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「お前クズだな」って思うからな。

 教育学部への進学が決まった数週間後、教師になるのは無理だと悟った。

 それまで大事に温めてきた「教師になりたい」という思いは純度100%で、一滴の嘘も混じっていなかった。地元の教員採用試験を受けて、22歳で教壇に立ったら、支援を必要とする子どもたちに生涯を捧げるはずだと信じていた。

 それでも、もう僕には無理だと思った。

 そんな風に思い始めたのは、合格発表を終えた3月半ばのことだ。僕はその時期、学生支援センターの先生と面談を重ねていた。訪ねる部屋は「障がい学生支援室」という名前。高校で人知れず実施してもらっていた合理的配慮を、大学でも人知れず受けられるようにしたかった。そうしたら、最終的な配慮事項を決定する面談に6人もの大人が現れた。

 入学初日の、まだ高3に毛も生えていない、大人との面談なんて学期末の三者懇談しか知らない18歳 VS よく分からないけれど僕の学生生活をサポートする陣営に選ばれた、謎の大人6人。

 決して広くはない部屋でぎゅうぎゅうに座り、震える声で自分の事情を説明しては逐一メモを取られた。

 支援が必要なのは、僕の方だ。

 高校で受けていた支援があまりにも自然すぎて、初めてそう痛感した。衝撃的な事実だった。

 あれがどれだけ重要な手続きなのか、今なら知識としても体感としても理解できる。でも当時の僕にとっては、見ず知らずの大人に根掘り葉掘り自分の内側を尋ねられる、苦痛なだけの時間だった。支援者になるために来たはずの大学で、入学初日から「要支援の学生」になることも、自分で希望したはずなのに戸惑いが拭えなかった。

 もし教師になれば、数年おきに異動がある。そうすると毎回この環境調整が必要だ。そんな仕事、耐えられない。「そんな当事者、本当にいるんだ〜」とか言われて、困った顔で対応されて、勝手に情報が右往左往して、結局1人で闘わなければいけなくなるかもしれない。もしもそれが、この4年のうちに大学でも起きたら……。考えすぎだと言われようが、とにかく恐ろしかった。

 恐れていた通り、4年もあれば全部が全部上手くいったわけではなかった。でも、この場にはなかった7本目の右手にずっと救われていた。当時まだ顔を見たことすらなかった、今の指導教員の右手だ。



 時は流れ、3年生の春。僕にとって学生生活最大の不安は、約半年後に迫った教育実習だった。トランスジェンダーとして配慮申請書を出してはいるものの、自認する性で取り扱ってもらえるかは相手次第。7月にある実習校との打ち合わせに向けて、進級後すぐから担任と作戦を練っていた。

 ところが6月、担任からいきなり「話がある」と呼び出された。研究室での開口一番、担任が言い放ったのは「トランスジェンダーの実習生は前例がないから、受け入れられるか分からないって」だった。

 珍しく慎重に言葉を選ぶ担任の話をまとめると、要は向こうの管理職が差別的な問い合わせをしてきて、色々と押し問答があった末の「前例がない」だったらしい。それを僕には伏せた状態で、学科内で「本人にどこまで告知すべきか」としばらく揉んで今日に至ったという。

「学科の会議で、先生たちもめっちゃ怒ってた。みんな真琴さんには知らせない方が良いって言ったけど、自分が『今隠しても、あの子は実習に行くんだから』って押し切ったから、今こうして伝えてる」

 ほら、やっぱり僕は教師になれない。あの時の進路変更、正解だったな。そうホッとした傍らで強烈な不満と劣等感がよぎった。同期はみんな自動的に、何なら泣いて嫌がっても実習に行けるのに、僕だけ差別と闘って勝たなきゃ行けないなんて、どう考えてもおかしくないか。

 現実の僕はあっけらかんと「まあ、認めてもらうしかないですね」と答えた。だって、卒業単位と教員免許が欲しければその学校に行くしかない。後日呼ばれた管理職との面談では、ひたすら静かに笑ってやり過ごした。まあその苦労も虚しく、コロナの影響でそこでは実習ができなくなり、実習校は附属小に変わったけれど。

 大変だったのはその後だ。担任から聞いた時点で悲しんだり憤ったりすれば良かったのに、感情を無視して処理してしまったから、時間差で傷ついた。結果として、感情の矛先を失って病んだ。

 実生活での僕はジェンダーをあまり公表していないから、この手の話ができる相手はかなり限られる。僕の事情を知っていて、差別をはらんだ話をしてもいい距離感の人。変に感情的になったり、変に同情したりしない人。脳内のフローチャートをたどって、行き着いたのは指導教員だった。週に1回ゼミで90分顔を見るだけの、それも当時たった2〜3回しか面と向かって話したことのない彼に、全部聴いてほしくなった。ゼミの時みたいに優しく淡々と相づちを打って、返事代わりの難しい話をして、咀嚼に困った僕を見て「難しいねぇ」と笑ってほしかった。

 アポを取るメールの文面に数日悩み、結局感情的なグズグズのメールを送った。約束の日時に研究室へ出向く。勧められたダイニングチェアに座ると、先生と向かい合う形になった。話している内容から意識を逸らしたくて、無意味に先生の右手を見つめる。話しながら、へぇ先生は右利きなんだ、なんて思っていた。

 何やかんやと泥を吐き出し、上手く着地できずに「どうお考えになりますか」とかいう雑な問いを投げかけて、先生にバトンタッチする。僕が話している間「そっかぁ」「うん」「そうだったんだねぇ」しか言わなかった先生が、少し考えた後でこう切り出した。

「その気持ち、担任の先生に言わなかったんだ」

 僕は答えない。先生は構わず続ける。

「初めて知らされた時、本当はショックだっただろ? 傷ついたと思うよ。でもその時に言わなかったから、今ここへおしゃべりしに来てくれたんだよね。言わなかったっていうか、言えなかったんだよな、たぶんな」

 図星だ。でもこれを認めたら、担任を信用していないことを意味してしまう気がして、頷きもせずに先生の目を見ていた。

「私のところに来たのは、私に“何か”があると思ったからじゃない? 気づいてること、もういっぱいあるよね。“何か”がある子は、“何か”がある先生を嗅ぎつけて寄ってくるものだから」

 また図星だ。僕は、この先生にも僕と同じマイノリティ性が宿っていることを直感的に分かっていた。だから、同じ“何か”を宿した先人としての彼に聴いてほしかった。

 先生はその後も、ゼミと同じように抽象的で分かるような分からないような、難しい話をいくつかした。一瞬だけ間が空いて、ほとんど空中を漂っていた先生の視線が僕に定まる。

「将来、こっちの席に座るだろ」

 先生の右手が、デスクチェアの肘掛けをとんとんと叩いた。確かに僕は大学教員になりたい。

「その時、真琴さんが“この役割”を大事にできない大人になってたら、俺は『お前クズだな』って思うからな」

 はい、と掠れた声で答えたような気がする。少なくとも、背筋を伸ばしてはっきり頷いた記憶はある。

「まだ短い付き合いだけど、私はあなたの指導教員なわけだから。私でよければ必ず助ける」

 もう一度はっきりと頷いた。返事をしようとしたけれど、声は出なかった。



 それから今まで、先生は本当に必ず僕を助けてくれて、“この役割”を大事にしてくれた。お互いに何もかもを打ち明け合ったわけではないのだけれど、言わなくても・言われなくても通じることが多々あった。「波長が合う人」というのは、こういう相手のことを指すのだと思う。

 朝が来たら、大学を卒業する。4月からは、他分野の新しい指導教員のもとで研究を続ける。

 先生にはまた会えるかもしれないし、もう会えないかもしれないけれど、先生の言う「クズ」にならないことだけは誓ってお別れしたい。

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