ハッピーバースデー (短編)

 私は超ハッピーな人間である。この世の中で一番ハッピーな人間だといっても過言ではない。よくそう言われる。部屋に入ると、ニコニコ笑っている顔で必ず迎えられる。地元に帰ると、春の到来よりも私特有の超ハッピーな存在感が歓迎される。ただの盛り上げ役みたいな、くだらないことでなく、人が私と同じ空間に入れられると、なんとなく、周りに完全に溶けてしまうような感覚にとらわれ、そして、次第に不安も消えてゆく、らしい。私自身はずっとこのハッピネスを与える側だから、実はこんな描写が当てはまるかどうかという点に関して、何とも言えない。とにかく、私と一緒にいることを楽しめる人が多いらしい。
 今日は私の誕生日だった。この前の誕生日は大学の友達と一緒に過ごしたため、今度、気分転換に家族と一緒に祝おうと、自分ひとりだけの判断で決めた。地元までの路線バスの窓の景色が相変わらず綺麗だった。街の燻ったモノクロから農場の深緑に徐々に溶け合って、気が付くと、窓の外の人間があらゆる類の家畜と置き換わっていた。こうして社会と距離を取ると、私は心がすっきりする。道端にある、とうに潰れたパブの前でバスを降り、真ん中に草が生えた、パブの傍にある狭い田舎道を歩き始めた。十分歩くと、牧草地に囲まれた、ちんまりとした一戸建てである私の実家が現れた。
 私は四人家族に属する。姉は二十五歳で、頭がよく、かなり変わった人間なのである。帰ると、彼女はいつも全く思いがけない、変な新しいナニカに夢中になってしまっている。今回はビー玉だった。そんな自閉的な傾向は、なにかの精神的異常があるとみんなには分かっても、父の抵抗で未だそれが何なのかはちゃんと調べていない。
 とりあえず姉は仕事ができない。そこまで一つの事柄に集中するのが彼女にとって無理なのだ。
 私が実家に帰ったら、彼女は玄関で巨大なプラスチック製玉転がしレールを建てている途中だった。1年ぶりの帰省なのに、私の存在を認知しない。彼女はいつもこのあり様。
「ただいま」
 私は言った。姉は無言のまま。
「ビー玉いいよね。いつからやってんの?」
 私は聞いてみたが、関係ないだろ、とだけ、苛立った彼女は返事した。このように、私の存在の貴重さが分からない人間がこの世には一人しかいない。
 私は手を玉転がしの方に伸ばしてみると、
「触るな!」
 予想通りの反応だった。私はこう姉と遊ぶのが大好きだ。反応してくれればくれるほどいじめたくなってしょうがない。まあ、彼女はこんなこともきっと好きだから、イジメなどではないけど。
「も~う寂しくなってきたわよ姉ちゃん。あたしのこと嫌いなの?」と甲高い、最高のぶりっ子声でイジってみた。楽しい楽しい。
「きらいなんて何もいってないから」
「でなんで~?」
「もういいからやめて? 今すごい集中しようとしてるから」
 姉は背を向けたままなのに、絶対に笑っていたと分かっている。こういう楽しいちっぽけな戦いになると、姉も心のどこかで喜ぶのだ。
 床に転がっているビー玉を一個つまんで、額の前に上げ、片眼をつぶって中身を眺めた。電灯の光を浴びさせた。紫色のグラスの中に、群青の雲が渦巻いている。電灯を背後に、指先で転がし回すと黒く光る。少し冷えたかのように、非常に固い。私が突然静かになったことが気になったのか、姉は振り返って、私のじっとしている姿を見た。
「あれ返せ!もう他の人のモノ勝手に触るな」
 姉はビー玉を乱暴に摑み返した。
「ねえちゃんひどいよ。あたしの誕生日なのに」
 この騒ぎを聞いたのか、奥から母の声が漂ってきた。
「あら、帰ったの? モイラ、キッチンにいるよ」
 中指を立てて、つんと姉の腹側に突っ込み、キッチンに行った。

 キッチンは母の料理の匂いに包まれている。母の自慢のローストチキンの匂いが、キッチンのあらゆる表面にぴったりくっついていた。なんだろう、鶏の骨抜きされた死体の中、私たちが葬られている、そういうふうに感じた。その空気がおいしかった。
 母は調理でバタバタしているみたいで、調理スプーンを片手にあちこちを走り回っている。
「ご飯はあと一時間でできるんだけど、ちょっと手伝ってくれない?」
「ローストチキンほんとに久しぶりだね! ありがと、大好物だって分かるもんね」
「うん。でもあれちょっと見てもらえれば――」
「でケーキは?」
「パイだよ」
「へー! こんなあたしのためだって、あれ作ってくれてるの? もう泣きそう、ありがとう!」 
 オーブンの方に走っている母を遮り、抱きしめようと飛び出し、ぐっと腕で彼女の体を絡ませた。母は相変わらず硬い。背には何か問題があるらしくて、定期的に筋肉が固くなったりするという病気がある、と医者に言われたそうだ。だから、母の体の固い筋を緩めようと、愛を全部腕に込めて、離れられないようにぐっと母を抱きしめた。
「モイラもう私ほんとに忙しいから、ちょっとパパに挨拶しにいったら? 外にいるよ」
はーい、と私は腕をほどき、ルンルン裏庭に跳ねていった。

 父は斧を右手に、必死に薪割りしていた。横目で私の近づいてくる姿を捉え、斧が切り株にぶつかると同時に、おお、と私に顔をおこした。
「ただいま、パパ」
 斧を下ろして、ハーハーしながら、足元にあった水のペットボトルを取って口に運んだ。額はつやつや光っている。水を半分飲んで、息を整えた。
「お帰り、すごい久しぶりだな。なんで急に?」
「も~う、忘れちゃったのパパ?」
「いやいや、ハッピーバースデーだろ。分かってるよ。ふざけてるだけ」
 父は暖かい声で気持ちよく笑った。一気にペットボトルの残りを飲み干して、最近元気?と、訊ねてくれた。
「まあまあ元気。彼氏と別れちゃったけど」
「え、その、なんだか理系のイケメンと?」
「そう」
「フラれた?」
 私は首をぶんぶん振る。
「ううん、フる側。なんか彼はいつもこう、頭いいぶってるみたいで。ほんとに、一緒にいたら、あたしだってわからないことばっか言っちゃってるし、めっちゃ難しいってかカタい言葉を使ってごちゃごちゃうるさくなってきたんだ。それはちょっと嫌で・・・」
「なるほど。最初できたとき、俺、あいつがモイラにはピッタリだなと思ったけどな。まじめでいい男だったみたい」
「あたしだってそうだったよ。その、頭がいいフリしてるってわかるまでは、ほんとうに賢いんだと思ってた。ずっとすてきだなと思ってたのよ。でも結局空っぽだった。人として」
 父は軽く頷いた。
「でもな、モイラの理想高いよな」
「でパパは?」
「どういうこと?」と知らん顔で返した。
「いやだってあれでしょ。出張に行ったりするって言って、ってやつ。まだやってる?」
 とたん、父の笑いがすーと消えた。一瞬、キッチンの方に目をやった。
「あっ、あれだな。まあ、やってるにはやってるけど」
 というと、父は私と目を合わせられなくなってきた。私は笑顔のバトンを受け継いで、父に向ける。
「よかった。パパもありのままでいてほしい」
「ああ。まあ、そうだな」
 しばらくの間を置いてから、
「あたし、中に入る」と、ドギマギしている父に言った。
 振り返って中に入ろうとすると、父の普段より小さな声に止められた。
「モイラ、ママにこのこと、話さない・・・よな?」
 私は深く考えているかのような表情を作った。
「あ、うん」と言い残して、父を一人にした。

 中に入ってシャワーを浴びた。いつものように、非常に冷たい水の設定にした。私は暖かいシャワーがどうしても浴びられない。なぜなら、暖かいシャワーを浴びると、蒸気が必ず誕生してしまうのだ。このもうもうと流れてくる蒸気は、部屋の隅々まで満たすことに満足せず、私の体の奥までも詰め込もうとするかのように感じる。そして、鼻、口、耳、黒目さえも、私のこの体のあらゆる出入口を捩じ開けて侵略したいこの瘴気はそれにとどまらず、凝縮して液体に戻り、生ぬるく肌にベッタリくっつくという手も使って外面も支配しようとする。蒸気は人間にも勝てる独占欲を持つ。いや、まさに人間的な独占欲である。だからいつも冷たいのにする。冷水は率直でわかりやすい。お湯とは違って、欲深い人間のような生きているものの真似を決してしない。死んでいるものは死んだままでいい。生きているものは生きたままでいい。混同していれば何の意味もない。すると不自然で気色が悪いだけ。私は蒸気のあの余計な芝居は要らない。
 シャワーを出てタオルで髪をゴシゴシ拭いてから、キッチンに入った。ご飯の準備は一段階進んでいるみたいだった。四人分の食器と皿が整然と食卓の上に並んでいる。姉は食卓から少し離れた場所で、置いてあるフォークをいじくっていて、ぴったりの位置を見つけようとするという遊びに夢中になっている。私は姉の傍に座って、呆然とスマホをいじりながらご飯を待っていた。

「少し計算間違いしてしまって、茹で野菜がまだできてないから途中で出すけど、とりあえずこれで温かいうちに!」
 静かに、ストーブの上で野菜が茹でられている。
 待ちに待ったローストチキンがやっと出された。グレービーをたっぷりかけた肉塊から離れた皿の彼方には、ふわふわとしたマッシュポテトがポツンと転がっている。この二つの物体の間にある浅い窪みが、チキンからドボドボ滴り落ちていくグレービーをありがたがって受け入れた。その食べ物なきブランクを眺めていると、皿の象牙色がこげ茶色になってゆっくりと塗りつぶされた。
 しばらく黙々と食べてから、父は話した。
「そういや、モイラ、姉ちゃんの話聞いたか?」
「話って?」
「ほら言ってあげなよ」
 父が言うと、姉はぴたっと動きを止めて、私を疑いの目で見た。
「モイラ絶対興味ないけど」
「あら、私も何も聞いてないわよ」
 母が口を挟むと、少し黙ってから、んじゃあ、と姉は母の方に向かってもそもそと語り始めた。
「ユーチューバーのスーパーベンジャミンという人がいて、モイラは分かるはずの人だけど、前にパパが手伝ってくれた私の手作りクーゲルバーンの動画を彼が観たみたいで、面白いと思ったから次の動画に入れて紹介したい、っていうようなメールが来たよ」
 ここまできたら、へーすごい、とだけ母は返した。母は、どうせビー玉なんて誰も気にしないだろうが、と絶対に心の中で思っているだろう。けど、平和を保つためには、私は母の先例に倣うことにした。
「ベンジャミンが? ほんとにすごいよ、姉ちゃん」
「うん」
「そういわれてみれば、うちの大学でもさ、ピンクの髪色の人があたしにやってきて、街頭インタビューかなって――」
「で、動画はいつ載せるの?」と、母がちょうどもっと面白い話が始まろうとしているところを遮ってしまった。
「来週金曜だと思う。制作の裏話みたいなのを聞きたいっていって、今週中に通話でちょっとインタビューもしたいみたい」
「あら、もう有名人じゃない。どれくらいの人が見てくれるのかしら」
 姉は照れくさそうに頭を下げ、恥ずかし気ににっこりと笑った。私は肉が剥ぎ取られた脛骨をフォークの先で躍らせて皿の周りに走らせながら、ハッピーバースデーを小さな鼻声で歌い出す。姉の自慢はつづいた。
「そうだね、彼の平均視聴率はいつもn万人ほどで、そこから私のチャネルに飛び込む人が多いと思うし、本当にチャンスかも」
 それを聞いて、私は歌うのをやめた。
「で、そのチャンスでどうする? チャンネルを成長させようと?」
「うん、作りたい動画まだ色々あるから、たぶんもっと――」
「でも、姉ちゃん、その前にまた変わるかもしれないよねぇ」
「どういうこと?」
「だって、ガンプラをやってたときもたった一週間で飽きちゃったっしょ? インタビューが終わったら、もうビー玉がどうでもよくなっちゃうのじゃないかな、って思うよね」
「モイラ・・・」と、父は言いかけた。
「そういえば、パパも趣味がかなりコロコロ変わるよねぇ」
「・・・」
「姉ちゃんとまったく一緒って面白いよね。遺伝か何かみたいな。でも、本当にたっくさんの人が見ますように、ねえちゃん。応援してるよ」
 姉が口を開けようとすると、チーンと、オーブンが鳴った。
「あ、パイできたわ」と母が立ったら、姉は父の方を向いた。
「モイラは興味ないって言ったでしょ?」
 そして彼女は席を外して部屋の方に出て行った。母はパイを運んできて、姉の出ていったのををまったく気にしていないフリをした。
「あなた、食器棚にあるあの大きなナイフを取りにいってくれない?」
 父は無言のまま言われた通りにした。雰囲気をよくしようと、私はハピネスを発散させてみた。
「いえーい、ずっと楽しみにしてた、これ」
 聞かなかったのか、何も反応せずに母は包丁の先をケーキの中心に突っ込んで切り分け始めた。しばらくパイの傷口の中で包丁を無造作に左右に揺らしてから、一切れ目を抉り出して皿の上に移して孤立させた。まな板に赤紫の液体がどろっと流れ出す。
「まずお姉ちゃんにこれあげてね。ドアの前に置いてきてもいい」
 と私に言いつけた。え、と生返事をしたら、母に皿を無理やり手に押し付けられ、仕方なく先ほど消えた姉のあとをしぶしぶ追って行った。

 私は部屋のドアをバンバン叩いても、何の返事もなかった。パイをドアの前に置いてキッチンの方に戻っていく途中で、父の声がした。私は思わずキッチンのドアの前で立ち止まってしまった。
「そういや、俺は明日からロンドンの本店に行かないと。サーバーの管理者がどうやら病気になったみたいで、しばらくして彼の代理を務めることになっちゃって」
「少しの間ってどれぐらいなの?」
「とりあえず三日間、四日間だと言われたけど、延長する可能性もあるって」
 ドン、と突然大きな音がした。その衝撃に微かに震えたグラスの声が響く。まな板にナイフがぶつかった音だったのだろうか。
「それ、明日なんて、ちょっと急すぎるじゃないの?」
 母の声が聞こえた。
「そう・・・だな、でも病気になったりなんて予測できないもんだから」
 しばらくの静寂のあと、すこし小さくなってきた母の声が壁を伝って聞こえた。
「これ・・・本当にリモートでできないの? あなた、もう帰ってきたばかりなのに」
「いーや、そうだな、できればよかっただろうが、今ちょうど新人教育もやってんだから、ちょっとそれを手伝ってほしいってのもある」
「じゃ私も行くわ」
「えっ」
「だって、私も久しくロンドンに行ってないし、少なくともそばにたら、あなたもそっちのほうが楽じゃない?」
「まあ、でも絶対つまらんと思うよ」
「そんなことはないわよ。私もロンドンにはトモダチいっぱいいるから」
「ああ」
 また静かになったから、私は壁に耳をくっ付けて息を殺し、続きを待っていた。
「でも、お金って—―」
「私もついていけないくらい足りないの? あら、いつからそんなに貧乏くさくなったの?」
 母の声色が刺々しかった。このタイミングで、私は救いに行った。
「ミッション成功! 姉ちゃんまだ立て籠もってるみたいだけど、ドアの前に置いといた。かなり困難な任務だったけど、なんとかなった!」
 そう言うと、父はちらっと私の方に目をやり、母はただ笑顔を作って私のことを無視して話を続けた。
「では決まりだね。今日荷物を詰めるわ。楽しみ」
 とたん、ストーブの上のポットが沸騰して噴きこぼれ出した。私以外誰も気づかない。変な笑顔を貼り付けたまま呑気に鼻歌を歌い出した母が父の前にパイを出すと、彼は子供染みて手のひらでゆっくり押しのけた。
「俺、腹いっぱい」
 蒸気がキッチンを満たそうと、グングン勢いよくポットから流れ出した。ジュ―とストーブの上に落ちた水滴がすぐ蒸発する。橙色に点滅しているガラス製の蓋の向こうには人参が舞い狂っている。  父は諦めたと思いきや、また母に刃向かった。
「いやでもさ、一緒に行きたかったらいいんだけどさ、俺らふたり行くと、あの子はどうする? 家で一人でいられないよな。頭ん中ビー玉ばっかりだし、一人だったらちゃんと食事すら採りやしないだろ」
 蒸気を肌で感じた。私は頭の中が真っ白になり、吐き気に襲われた。もうもうと流れてくる曇の中には妄想が見えてくる。二十二本の蝋燭は、アイシングのごとき白さを持った蒸気に乗り、キッチンをぐるぐる踊り回っている。激しく燃えている火が一本ずつに点いており、どこからともなくハッピーバースデーの旋律が微かに聞こえてくる。蒸気はもう耳に入ってきているのか。
「あ、でもモイラは今夏休みでしょう? だから、モイラがあの子の面倒を見てくれればいいわ。そうしたら問題解決じゃない? ね、モイラ?」
 母の怒気を込めた声が歌の音をかき消した。ね、モイラ、大丈夫でしょ?一週間留守番してくれない? パイの内臓がまな板を紫に染める。ね、モイラ、聞いてるの? 時計の針の旅路を見守っているように、私は紫がゆっくりゆっくり滲み渡っていくのを見ている。いうまでも見ていた。疲れている。すべてに。もう堪忍袋がパンパン。
 この空間は既に蒸気の支配下にある。
 離れたい。
 泡を食って玄関の方に逃げた。目の奥が痛くて痛くてたまらない。ヒリヒリ痛い。その瘴気は私の身体にもう入っているという証拠だ。
 玄関ホールで視界外に潜んでいた玉転がしレールに足がぐいっと引っかかって、ばったり倒れた。ザーザーゴロゴロと、猛雨のように、一気に落ちる大量のビー玉が音を立てた。それに続いて、姉の部屋の方から鈍い音が聞こえた。私は、蒸気よりもマグマが肺に詰まっているかのように感じた。滅んだビー玉王国の跡の中で倒れたまま、咳で体からその熱い異物を出そうとしても、いやに膨張した肺はその指令に従わなかった。新鮮な空気を吸いたい。よろよろ立ち上がった。自分の部屋から出てキッチンで怒鳴っている姉、彼女をなだめようとしている母、そして私の名前を呼んでいる父をみんな後にし、ドアの取っ手を摑んでグンっと押して開けて外へ出た。
 
 二時間後、父は私を見つけた。私は隣の農場にある深い溝の底に座り込んでいたのだ。私を見つけたとき、長い間何も言わなかった。ただ、泥まみれになりながら溝に滑りこんで、私の隣にいつまでも座っていた。それまでの二時間ずっと星空を眺めていた私は寒かった。私は超ハッピーな人間である。真言のように、それを脳内で何回も何回も繰り返しながら、名前も知らない星座の輪郭をなぞったり、新しいのを作り出したりしていた。それは、父が来ても変わらなかった。
 私は超ハッピーな人間である。
 私は超ハッピーな人間である。
 私は超ハッピーな人間である
 私は——
「モイラ、俺をクズって思う?」
「いや、どっちかっていうと怖がり」
「そっか、まあそうかもな」
 ひんやりとした風が突然溝を吹き渡った。私は深い溜息をついた。
「実はね、あたし、何でみんなハッピーでいられないのかわかんない。帰ったら、やっぱ全部なんか違うんだよね。思ってたのと違う。みんな、なんか外れてる気がする」
「まあでもやっぱりモイラって、理想が高いからな」
 言い返しがなかった私は、指先で腰の隣の地面に呆然と円を描きながら、星の光を呑み込もうとしている雲を見ていた。そして父はまた話した。
「こんな浮気クソ野郎の俺が説教する資格全くないって分かってるけど、モイラは、子供の時からずっとこうだ。なんていうか、人に期待しすぎるってか、頭ん中のみんなと実際に生きているみんなが若干違うってこと。何事に対しても、これはこうであるべき、みたいな考え方を前からずっとしてるから、期待が外れたら、いつもこう、がっかりする」
 私は「そうなの?」と父の顔色を伺うと、彼は仰向いて夜空の黒をじっと見つめていた。そのまま、話を続けた。
「そうだよ。だから、俺もそうだったかもな。お母さんと出会ったとき、勝手に彼女の理想像を描いちゃったんだ。その理想と現実のギャップは最初、ガン無視しようとしてて、どうしたって認めたくなかったたけど、結局お母さんのこと愛せなかったんだ。俺、人じゃなくて、ただの、現実にありやしないフィクションと結婚した。でもそんなことを今更彼女に言うなんて、怖くてしょうがない。お母さんを傷づけたくないなんて、そんなこと言ってるくせに、他の女を愛してる俺って最悪なんだけどな」
「だから怖がりだと思うよ」
 ああと、父は視線を落とした。
「あたし、今日、ありのままでいてほしいって言ったのは、本気だった。そんなこともうやってるなら今さら止められないってわかってるし、せめてそれくらい、やってるよ、ってあたしたちに正直言ったほうがいいと思うよ。だって、パパが浮気者クソ野郎だって、それはしょうがないから、受け入れるしかないでしょ。どんだけ嫌いだって」
 父は苦笑いをした。
「やっぱり俺クズかもしれないな」
「お互い様」と私は笑い返した。
 ぱっと、流れ星が視界を横切っていった。その瞬間、願い事がいっぱいあるはずだったけど、なぜか何一つも思いつかなかった。ただ、星の旅路を目でたどって、空の黒に焼き付いた星の跡がみるみるうちに消えていくのを眺めていた。
「でもパパ、前にあれ、言ってくれてありがとう。あれすごい聞きたかったのよ今日」
「何を?」
「ハッピーバースデー」
「ああ、うん」
 そして、長く長く感じたわずかの数秒が経った。
「じゃモイラ、中に戻ろっか?」