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私が、私を『大丈夫』と思えるようになるまでの10年間

私には忘れられない失敗がある。
でもあれは、私にとって無くてはならない出来事だったと思う。

私は今までずっと、あの時の出来事を言葉にして整理してみたかった。

でもすごくカッコ悪くて、思い出すと恥ずかしくて、泣きたくて、どうしようもなくなるから、今までnoteに書くことができなかった。でも、

#あの失敗があったから

このコンテストの詳細を見て、心がぐっと動かされた。

『誰にでも失敗はあるんだよな。』『もし、誰かに1人にでも共感してもらえたら嬉しいな。(そんな人いるだろーか。でも、でも、でも)』とか思いながら。

恥ずかしいけど書いてみることにした。

**********

失敗が怖かった

私は、失敗しそうになったら逃げてきた。
今までそういう人生を歩んできたと思う。

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人生にはいくつも『壁』がある。
小さい頃からの漠然とした不安だった。
壁を乗り越えたとしても、さらに先にも壁は続いている。「死ぬまで壁を越えなくてはいけないのか…」そう思うと、絶望感でいっぱいになった。

無口で引っ込み思案で、いつも受け身な私。

私は、この世界にいる意味があるのか?

こんなにダメな自分は、いなくなった方が良いのでは?

成長と共に、葛藤は大きくなった。

みんなみたいに、青春を楽しめない。『普通』にできない。

私はできるだけ壁の少ない人生を歩きたい。

本気で、そう思っていた。
自分や自分以外の人と向き合う事が怖かった。自分だけの世界を守りたい。ただの弱虫で、泣き虫の根性なしだった。

10年前。はじまりは、出産

それでも奇跡的に、こんな私が良いと言ってくれる人が現れ、私は結婚した。ありがたい事にすぐ子どもを授かる事もできた。

『私は幸せになる。』そう思っていた。

しかし、妊娠というものは想像以上に大変で。終わらない悪阻、腰の激痛、勤めていた会社を何度も休んでしまう事に対する罪悪感。心も体もままならない状態だった。

いま考えると、当時の私は年齢的には大人だけど、心は子どものままだった。
今まで大事な事から逃げて生きてきた私は、精神的に成長できるはずもなく、同世代の中でも未熟だったと思う。

結婚、出産すれば自動的に幸せになれると思っていた。心穏やかな日々が送れるんだと信じていた。ただの世間知らずだった。

先の事などほとんど想像できないまま。10年前、私は娘を出産した。

終わりの見えない不安な日々

娘は、かわいい。

出産後、私は毎日のように写真を撮っていた。毎日少しずつ違う表情をみせてくれる。

とても、かわいい。

でも、無理。

私には無理だ…。

どうしようもない不安感が常にあった。

娘はとんでもなくかわいい。かわいいのに、かわいがり方がわからなかった。

私よりも、夫や義理の母(数日手伝いに来てくれた)の方が抱っこが上手だし、あやしかたもうまい。

私は授乳もうまくできないし、寝かしつけも下手だった。娘の夜泣きがひどく、ろくに眠れない時期は、夜が来るのが怖かった。また泣かれる。私はうまく泣き止ませる事ができない。眠れない。そんな焦りが私をじわじわ苦しめていたように思う。

私はなぜ自分の遺伝子を残してしまったんだ。こんなにダメな母親で、娘がかわいそうに思えてくる。

娘が大きくなる姿を想像できなかった。娘が泣き続けるあの時間は、永遠に続くんじゃないかと思うほど長かった。
娘は、こんな私に育てられて、立派な大人になれるのか?

赤ちゃんを生んでからようやく悟った。
未熟な私は、人を育てる重圧に耐えられない。

ああ、私は怖いんだ。
終わりの見えない、子育てがこわい。
この壁を乗り越えられる気がしない。

当時の私は親にも、友達にも、夫にすら、自分の心の中を打ち明けられなかった。

そうして私は1人で絶望していった。

いつものように、逃げ出してしまいたかった。1人で遠くに逃げてしまいたかった。

一方、夫は

夫は、私とは真逆な性格をしており、考える事も行動する事も早く、器用な人だった。

お互い実家が車で数時間の場所にあり、親も働いていたり、介護などで忙しかったため『里帰り出産はせずに夫婦2人で子育てを頑張ろう!』と決めていた。

頼れる親戚も近くにはいない。

そのため夫は、娘が生まれてから1ヶ月くらいの期間、普段忙しい仕事を調整して早めに帰って来てくれた。

夫は、わりとすぐに抱っこの要領をつかみ、娘の寝かし付けもできた。

「こうすると良いよ!」

おそらく、私が少しでもラクになるように…と、どんどん先に進んでいく夫。抱っこや寝かし付けのコツを発見しては、私に教えてくれた。

とてもありがたい事だと思う。
でも、私は何だか劣等感でいっぱいになっていった。

どうして私はうまくできないの。

なんで夫はこんなに平気そうなの。

吐き出す場所も無いまま、負の感情ばかりたまっていく。こんな自分が心底嫌だった。

娘を産んで半年経っても、私の不安は消えなかった。できるようになった事は増えたはずなのに、なぜかどんどんイライラが増えていき、夫と些細な事で言い合う事が増えていった。

夫は社交的な性格で、会社の人や友達とお酒を飲み会に行くのが何よりも好きだ。
私の出産後に一度はゼロになった夫の飲み会も、娘が成長するにつれて、少しずつ増えていった。

そして当時(2011年)、夫の会社では年に1度『スポーツ大会』のようなものが開催されていた。

夫の会社は全国各地に支社があり、まず各支社で行われる予選で良い成績を残した者が、最終的に東京に集結し、決勝戦をするという…2021年現在の状況では考えられないような企画だ。

夫は、北海道支社で行われた予選で東京への切符を勝ち取った。

「大会で決勝に出れる事になっちゃって。東京行ってきてもいい?」(夫)

「はぁ?」(私)

北海道から東京に行くのも、日帰りではない。1泊する必要がある。

このひと、生後半年の娘と妻を置いて東京に1人で遊びに行ける人なんだ。へー。ほー。

『嫌に決まってるだろ。』

そう思った。

思ったが…

その時の夫は、めちゃくちゃワクワクした顔をしていた。じつは東京には、大学時代にお世話になった先輩達がいて…。会いに行きたいんだろうな。きっと…

良くも悪くも『自由』で『自分に正直』。私には無いものを持っている夫が、うらやましく、、、そしてそこが魅力的だと感じていた。

私はいつの間にか「行ってもいいよ」と言っていた。

人生で一番失敗した日

「やっぱり行かないで」とは言えないまま時は流れ、東京大会の日になった。夫は朝早くから飛行機に乗って行ってしまった。

『今日は、娘と2人きりだ。』

少しドキドキしたが、問題なく過ごせたと思う。夕方、お風呂に入れて、授乳して…。良いペースだ。

娘の寝かしつけも無事に終わり、私はガッツポーズをした。

『なんだ!やればできるじゃん、わたし!』

娘が寝たので自分1人の時間ができた。このまま寝ちゃうの、もったいないな…。そうだ映画でも見よう。

しかし、映画の途中で娘が起きてしまった。

オムツを替えて、また授乳する。でも、娘はそこから泣き出してしまった。うまく眠れないようで、グズっている。背中をトントンしたりゆらゆらしたり、色々な姿勢で抱っこを試みたがダメ。抱っこし続けて、気付いたら1時間以上経っていた。泣き止む気がしない。

どうして、泣き止まないの…

どっと1日の疲れが押し寄せて、私まで泣きたくなった。ああ、映画なんて見てないで私もさっさと寝ればよかった…。睡眠だいじ。しかし後悔しても遅い。

途方にくれて、私は夫に電話してみた。
もう午前0時近かったが、会社のスポーツ大会後に先輩達と会って、飲んで騒いでるだろうから、まだ起きていると思ったのだ。

案の定、夫はすぐ電話に出た。

でも、その声は夫のものでは無かった。

「もしもし、たまちゃん??ひさしぶり!」

大学時代の先輩だった。

少し世間話をしたあと、

「次は○○に変わるね~」

と言って、どんどん違う人に電話を回されていく。4、5人いただろうか。楽しい雰囲気を壊したくなくて「どうも~」とか「久しぶり~」という話をしたが、内心それどころでは無かった。こんな世間話をするために電話したのではない。

娘が泣き止まなくて、不安な気持ちを夫に聞いてもらいたかったのだ。

電話しているうちにだんだん悲しくなってきてしまった。ようやく夫に電話の順番がきた。

「娘が泣きやまなくて、困ってて…」(私)

「あ~。そっかぁ、授乳は?したの?」(夫)

「とっくに試してる。もうずっと抱っこしてるのに寝ないの。」(私)

「あ~。まあ、がんばれ~」(酔ってる夫)

その瞬間、私の精神が崩壊した。
なんで、こいつだけ、たのしそうなの。

「……ふざけるな」

「ん?」

「ふざけんな!!あんたが東京に行ってる間、私がどんな気持ちでいたと思ってんだ!!仲間と楽しそうにヘラヘラしやがってふざけるな!!もういやだいやだいやだ」

ひどく泣きながら、訳の分からない事を叫んだ。ドロドロの真っ黒な感情がお腹の底から溢れてきた。くるしくてくるしくて、楽になりたくて、一番言ってはいけない事を言ってしまった。

「もういやだ、死んでやる死んでやる死んでやる!!!!」

死んでやるなんて、人生で初めて口にした。でももう自分で自分を止められない。こんなに我を忘れて叫んだのも初めてだった。

「ちょっと!何言ってんの!落ち着け!!」

「やだやだやだやだ!」

「帰るから!明日朝イチの飛行機で帰るから、おちついて…」

「うそだ!!そんなにベロベロに酔っぱらって、朝早く起きれるわけない!!うそつき!!うそつきーーーー!!!」

ブチッと乱暴に電話を切り、全く眠れなくなってしまった娘(完全に私のせい。)を布団に横たわらせ、隣でうずくまっておいおい泣いた。大声で泣いた。

近所迷惑になろうが構わない。これ以上はどうにかなってしまいそうで、少しのきっかけで娘を叩いて乱暴に扱ってしまいそうで、本当に怖かった。むしろ近所迷惑だと通報してもらったほうがありがたい、とすら思った。誰かに止めて欲しかった。

一体何分泣いていただろう。

夫から電話がかかってきた。

ひどく沈んだ声だった。

「Tさん(友人)を、呼んだから…」

「え?」

「さっきTさんに電話して、そっちの家に行ってもらうようにした。」

「なんでっ、なんで勝手に呼ぶの?!」

「だって…!!しょうがないだろぉ…!!」

その時、夫が泣いた。
私は初めて、夫を泣かせた。

私は「死ぬ」と叫んで夫を脅し、普段あんなにポジティブな人を泣かせてしまったのだ。

頭が真っ白になった。

Tさんという友人まで巻き込んで、とんでもない迷惑をかけた。

本当に何やってんだよ、わたし。

ごめんなさい。ありがとう友人

Tさん夫妻が自宅に到着した。

Tさんは夫が会社の関係で知り合い、意気投合した友人だった。家族ぐるみで仲良くしており、私もTさんの奥さんと親しくなっていた。しかしこの時、奥さんは妊娠中で…。安定期に入ったとはいえ、深夜1時近くに、眠いし体も疲れやすいはずなのに、私のことを心配してくれた。

私は2人の顔を見て、心底安心したのと、本当に申し訳ないのとで、ぐちゃぐちゃの顔で泣いて謝った。

ごめんなさい、迷惑かけてごめんなさい。

T夫妻は「いや、これはあいつ(夫)が悪い!」とか「俺なら、そもそも東京行かない!」とか私に共感する形で慰めてくれた。

そしてT夫妻は「心配だから…」と我が家に泊まってくれる事になった。狭い家だったので部屋が無く、リビングに布団を敷いて…

「あいつ(夫)が帰ってくるまでは、ここにいるから大丈夫だからね。帰ってきたら私達からも怒ってやる!」

「娘ちゃんが泣いたら、一緒に抱っこするからね。うちの赤ちゃんが生まれた時のための練習になるから。気にしないで良いよ。」

T夫妻は2人でたくさん優しい言葉をかけてくれた。

私は申し訳なく思いつつも、ようやく安心して娘と眠りについた。朝までの間に娘は何度か起きたが、授乳をしたらすぐにまた眠った。(たくさん泣かせてしまったので、たぶん娘も疲れていた。ごめん。)

私はその時まで『人に迷惑をかける=嫌われる』と思っていて…。変に人の顔色を伺いながら、なるべく人に迷惑をかけないように…と1人で縮こまって生きてきたタイプだったので、T夫妻の優しさには心底驚いた。

ありがとう。Tさん、奥さん。

私、あの時の情けなさと嬉しさは、きっと一生忘れません。

『嫌い』から『好き』になるまで

翌日、本当に朝一番の飛行機で夫が帰ってきた。電話を終えてから、飛行機の時間まで寝ずに起きていたらしい。夫が自宅に帰ってきた事を見届けて、T夫妻は帰っていった。

それから私達夫婦は、話し合った。

話し合いと言っても、私は言葉がなかなか出て来ず、沈黙していた。

私は夫の顔を見たくないほど精神的に参っていた。あんなに大好きだった人の事を『憎い』と思うほどに、頭がおかしな状態だった。

あの時の私は、自分を完全に見失っていた。何が正しくて、何が悪かったのか。今までの自分の価値観とは何だったのか…。大事な事から逃げ続けてきた自分には検討もつかない状態だった。

とにかく目の前の夫が憎くて憎くて仕方がなかった。『私がイライラするのは全部この人のせいだ』と思い込む事で、自分を守ろうとしたのかもしれない。

今思えば、私にも悪いところがたくさんあった。

私は娘を産んでからも、常に受け身だった。

病院に言われたから、こうしなくてはいけない。夫に言われたから…親に言われたから…

と、一番大事な『自分で考える事』をやめてしまった。

これではうまくいくはずがなかった。
私が変わらない限り、うまくいくはずなんてなかった。

夫は、そんな私を根気良く待ってくれた。

私が自分の言葉で話し始めるまで、待ってくれた。遅い時間になっても、何時間かかっても、待ってくれていた。

「俺からは、離婚する気はないよ。別れるとしたら、たま子が決めた時だ。」

私はこの夫の行動や言葉を理解する事ができず、面倒臭いとすら思った。『もう放っておいてくれ、私なんか切り捨ててくれ』と自暴自棄にもなった。

この『待つ』という行動が、夫の愛情だったんだなぁと思えたのは、それから数年後だった。

世話のかかる嫁で本当に申し訳ない。

私は人を『嫌い』になったら、もう2度と『好き』には戻れないと思っていて、それが怖かった。

夫は、私の気持ちがまた『好き』に変わるまで待ってくれていたんだと思う。(いや、そんなキレイ事じゃないかもだけど…)

同じ時間を共有して、意見がぶつかって、ケンカして、夫婦2人の違いを理解して…私達はそうして過ごしてきた。

私が色々こじらせていたせいで時間はかかったけど、また夫を『好き』と感じられるようになれた事が、本当に嬉しい。

夫よ、ごめん。もう逃げないからね。

あれから10年。現在の私が思う事

私の失敗は『人に頼れなかった事』だったと思う。

10年前の私は夫に『頼る』というよりは『依存』していた。私は夫に全力ですがっていたんだと思う。挙げ句の果てに相手にブチ切れるという最低最悪の状態になった。

私の中では

依存→全てを相手に委ねて、自分で判断しない。

頼る→自分の出来ない事を相手に伝えて、手伝ってもらう。

というイメージ。

このイメージで言うと、私は圧倒的に『頼る』が苦手だ。

なぜなら、自分で考える力が弱いから。

自分で考えられないと、手伝って欲しい事を相手に伝えられない。

しかも自分の考えに自信が持てないので、どうしても相手に委ね、依存してしまう。

依存するとどうなるか。
私の場合は、うまくいかない事があると、最終的に全て相手のせいだと思ってしまう。自分は何もしてないのに、自分の責任を棚に上げて。

そんなの、ダメだろう。

あの失敗があって、私は『依存』をやめようと心に誓った。

もう大人なのに、遅いスタートかもしれないけど。私は何となくラクな方に流れるのはやめ、自分の頭で考えて、判断して、責任を負い、目の前の壁に向き合っていく。そういう練習をする。

子どものために、私は変わらないといけない。そう思い続けた10年だった。

ありがたい事に気の合うママ友に出会い、話を聞いたり、聞いてもらったりして、少しずつ自分の価値観を変えていけた気がする。

T夫妻は無事、あの時お腹にいたお子さんが生まれ(本当に良かった…)、現在も相変わらず交流が続いている。夫婦関係についてや、子育てについても良き相談相手になってもらっている。

辛い事もたくさんあったし、失敗もしたけど「これも経験…経験値稼ぎ…レベルアップ…」とうつろな頭で考えつつ、乗り切れるようになった。(気がする)

娘の出産前より、ずっと気が抜けてズボラまる出しになり、自分の情けない部分も他の人に出せるようになったと思う。

でも決してイヤじゃない。
前より生きやすくなってきた。

嬉しかったのは、素直に子どもをかわいがれるようになった事だ。
子どもは1人ずつ個性が違って、面白くて、かわいい。10年前の私に「あなた、これから合計3人子どもを生みますよ」と教えたら死ぬほどびっくりすると思う。

そんな私は、現在子育ても少しずつ落ち着いてきて、周りも少しずつ見えるようになって、誰かの役に立ちたいと思うようになった。

私なんかでも、誰かの気持ちをラクにさせられるなら、そうしたい。労いの言葉を一言かけるだけでも良い。荷物を持つのを手伝うのも良い。

私が誰かに助けてもらった分、私も誰かを助けていけたら嬉しい。

おわりに

小さい頃あんなに怖かった壁が、今はそれほど怖くない。

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1人で壁を越える必要はなかった。

たまに誰かに頼って一緒に壁に登ってもらったり、先人の知恵を拝借してちょっとズルして横からすり抜けてみたり、思いきって大胆に壁を壊して取っ払ってみたり。

方法はいくらでもあった。

何度も失敗を繰り返して、きっと自分だけの方法が分かっていく。
死ぬまで失敗を繰り返したとしても、それはきっと『怖い』だけじゃない。色々な気持ちを感じて、一生学んでいける。

それが分かっただけでも、私の人生は生きる価値のあるものになったんじゃないかなぁ。

まだ経験が足りなくて分からない事も多いし、不安もあるけど、これからも1つずつ壁を越える方法を探していける。

だから私は、きっと、大丈夫。

今までいただいたサポートを利用して水彩色鉛筆を購入させていただきました☺️優しいお心遣い、ありがとうございました🙏✨