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教室の神様

 あと数日もすると夏至だった。
 募る躁のなかへ、鬱がかすかに紛れこむ。夏至を過ぎてからいよいよ夏は夏らしく盛るというのに、刻々と日は短くなりゆくことを思えば、それは否が応にも人生の暗喩である。そして思う、暗喩が暗喩でなくなる節目というのは、やはりあるのだろうと。

 梅雨入りを聞かぬうちに猛暑日が続いた。日中は猛暑なのに、日が落ちかかると猛りははたとやみ、夕焼けは都度美しかった。庭の梅の実が全然生らないと家人と不思議がっていたら、なんでも今年は暖冬のせいで全国的に梅が不作なのだと人伝に聞いた。梅は他家受粉で、蜂などによその梅の花粉を運んでもらわないと結実しないが、今年は暖冬で花期が早まって、蜂の活動時期とずれたのが原因らしい。

 陰陽道にいう有卦と無卦。
 有卦に入れば吉事は七年続き、無卦に入れば凶事は五年続く。
 占いのことなどこれまで一度も話題に上らなかったのに、年の初めから家人は自分は有卦に入ると一度や二度ならず宣言した。いかにも懸案の資格試験に無事パスし、就職先も難なく決まった。
 家人が有卦なら自分はその逆の無卦だろう。そう思うのは、ひねくれてというより、バランス感覚の一だった。とまれ、自分に有卦などこれまであっただろうかと今更ながら思うのである。仮に吉事があっても、それは凶事の前触れととらえる性分だった。凶事が来るまで吉事は前触れであり続けるわけだから、自分の考えを改める機会などついに訪れない。だからといって凶事があって、それを吉事の前触れとはとらえないのだから、我ながら解せないものがある。

 小学校に上がったばかりの娘を迎えに行くのが、四月以来の日課となっていた。迎えにきた親たちが正門前を立ち塞ぐ姿を見かけたのも連休前までで、以降はせいぜい来るのは二人か三人。
 その日は子どもたちの出てくるのがいつになく遅く、出待ちの若い主婦に「どうしたんでしょう」と話しかけられた。訊いてみましょう、となって、正門脇の簡易受付に控える黄色のキャップの老人に尋ねると、視聴覚健診が長引いているという。
「いつもお迎えにいらっしゃってますよね」
 くだんの主婦にそう親しげに話しかけられ、翌日からは下校ルートの中途にある公園で娘と待ち合わせることにした。友だちと帰る娘を邪魔したくないからというのは、もちろん嘘ではなかった。
 公園を境に娘と友だちの帰路は分かれる。そこから家まで半キロの道すがら、リサイクル工房なる市営のプレハブ小屋があって、試しに覗いてみると、左壁面の作りつけの本棚に本がずらりと並び、その他のスペースには食器棚やらソファやらが置かれてさながら家具屋の趣を呈している。すべてリサイクル品らしく、目を剥くような安値がついている。腰高の棚で仕切られた奥の三分の一のスペースで、灰色のオーバーオールを着た老人がなにやら大テーブルで作業をしており、時折電動鋸の動作する物憂げな音が立った。
 娘は古びた玩具の置かれたコーナーに取りついて、さっそくままごとを始める。作業場と受付にそれぞれ老男老女が一人ずついるだけで、この静かな空間がまずは気に入った。しかし案外人の出入りはあるもので、男も、女も、アベックも、皆高齢者ときて長居もしなかった。
 本棚の本はどうやらタダで譲ってもらえるらしい。なにとはなしに覗いて思わず声が出る。めぼしいものを夢中で手に取るうち、あれよという間に両手に足らなくなった。十数冊をカウンターに置くと、受付の老嬢は申し訳なさそうにいった。
「あー、お一人七冊までなんですよねぇ」
 これは日参しなければと久しくなかった躁状態を得ながら、その日の七冊をどうにか絞りこむ。オルハン・パルク、フィリップ・ロス、イアン・マキューアン、コーマック・マッカーシー、リュドミラ・ウリツカヤ、クロード・シモン、河野多惠子。家の不要の本を引き取ってもらえるのかと訊くと、ここにあるのはすべて市内の図書館その他公共施設の廃棄本で、最終的に捨てられる前にここでしばらく里親を待つのだと、老嬢はいった。いずれの書籍も廃棄するほどには古びても崩れてもおらず、どころか、いささかも小口が手垢に汚れていないものさえあるのに、いずれの天にも赤の「除籍」の判が捺かれてあった。
 こうして僅少本と巡り合う事態は有卦の内かもしれなかった。しかしひとたび小説の、あるいは文学の置かれた現況を鑑みれば、それは無卦かもしれないのである。

 さる日の昼近の午前、休みの家人と連れ立って娘の授業参観に行った。
 教室の子どもたちは五人ずつの島に分かれていた。愛娘は、黒板側の中央に位置する島にいて、廊下に背を向ける形で座っていたから、廊下側の壁際に居並んだ二親にすぐには気がつかない。
 教壇に立つのは、三十手前と思しき眼鏡の女の教諭だった。声は大きく、伸びやかだった。入学式当日に教室で保護者に向けられた挨拶のさいには、他市からの新任でしかも一年生を受け持つのは今度が初めてだといい、聞いててこちらが気が気でないほど声も指先もわなないていたのが、わずか三ヶ月足らずを経て見違えるような肝の据わりぶりを示している。しかし声音の抑揚とは対照的に、表情は固いままだった。綱渡りを敢行する人のそれに似た緊張が全身にみなぎるのが感得された。それがなにも授業参観日だからでないことは、子どもたちの様子からそこはかとなく知れた。あんなふうに全員が先生の話を傾聴している一年生のクラスは珍しいと、家人はいった。家人のいう通り、あとで両隣りの教室を確認したところ、教室後方に補助員が二人ずつ控えていた。
 黒板には折り目正しい字で大きく「あさがおをつくろう」と書かれてあった。
 丸く切られた水彩紙を、教諭手ずから子どもたちに渡していく。黒板を背に正対すると、山折なら山折で中心を通る折り目をつけて円を八分割するよう指示し、実際にやってみせる。先生の手先と自分の手元とを見比べ見比べしながら、子どもたちは拙い手つきで一生懸命模倣しようとする。それでもうまくできない子が大半で、教諭は黒板を使って同じ説明をもう一度繰り返す。全員が丸紙を折り目で八分割し終えると、今度は円の中心を境にして向かい合う一組の折り目を谷折りにして内側に折りこみ、四分円を作るよう指示されたが、これが更なる難所だった。班のうち一人でもできればいいほうで、子どもたちは極々控えめにできないできないと狼狽えて、すると教諭は各班をまわって一人ひとりから紙を受け取って、じつに手際よく扇形をこしらえていったが、あいかわらず表情は緩みも強張りもしなかった。
「班の五番の人はペットボトルに水を汲んできましょう」
 五番の人というのは、各島のいわゆる「お誕生日席」に位置する子どものことで、彼らは立って粛々と廊下へ出て水を汲みにいった。このときようやく娘がうしろを振り返り、二親を認めた。
 黒板に大きな円を描いた教諭は、それを八分割する線を描き、その中心付近に赤のチョークでぐるぐると点を円状に並べて描いた。好きな色を一色選んで点を描きましょう、と教諭が指示するハナから、目の前の島の男の子の一人が、「オレ、黒しか持ってない〜」と歌うようにいって紙のまんなかを塗りつぶしにかかった。また別の男の子は、赤、青、黄、緑……と持てる色すべてを同心円状に塗り重ねていき、また別の男の子は点描画よろしくさまざまな色のペンで無数の点を打っていく。いっぽう女の子は二人とも、一色のみを選び、慎重に時間をかけながら所定の位置に点を八つ打った。
 どの班も似たり寄ったりだった。男の子は勝手気ままに塗りつぶし、女の子は教諭の指示通りに点を打つ。愛娘は黄色と水色と黄緑色と三色選んで八個ずつ、計二十四個の点を打つようだった。慎重といえば慎重だが、そもそも教諭の指示に従っていない。点を打ち終わったら、机上のペットボトルの蓋を銘々取ってそれに水を注ぎ、扇形の先を浸してしばらく待ちましょうと、教諭はいった。
 黒一色に塗った男の子は早々に水に浸すと、ほかの子とは没交渉となってノートにせっせと落書きを始めた。同心円状に色を塗り重ねた男の子は待つということができないらしく、浸したかと思えば広げ、広げたかと思えば浸してを繰り返すうち、水彩紙をボロボロに破いてしまった。点描画の男の子は注意が見学の保護者に移って、「ねえねえ、だれのおとうさんなの」とさかんに訊いてくる。「君の知っている子だよ」というと、しばらく考えてから「あたりまえじゃんか!」と控えめに怒りだし、びたびたに水に浸った水彩紙を広げてこちらへ見せつけながら、「しっぱいさく〜」とおどけてみせた。女の子たちの朝顔の大半は、中央の赤なら赤の八つの点がそのまま残ってしまったし、複数の色に分離することなく滲んで広がるばかりで、どれも貧しい色味となった。
 最後に銘々台紙を渡される。そこに紙の朝顔を広げて張りつけ、教室後方のランドセル置場の上に並べて乾かすという段取りに至る。
 落書きに夢中の子どもが出遅れて、慌てて手元の朝顔を広げると、当人はもちろん、見ていたこちらも思わず仰け反るような美しい色模様が現れていた。芯の部分が薄い紫に染まり、滲みの縁を境に緑と黄が同心円状に並んで、さらにその外側に目の覚めるようなコバルトブルーのコロナが広がった。班の島の男の子も女の子も、すごいすごいと興奮してどよめいて、どよめきに誘われて隣りの島から覗きこむ生徒が三、四人あり、見学の保護者も何人か集まってきて、こりゃあ、すごいねと口々に感嘆した。やがて教諭が来て「勝手に立ち上がらない」と子どもたちに注意し、落書き少年には「早く朝顔を台紙に張ってうしろの棚に置きましょう」とうながすばかりで、奇跡のように咲いた朝顔には目もくれなかった。いや奇跡などではない、黒という色があらゆる色の重なりでできていることを、奇しくもこの男児は明かしてみせたまでである。しかしその発見を称える者は教室には誰もいなかった。
 教室のいたるところに神様はいたのにと思ったことであった。

 小学校から帰るさ、正門前の往来のまんなかに、なにやらあやしく輝くものが落ちていた、というより遠目にも張りついているとわかる。
 玉虫だった。
 玉虫を轢いた轍の跡がまだ濡れて残っていた。前日は雨で、ところどころアスファルトのあるかなきかの窪に水が溜まっている。そのままにしておくのもなんだか惜しい気がして、羽だけ捥いで持ち帰ろうと思った。潰されて間もないらしく、旺盛にはみだした内臓は膠のようになって、容易には剥がせなかった。ティッシュはないかと家人に訊くが、あいにくハンカチしかないという。それならと手提げに忍ばせてあった新書(出がけに適当に手に取るのだが、その日は『人類の起源』だった)を引っ張り出し、羽のつけ根についた軟組織を爪の先でこそぎ落としてから、押し花ならぬ押し羽にしてそっとしまった。
 箪笥に入れれば服が増えるという俗信のあるのを思い出していた。

 あれから数日して、小学校の正門前で下校時に子どもが車に撥ねられたと伝わった。幸い撥ねられた子どもの命に別状はなかった。よかった、と思った。そしておそらくその数分前に娘は正門を出たはずで、撥ねられたのが娘でなくてほんとうによかったと、思った。
 事故のあったあそこで玉虫の羽を拾ったんだったと、ふいに思い出した。『人類の起源』は読みさしのままどこぞに放ったきりである。狭い家のなかだから探せばどこかに必ずあるはずでも、リサイクル工房に日々通ううち、本は増えに増えたりで、書斎は足の踏み場もなかった。たかだか玉虫の羽のために、一騒ぎするのも業腹だった。だいたい玉虫の羽を見つけたところで、なにしようというアテもないのである。

 その日、梅雨入りの声を聞いた。

 

 

 
 
 

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