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これからは「怒らない人」は損をする

フォレスト出版編集部の寺崎です。

昨日、緊急事態宣言の2週間延長が正式決定しました。これ、仕方がないこととはいえ、さすがに飲食店をはじめとする悪影響を被る業界のひとたちから暴動が起こってもおかしくないレベルですが、そんな話が聞いたことがありません。

日本人は怒らない民族と言われています。外国人から見たらかなり異様な国民性らしいです。

弊社のベストセラー『怒らない技術』をはじめとしたシリーズは累計100万部を突破しました。

「怒らないこと」はホントにいいことなのか?

そんな疑問を呈したのがこちらの記事でした。

今日はこの「怒れない自分」というのが、いかに損失であるかをしらしめる論考をご紹介します。

それでは、参ります。

以下、『怒る一流 怒れない二流』(向谷匡史・著)からの引用と解説で展開します。

「怒らない人」は〝社会の傍観者〞

 すぐにカッとする人と、
「まっ、いっか」
 と他人を赦す人をくらべれば、どっちが人格者でしょうか。
「そりゃ、後者に決まってるじゃん」
 というのが世間的な評価ですが、本当にそうでしょうか。
「まっ、いっか」と受け流す人は、単に無関心であるに過ぎないのです。
 やってはいけないこと、あってはいけないこと、理不尽なことに対しては、まず「怒る」というのが人間として正しい反応であり、「人格者」だと私は思います。
 そんな話を、私がある席でしたところ、
「お坊さんが言うことじゃないですね」
 と揶揄(やゆ)されました。
 なるほど、そうですね。私は浄土真宗本願寺派の僧籍を持っていますので、怒ることの愚かさを説くのが役目なのに、「怒ることが正しいとは何事か」――というわけです。
 怒りのことを仏教では「瞋恚(しんに)」と言います。
「貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚癡(おろか)」の三つを三毒といって、煩悩の根本とします。これが人間を苦しめる諸悪の根源というわけですが、言い換えれば、《怒り》は、すべての人間が生まれながらに宿す煩悩であり、これは死ぬまで消えないということになります。
 となれば、人間は怒るのが当たり前。これは本能と言い換えてもいいでしょう。
 ただし――ここが大事なところですが――カッとなった怒りの感情は、どういう形で表すかによって、マイナスにもプラスにも作用するということです。仏教は「怒りの感情」を否定するのではなく、それを言動にどう表すかを問題にしている――と私は解釈するのです。

なるほど。

怒りの感情は人間の煩悩であり本能だから、どうしようもない。

ただし、その感情をどういう風に表現するかによって、それはマイナスにもなるし、プラスにもなる、と。

怒りには「反射」と「反応」の二種類がある

 スポーツに「フェイント」というのがあります。
 たとえばバレーボールで強烈なスパイクを打ち込むと見せかけ、相手ブロックがあわててジャンプした背後へポトリと落とす――なんてのは、よく見るテクニックですね。
 私は空手道場を主宰していますが、十代のころ、いつもフェイントに首をかしげていました。突くと見せかけて蹴ったりするのですが、なぜ相手はフェイントに引っかかるのか。経験則で知ってはいても、そのメカニズムがわからなかったのです。
 結論から言えば、フェイントは「脊髄反射」であり、《怒り》もまた、同様のメカニズムを持っているのです。

 
もう少し、くわしくご説明しましょう。
 人間の身体は脳が命令を出しています。脳から発した命令が、脊髄という神経幹を通って身体各部に伝わります。たとえば、風呂の湯船に浸かっていて、次第に熱くなっていけば、肌がそれを感知して脳に伝え、脳は「そろそろ出たほうがいいぞ」と手足に命令を発して湯船から出ます。
 これを「反応」と言います。
 ところが、ぬるいと思って湯船に足を差し入れたところが、高温であったらどうでしょう。
「熱ッチチ!」
 と思わず足を引き抜きます。脳は「足を動かせ」と命じてはいないのに、足が勝手に動いています。
 これが「脊髄反射」というやつです。
「反応」でなく「反射」です。
 フェイントに引っかかるのは、脳の命令――つまり、考えることなく、身体が反射的に動くというメカニズムによるというわけです。

《怒り》も同じです。
(あッ、ケータイかけてやがる!)
 電車内でカッときて、
「てめぇ、ウルセーぞ!」
 いきなり怒声を発するのは「怒りの反射」。
「何だと、この野郎!」
 と、相手が「怒りの反射」を返してくれば、ケンカになってしまいます。「怒りの反射」はマイナスに作用することが多いのです。「ついカッとして」という言葉は、暴力事件を起こした人がよく口にするセリフですね。

《怒り》をプラスに活かすには、「反射」ではなく、脳からの命令によって「反応」するものでなければなりません。
 つまり、「怒り方=技術」ということなのです。

《反射》で怒るのではなく、《反応》で怒る。《反射》で怒ると喧嘩になるから、《反応》で怒りなさい。

これって、夫婦間や親子間でもありがちな話です。

妻「なんで、いつも使ったハサミ出しっぱなしなの!?」《反射》
夫「うるせえな。片せばいんだろ!」

これでは喧嘩です。

妻「あのさ、ハサミ使ったら、元のところに戻してもらえる?」《反応》
夫「おっと、ごめんごめん」

《反射》と《反応》は「言い方」の違いともいえます。

怒らないことによる不利益

 電車内のケータイ電話といった問題であれば、怒りを我慢しても実害をこうむることはありません。「怒れなかった自分」に嫌気がさそうとも、それによって現実的な不利益があるわけではありません。
 しかし、たとえば会社で同僚に手柄を横取りされた場合はどうでしょう。自分が努力してまとめた契約なのに、同僚が得意になって上司に報告し、同僚の株があがったとします。
 カッとするのは誰しも同じです。
「この野郎!」
 と、いきなり「反射」で怒ったらどうでしょう。
 上司も周囲も事情を知りませんから、
(何だ、こいつ。嫉妬から逆恨みしているのか?)
 と思われるかもしれません。
 ならば、ここは大人の対応をして、「まっ、しょうがないか」とあきらめるのはどうでしょうか。これもマズイ。この同僚は、あなたをナメてしまうことになります。
 次からは堂々と手柄を横取りするでしょう。怒るべきときに怒っておかなければ、実害として今後に影響してくるのです。

うーん・・・困りました。

こういう場合はどうしたらいいんでしょうか。どう、怒ればいいのか。

笑顔で怒る自己演出術

 実を言うと、手柄を横取りされたのは、広告代理店の営業マンをやっている知人の子息です。二十代後半で、仕事はこれからが勝負の年代。いきさつを聞いた私は、放っておくのはよくないと判断し、こんなアドバイスをしました。
「ニッコリ笑顔でクギを刺せ」
 たとえば、こんなセリフです。

「キミが課長に報告した契約の件だけど、あれは俺がまとめたんじゃないか。今回は目をつむるから、次は気をつけてくれよ。俺だって趣味で仕事をしているわけじゃないんだから」

 低い声で言えば、笑顔と〝落差〞があるぶんだけ、相手はドキリとするものです。なぜなら、本当は怒鳴りつけたいのにぐっとガマンしている――と相手は受け取るからです。しかも笑顔によって、〝ケンカ腰〞は回避されていますから、敵対関係になることが苦手な人にもできるはずです。
 《笑顔+低い声》という方法は、私が週刊誌記者時代、ヤクザ幹部を取材したときに学んだ方法です。飲食店経営者が「借金の返済を一週間待って欲しい」と組事務所にたのみに来たときのことです。幹部は笑みを浮かべながら、ドスのきいた低い声でこう言ったのです。
「わかった。だけど、俺だって、いつも機嫌がいいわけじゃねぇんだぜ」
《笑顔+低い声》という落差に、飲食店経営者は青い顔をしたものです。脅しのプロは、自己演出という「反応の怒り」で相手にクギを刺すのです。

昔、竹中直人の芸に「笑いながら怒る人」というのがありましたが、それを思い出しました。

《怒り》はハリネズミの〝針〞になる

 一歩譲れば、二歩踏み込んでくる。
 これが人間関係です。
 だから、
「あいつをナメてかかるとヤバイ」
 と周囲に一目置かせる必要があります。
 そこで、《ハリネズミの怒り》です。
 ハリネズミは自分からは攻撃を仕掛けませんが、攻めてくる相手に対しては針を逆立てます。ナメてかかった相手は予期せぬ逆襲にビックリで、
「こいつに手を出すとヤバイ」
 ということになる。
 ハリネズミの〝針〞に相当するのが《怒り》です。
 参考になるのが、大阪市の橋下徹市長です。
 メディアは「ナニワのケンカ師」と名づけました。慰安婦問題では失言でミソをつけましたが、当時はアベノミクス一色で「日本維新の会」は霞んでいましたから、橋下市長は話題づくりのため、批判を承知で過激発言をしてみせたのだと思います。狙いどおり話題になりましたが、想定以上の批判にあわてたといったところでしょう。
 それはさておき、橋本市長のケンカ術の特徴は〝ハリネズミ式〞です。自分に対する批判に対しては徹底して怒ってみせ、批判を封じていくやり方です。
 たとえば「日本維新の会」結成当初、自民党を離党して参画した松浪健太衆議院議員が、自身のブログに《言うべきことは、忌憚なく言わせてもらうことにした》と書き込み、橋下氏に噛みつきました。
《国会議員団と代表の意見がねじれた場合の対処方(原文ママ)を明確にしていく》
《よほどのことがない限り、国政における決定は議員団ですべきことを橋下代表も認めた》
 威勢よくブチ上げ、メディアは橋下氏への〝宣戦布告〞と報じ、大きな話題になりました。
 そこで、橋下氏はどう反応したか。
「国会議員団の大きな方針や戦略で、有権者の皆さんが本当についてきてくれるということであれば、日本維新の会に所属しなくてもいいではないか」
 俺の下にいるのがイヤなら出て行きゃいいだろう――と、ハリネズミの〝針〞を逆立てて見せたのです。
 これには松浪議員もあわてて、
《大きな戦略や方針について、代表が決めるのは当然である》
 と〝恭順〞の意を表して一件落着したのです。
 もし、松浪議員の批判に対して、橋下氏が笑って受け流していたらどうでしょうか。
「一歩譲れば二歩踏み込んでくる」
 というのが人間関係ですから、松浪議員は主導権を握るべくイケイケで攻め立て、橋下氏の威信は大きく揺らいだことでしょう。
 一歩どころか半歩も譲らず、《怒り》という鋭いトゲで撃退する。これが《ハリネズミの怒り》というわけです。
 したがって、この〝針〞を持たない人は、一歩も二歩も三歩も、ドカドカと土足で踏み込まれ、蹂躙(じゅうりん)されてしまうのです。

「ハリネズミの怒り」を持て。

これは学校や職場の人間関係にも言えることでしょう。

私は中学、高校が男子校だったため、この「ナメられてはいけない」という感じが痛いほどわかります。新しいクラス編成になったとき、たとえば「売られた喧嘩を買わない」をやってしまうと、「こいつはチキン」という烙印を押され、少なくとも1年間はカーストの最下層に置かれてしまう。

暴力はよくないですが、少なくとも「ハリネズミの怒り」を持って、笑って受け流すのではなく、どんどん喧嘩しろというのが著者の主張です。

怒ることのできない人は、自分の本音が言えない

 私たちは、何より「和」を大事にします。
「和をもって貴しとなす」と言った聖徳太子の昔より、「和」は日本文化の美風とされてきました。協調性はもちろん大切なことですし、それを否定するつもりは毛頭ありませんが、協調性とは多数決に従うということであって、自分の本音を封じるということではありません。本音を封じてしまえば不満が溜まり、むしろ「和」を乱すことにつながっていくことさえあるのです。
 でも、本音を口にするのは勇気がいります。論戦になれば、険悪な雰囲気になることもあるでしょう。それがイヤで、つい本音を隠してしまいます。
 だから、場の雰囲気に合わせようとするのです。
 たとえば、会議。
 結論は〝仕切り屋さん〞の意図する方向に落ち着くもので、
「まっ、いろいろご意見はあると思いますが、ひとつ、そんなことでいかがでしょうか」
 といった調子でまとめにかかりますが、ここで、
「私は反対です」
 と異論を挟むのは、とても勇気のいることです。
(こいつ、議論を混ぜっ返す気か)
 という目で見られるのではないか。
「あいつは協調性がないな」
 と、あとで陰口を叩かれたりするのではないか。
 この「ではないか」ということを恐れ、
「みなさんがよろしければ、私も賛成です」
 と、本音を封じることになるのです。
 でも、そんな生き方は正しいのでしょうか。
 周囲に迎合する生き方ばかりしていると、自分というものを見失ってしまいます。糸の切れた凧と同じで、右に左に風まかせ。突風にあおられれば、キリキリ舞いして墜落することになります。
(その意見には賛成できない)
 と思うなら、堂々と本音を口にすべきです。
(それは間違っている)
 と怒りがわいてきたなら、それを口にすべきです。
 本音も言えず、怒ることもできない人は、「協調性に富んでいる」という評判と引き替えに、自分というものを放棄しているに過ぎないのです。

「協調性がある」とは、これまで日本では美徳とされてきました。ただこれって、労働力+大量生産+広告の大量投下といった古い時代のモデルにおける美徳ではないでしょうか。

協調性のある兵隊、協調性のある社員をヨシとする世界です。

社員全員が協調性のある会社が今後成長していくかというと、それは無理なんじゃないでしょうか。これだけ変化の激しいVUCAの時代。

というわけで、みなさんどんどん怒り、自分の意見をぶち上げ、協調性なんてゴミ箱に捨てて、生きましょう。

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