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塗壁

 塗壁というのはもともと北九州に伝わるローカルな妖怪だったようで、これを全国区の知名度に仕立て上げたのは、言わずと知れた水木しげる先生です。

 おそらく水木先生の引かれたのが柳田國男博士の『妖怪名彙』で、書中、

《筑前遠賀郡の海岸でいふ夜路を歩いてゐると急に行先が壁になり、どこへも行けぬことがある。それを塗り壁と謂つて怖れられて居る。棒を持って下を拂ふと消えるが、上の方を敲いてもどうもならぬといふ。》

 と説明されています。

 これを読んでふと思うのが、壁に色はあるのか、それとも透明なのか、壁の感触はどんなものなのかというところで、どうも元祖の塗壁は、化かし系のあやかしだったよう。化かし系はたいてい狐狸の類のしわざで片付けられますし、この「下を拂ふと消える」というのが地に足つける獣を仄めかすようで、だとするとちょっとつまらない。

 これに確たる造形を与えた水木先生は、だから偉いわけです。あの、はんぺんを巨大化したようなのっぺりとした矩形。大きい=力持ちの役どころを与えられ、アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』では、口の重い頼れるキャラクターとして、一定の人気を誇るのでもある。

 ただ、幼い頃、この塗壁が悪人らをその体のなかに文字通り塗り込めるシーンを漫画だかアニメだかで見たような気がしていて、それでいまだに私には塗壁が図体ばかりデカいデクノボー的なほのぼのさからはちょっと遠い気がしているんです。塗り込めるとは、要するに生き埋めでしょう。同じ子どもの時分、父親に連れられて『ザ・バニシング 消失』なんて映画を見たばっかりに、以来生き埋めに関する事柄いっさいがトラウマなんです。ですから、水木先生の塗壁は、そのぬぼーっとした外見及び性格とは裏腹に、真実することはエグいと子供心になりまして、そのせいで大人になったいまでも人畜無害の「いい人」を見ると、人を壁に塗り込めかねない狂気を孕んでいるものと決めてかかる節が私にはある。




 なぜまた塗壁の話かと申しますと、じつは先日の金曜の夜に、娘たちを八幡様の縁日に連れてまいりましてね、ちょうど頃はお盆休みの時期ですから父子連れもちらほらあって珍しくないわけです。そこに奇妙な店が出てましてね。人だかりはゼロで明かりも20Wの裸電球ひとつきり。金魚掬いと思って生簀をひやかしたら、そこに黒い四角いのがところせましと沈んでいて、よく見ると無数のコンニャク。なんでこんなところでコンニャクなんぞ売るかねと立ちかけると、傍らのベニヤに「ぬりかべ・すくい」と下手くそな手書きで書いてある。すると禿頭の歯抜け眉なしの店番のアンちゃんがふいに話しかけてきて、
「ダンナ、これね、コンニャクと思ったっしょ。ちがうんよ、これ、ぜんぶね、塗壁なの。ぬりかべ。塗壁の赤ちゃん。ほんとならポイですくってもらうとこなんだけど、どうです、すくわずに好きなの持ってっていいよ。今日は特別に雌雄つがいでたったのこれっぽっち」
 中指と人差し指の二本を差し出してきたから二百円と思って雌雄つがいの入ったビニル袋を受け取ったら、これが二百円でなく二万円。ニタリと凄まれて、まぁ命よりは安いと思って支払った。

「コンニャク二枚に二万円?」
 妻が聞いてあきれたのも道理です。しかし騙されたとわかっている人間の弱みで、ここは平気を装って強がるほかありません。
「ちがうんだ。これ、塗壁なんだ。塗壁の赤ちゃんなんだ。とっても珍しいんだ。雌雄つがいってのが、なおいっそう珍しいんだ。この、真ん中に切れ込みの入ってるのが、雌でね」
 切れ目に中指を差し入れてくいっくいっと動かしながら、心底むなしくなります。
「くだらないわ」
「ねぇ、ママ。どうしてコンニャクは真ん中に切れ込みがあるとメスなの」
 いいながら金盥の中のもう一個のコンニャクならぬ塗壁を指先で突っつく下の娘。
「コンニャクじゃないよ。塗壁だよ。ゲゲゲの鬼太郎にも出てきただろ。あれの赤ちゃんだよ。今夜から毎日盥の水を換えてね、夜寝る前に苦土石灰を一握り与えてやれば、あっという間に大きくなるらしいんだ」
「ねぇ、アナタ」
「なんだい」
「本気でいってる?」
「……ごめん」
「だと思った」

 それでコンニャクは無事(?)早ければ翌朝にも味噌汁の具材としてでも食卓に上ると思っていたのですが、朝寝を決め込もうとしていた私を、意外にも妻はこんなことをいって叩き起こしたのでした。
「ちょっと、アナタ、きて見てごらんなさいよ。塗壁が!」
 ぬりかべ? と一瞬なりまして、なんだ、コンニャクのことかと起き出しまして金盥を見にいったら驚いたのなんの、倍以上に膨れて盥の水から半身を覗かせている。ちょうど縦に並んで立つように。
「てかさ、君、苦土石灰やったんだ」
「やったわよ。ほら、アナタがゴールデンウィークに庭を菜園にするんだって意気込んで買ってきたのがあったじゃない。物置にそれあるの思い出したんだよ」
「てか、どういう風の吹き回し?」
「だって本当に塗壁だったらヤバいじゃん。ナイス判断じゃない? アタシたち、これ食うとこだったんだよ?」
 触るとプルプルしていて、やはりひとまわりふたまわり大きいコンニャクと変わらないのでした。
「どうしようね。金盥じゃ、足りないね」
「これ、どこまで大きくなるのよ」
「ちょっと待って」
 出店のアンちゃんが領収書の代わり(?)にくれた「取説」の紙があったのを思い出して、慌てて洗濯機を覗きにいきました。幸いまだ汚れ物は洗われておりませんで、昨夜穿いていたバミューダパンツのポケットのなかに紙は無事でした。
「なにそれ」
「取説。店のアンちゃんからもらった」
「ヘンなの」
 いつのまにやら上と下の娘らも鳩首して広げた紙面を覗き込んでいました。
「なになに、『子どもくらいの大きさになったら水から出してひなたに置くべし』。子どもくらいって、この娘たちくらいかな」
 すると姉妹はうんうんとうなずく。
「で、『置くのは土の上であるべし』。よかった、うちには庭がある」
「菜園になる予定だったけどね」
「……それから、『朝夕二度、苦土石灰を根元にまき、たっぷり水をやるべし。一週間もすると高さ二メートルから三メートルに及び』……って、マジかよ! こりゃヤベェな」
 いいながら、高揚しているわけです。もちろん私ばかりではございません。
「『色が白く抜けたら完成。あとは野となれ山となれ』ってなんだよ」
「でもさ、庭に壁ができるんだったらさ、これ、アタシたちにとって渡りに船じゃない?」

 妻が念頭に置いているのは、最近勃発したお隣さんとのトラブルでした。隣家と我が家は元々同じ母屋を二分した貸し屋で、庭も折半しているのですが、境はせいぜい腰高程度の粗末な金網で仕切られているばかりで、最近これを越えて隣家の軒下に住まうタヌキ(どうやら複数いるよう)がこちらへ闖入し、常滑の丸壺に飼っているメダカを夜な夜な食らいにくるのです。で、妻が文句をいいにいきますと、隣家は(八十過ぎの老夫婦です)証拠でもあるのか、駆除するのはそっち持ちかと思わぬ剣幕で、ならばとこちら持ちでかまわないから境を塀で隔てさせてほしいと大家に申し出ている矢先なのでありました。塗壁が二体鎮座するとなればそれだけで塀として十分だし、タヌキどももおいそれとは近寄るまいという算段なのでした。



 一度使ったきり物置にしまわれてあったビニルを膨らます式の簡易プールを庭に引っ張り出してきて、それに水を張って塗壁の雌雄を投入。毎朝水を換えるのは妻のルーティン、寝る前の苦土石灰投入は私のルーティンとなり、塗壁の赤ちゃんは日に日に大きくなって、三日もするとプールの縁から半身の覗く大きさになりました。この時点でもまだコンニャクに近いプルプル感はあるものの、なかに平たい鉄板のような芯も感じられ、妻と私の二人がかりで外へ運び出すのがやっとだった。隣家の庭との境にある金網に立てかけるように二つを置くと、
「そうして見ると、なんだか墓石みたいだね」
 妻はチラリ後方へ視線をやりながら、キツネのように目を細めてニヤリ笑うのでした。
 さてここからは申し訳ないとは思いつつ、朝の早い妻に水遣りと苦土石灰まきとの両方を一任する。で、取説のいうより早く、四、五日もすると三メートル四方のほぼ正方形の壁をなして隙間なく並び、隣家もその庭も、こちら側からはすっかり見えなくなりました。
「すごいわねぇ。出来過ぎといっていいくらいだわ」
 大仕事を成し遂げたように、妻はしみじみいって娘たちと私とに、成人した二体の塗壁を披露したのでした。

 明日からまた仕事という夜、私は妙な夢を見たのでした。出勤時の駅まで徒歩の道すがら、信号待ちの主婦らがヒソヒソと最近このあたりに出来している神隠しの噂をするのです。
「……なんでも、見えない壁にぶつかるそうよ」
「あら、やだ」
「どうしても先に進めないそうよ。でね、こないだ若いサラリーマンが二人、その壁にぶち当たったんですって」
「あら、やだ」
「でね、一人は引き返そうとして、一人は壁の正体を突き止めようと両手でひたひた撫で回していったんですって」
「あら、やだ」
「ちょっと、あんた、ちゃんと聞いてる?」
「あら、やだ。ちゃんと聞いてるわよ」
「ならいいんだけど。でね、ひたひたまさぐってた若い人、どうなったと思う?」
「あら、やだ」
「壁に塗り込められたらしいわよ」
「あら、やだ、それ、妖怪ぬりこめじゃない」
「あら、やだ」
「あら、やだ」
「あら、やだ」
「あら、やだ」
 ……

 なんとなくイヤな予感がして、出勤前に妻子にはしばらく庭に出ないよう告げてから、私は出社したのでした。

 帰宅後、塗壁について妻に聞くと、いいつけどおり庭に出てないので細かいことはわからないが、家のなかから見る限り昨日と変わらない由。それでいいんだと声に出さないながら満足げにうなずいた私は、ガラス戸越しに庭を見たのでした。空には十二夜か十三夜の月がかかり、塗壁二体はほとんど一枚壁のように、というかそれ用にあつらえた新品の塀そのもののように隣家の敷地を仕切って、月明かりを白く浴びて立っているのでした。

 十五夜の空もよく晴れておりました。あらかじめ仕事で遅くなる旨メールで知らせていたため、娘らはもちろん、妻も寝入っているとは頭でわかっていながら、玄関先の軒燈がまず灯っていなかったことから、私は家のなかの静まりにもある種の違和感を感じたのでした。廊下の足元にいつもなら灯しておく常夜灯も消えている。もしやいないのではと思ってそれぞれの寝室を覗くと、妻も姉妹も寝床にいる。かすかな寝息を立てている。安堵した私は、居間に戻りしなに子どもたちの部屋のガラス戸からなにとはなしに庭を覗いて、ひと気のあるのを認めたのでした。新築の塀の上に、何者かのうずくまる影が二つ見えるのです。これが月明かりで青白く染まっている。なに奴! となった私は、傘立てに傘と一緒に挿してある木刀を手に取って、玄関から外へ出た。庭へ回ってさっと身を躍らすと、上段に構えながらつつっと前へ進み出る。

「こんばんは。今夜はまたなんともいえない月の晩でんなぁ」
「ほんとうに。風も出て、涼しい」
 いわれてみると、さらさらと風が出て、涼しいどころか、生ぬるい。なに奴! とふたたび仰ぎみれば、それは紛う方なき隣家の八十過ぎの老夫婦。これが塗壁の上に二人並んで座りつき、両足ぷらぷらさせ、なにやら飲み食いしながら月見と洒落込むようなのです。私はゾッとした。そしていいました。
「塀からこちらは我が家の敷地だろう。あんたらのやってることは、不法侵入と変わらない」
「まぁさ、そう堅いこといいなさんなよ。こんなにステキな塀ができたんだ。お隣りのよしみでお呼ばれしたってバチは当たるまい」
「ほんと、よい壁。さいきんはとんと見なくなりましたからねぇ、おじいさん」
「いやぁ、ほんとに、よかった」
「あんたも、ここへきて、一緒に月を拝みなさいな。今夜は特別だでな」
「泥団子に子どものションベン。たぁんと用意してきたでなぁ」
 イッヒッヒ……と二人して声を押し殺して笑うのです。私はわなわなと震えながら、なんとか声を絞って凄んでみせました。
「いいから、そこを降りろ!」
「おやおや、穏やかじゃないねぇ。あんたらの内憂の元じゃったタヌキめらも、どこぞへ越したでな。タヌキこさせんためにこさえたならコイツは無用の長物なんだけど、こうやって月見するにはもってこいだで」
 いいながら、二人して足をばたつかせるのでした。はしゃいでそうするのかとあきれて見ていると、次第に翁嫗の顔から表情が失われて、真顔でパンパンと足裏で塗壁のおもてを叩いて、もうそれが目的と化したかのよう。
「静かにしろ! 何時だと思ってる」
「おや、静かにしていいのかねぇ」
「なにいってんだ!」
「ほな、おじいさん、やめまひょか」
 足音が止む。生ぬるい風がゆるゆると流れる。庭の梅の木の葉が擦れる音。足元に群生するアレチノギクがかぶりを振って月明かりに綿毛が舞う。すると、かすかに、ほんとうにかすかに、風に紛れて、


おとう……さ……ん、お……とう……さ……ん……


と呼ぶ声が聞こえてくるのでした。それは明らかに上の娘の声でした。


たす……け……て……たすけ……て……


 声の出所を瞬時に見極めた私は、上段に構えた木刀を、塗壁の根方目掛けて力任せに叩きつけた。老夫婦はひらり向こう側へ身をかわしながら、人間のものとは思われない薄気味悪い笑い声を残して去った。木刀は見事にへし折れて、手の痺れに耐えられず私は木刀を落としてその場に膝をついた。その姿勢でにじり寄ると、壁にすがって片耳をぴたりと押し当てた。するとどうでしょう、た……す……け……て……のあの声が、妻のそれと上の娘のそれと下の娘のそれと代わる代わる、奈落の底からのように壁の向こうから聞こえてくるではありませんか。

 私が深更にもかかわらず、妻と娘たちの名を壁に向かってあらん限りの声で叫んだのは、いうまでもありません。足元の石塊をつかんで振り上げ叩きつけしても、壁には傷ひとつつかないのでした。

 そのときでした。
 ガラガラっと背後でガラスの引き戸の開く音がふいに聞かれましてね。恐るおそる振り向くと、そこにあるのは心配そうにこちらをうかがう妻子の面々だった。

 それならよかったじゃないかですって? 話は最後まで聞くものです。いかにも妻子らは家のなかから心配げに庭を覗いて、私の名を呼ぶのですがね、その妻子三人ともが、首から上は彼女らでも、その下はすっかり三匹のタヌキだったんで。

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