかり覆って、玄関のすぐそこまで迫っていた。ゴム長への履き替えを迫られた辰美と入れ違いに、子どもらは歓声を上げながら水のなかへ突撃した。
 辰美がふたたび玄関の扉を開くと、妻と子らは階の上に立って呼びかける。
「パパ、早く! バスが、来た。早くしないと、間に合わない!」
 往来沿いを左手に引かれるように走り出し、四人とも隣家の塀の向こうに見えなくなった。なにをそうはしゃぐと訝りながら、ときならぬ池に踏み込んでこれを渡り、階の滝を一段飛ばしに跨ぐと、往来と見えたのは迸る濁流で。片側一車線の旧街道のはずが、そこにあるのは遥か彼方に向こう岸の霞む大河にほかならなかった。黒雲は低く垂れ込めて、無数の蕨が空に渦巻いている。降りしきる雨滴の一つひとつが銃弾のように重い。妻子のあとを追って上流側を覗くが、それらしい姿もバスも見えなかった。足元までひたひたと水が迫る。呑まれたかと目を剥いて、奔流の波間に浮かぶであろう黄色を必死になって探した。
 飢えた犬の低く唸る音が頭上に轟いて、同時に無数の雷霆が炸裂音を率いて雲の底を世界のひび割れのようにして駆け巡る。金属の軋むのらしい音が背後にかすかに立って、振り向けば、首から下を西洋甲冑に身を包んだ男、否、女、それも老女が、濡れた長い銀髪を海藻のように胸当や肩当に張りつかせて水際を蹴立てながら、意外な速さでこちらへ突撃してくるのだった。その顔を認めるなり、たちまち辰美の脳中をヴィヴァルディの「夏」の第三楽章が堰を切って流れた。ヴァイオリンを盾に、弓を剣に襲いかかると見えたのが、頭上に振り翳されたのは正しく鋼の剣であり、雨風の被弾を払う先触れこそは、鋼の盾にほかならなかった。盾の面はたまさか鈍色に輝く鏡面をなし、そこに背の丸い巻き肩の、ボテ腹の餓鬼のようなみすぼらしい白髪混じりのレインコートの男が瞬時写し取られる。それがほかならぬ自身の姿であるとは、辰美はしばらくは思いも寄らなかった。したたかに刎ねられた自身の首が、鼠花火のように血飛沫を上げながら足元を転げ落ちるさまを見たように思う。
 風雨はいよいよ激しかった。いつか川面に生じる波という波は、砂漠に出現する巨大な砂山さながらに、グラーヴェのテンポで隆起と沈降を反復し、川底から煮えたぎるような見渡す限りの騒擾だった。汀に向けても波は繰り返し押し寄せては迫り上がり、先刻からこれを這い登っては天頂で後ろざまに放られそうになるところを踏みとどまって、水平を保つのも束の間、今度はゆっくりと前方へ傾いて、ほとんど垂直落下するかのごとく滑り降りてくる木端のような舟の影が辰美の視界の隅を掠めていたものだった。それが、磨き上げられた鋼の剣の、くうを切っていままさに振り下ろされようとするその刹那、四角錐の波の一つを母線に沿って滑り来たって最大速度を得た舟のその舳先が、高らかに水飛沫を上げながら横合いから歩道へ乗り出してこれを遮った。遠目には木端と形容されたそれが、高潮に打ち上げられたレビアタンとも見えたのは、古代のガレー船さながらに船首と衝角が上下に開いて化物が口を開くかのような意匠であり、右舷と左舷の最前部に赤と黄と白と黒の同心円が描かれて怪物のまなこをなしたからで、西洋甲冑の女ワルキューレが怯んだ隙に船縁を越えて躍り出たのは闇よりもなお黒い、山のような熊で、否、異様に肩幅が広いのは三叉に分かれた首をそこに据えるからで、たけり、うなり、めるの三態は犬ないしは狼にほかならず、泡立つ唾液を散らしながら真っ赤な口腔をくわと晒したかと思うとハンマーのごとく次々にマズルを振り下ろして噛みかかり、これをワルキューレはひらりひらりと軽やかにかわす。三つの首には錨鎖もかくやの太い錆びついた鎖がそれぞれに巻かれ、これがぐんと張り詰めて軋むたびに艫で何者かが足を踏ん張って御そうとするからだろう、船首は水飛沫を滝のように上げながら高らかに持ち上がり、三叉犬の牽引力が勝ればたちまち地に叩きつけられるのだが、船体の破損するどころか歩道ぎわの塀やら立木やら縁石やらをことごとく打ち砕いてその振動に立っているのも覚束ない。三度みたび舳先は宙に弧を描き、四度よたび目に地面を殴打する直前で、すうっと船体が水のほうへ引いたかと思うと、ほとんど全体が見えなくなるほどに沈みかかり、巨大な影が頭上を覆ったかと思うと、往来沿いに立った隣家の赤いスレート屋根の上を直撃して、家屋もろとも両足の下に踏み敷いたのは、筋骨隆々たる見上げるような巨人、腰巻きひとつの裸身で、しかし首から上は雪のようにも白い蓬髪と顔半分を覆う伸ばし放題の髭、見るからに年季の入ったありようの渡し守で、これが三本の鎖を制しかね、よろける度にまた別の隣家の屋根やら壁やらをぶち抜いて迫り来る。
 辰美は大河と化した往来へ思い切って身を躍らせた。水際から遠ざかりつつあった渡し舟の縁へ、どうにか指先がかかる。これを攀じ登り、竿を手に取り、岸を力いっぱいひと突きすると、みるみる舟は濁流に呑まれ、回転しながら川下へと拉し去られた。

 辰美に闘いの結末を見届けるべく背後を振り返る余裕などもはやない。早瀬に竿差しながら、行手に目を凝らし、上野方面はどっちだろうと思案に暮れるばかりである。







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