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すべてのライター・編集者必読の書

すんごい本が出ました。

おとといAmazonでポチって、昨日の午前中に届いて、さっそく読み始めたものの、冒頭の数ページで惹きこまれて徹夜で読み切った小説のような勢いで、476ページを1日で読み終えた。

それが、この本。

世界的ベストセラー『嫌われる勇気』のライターで知られる古賀史健さんが、3年がかりで書かれた新刊『取材・執筆・推敲――書く人の教科書』です。

昨日は昭和の日で祝日でした。

1日中雨が降っていたので、ちょうどいい「積ん読デー」ということで「よし、今日は読み途中だった『起業の天才!』(これも超絶面白い!)を読もう」と意気込んでいたのですが、急きょ予定を変更させられました。

本文476ページ、定価3000円という、かなりハードコアな代物です。

しかし、これがめちゃくちゃ面白い。で、頭から終わりまでとにかく読みやすくて、スルスル読めるんです。内容もさることながら、この本の文章そのものにプロフェッショナルとしてのライターの底力を感じました。

本書は「ライターの教科書」というコンセプトの下、執筆された。より正確に言うなら「もしもぼくが『ライターの学校』をつくるとしたら、こんな教科書がほしい」を出発点とする本である。「取材」「執筆」「推敲」の全三部、ガイダンスまで含めると合計10章からなる本書が、現役のライターや編集者はもちろん、これからその道をめざす人、そして「書くこと」で自分と世界を変えようとするすべての人たちに届くことを願っている。

こんな素敵なコンセプトで貫かれているのが『取材・執筆・推敲――書く人の教科書』です。職業柄、こうした「文章術系」の本はよく眺めるほうではあるのですが、この本は2段も3段もレイヤーが高い。

「文章を書く」という行為の奥深さが骨身に沁みてきます。

そして「真のライティングとは、ここまでの深い思考を経て生み出されるものなのか!」と清々しい感動を覚えました。

今日はこの本のなにが素晴らしいのかってことを、少しだけご紹介したいと思います。

「取材」「執筆」「推敲」の再定義

まず大前提として、この本では、1冊の本をつくりだすための「取材」「執筆」「推敲(すいこう)」というステップを改めて再定義しています。

ちなみに「本をつくるのに『取材』がなんで必要なの?」と疑問を感じた方に対して補足します。

小説などのフィクションのジャンルでは、作家さんご本人が原稿を書くケースがほぼ100%。それに対して、ビジネス書や実用書といったノンフィクションの書籍は、著者さんが本業のビジネスを持っていたりするので、ライターさんがインタビューして、その内容をもとに本にするケースが少なくありません。

昔は「ゴーストライター」なんて呼ばれて書籍のクレジットには掲載されないのが業界の慣習でしたが、最近では「編集協力」あるいは「執筆協力」としてクレジットに明記するケースがほとんど。

さて、1冊の本をつくりだすための「取材」「執筆」「推敲」とは何か。

取材=インタビューのことでしょ?
執筆=原稿を書くことでしょ?
推敲=書いた原稿を見なおして修正することでしょ?

だいたいはこんな認識かと思います。しかし、この『書く人の教科書』ではそれぞれこのように定義されています。

【取材とは】
インタビューのことではない。1冊の本のように「世界を読む」ところからすべては始まる。

【執筆とは】
「書くこと」である以上に「考えること」。センスでなく思考のみが、達意の文章を生み出す。

【推敲とは】
原稿を二段も三段も高いところまで押し上げていく行為であり、己の限界との勝負である。

どうでしょうか。まるで険しく続く「ライター道」のような定義。

取材とは「世界を読む」こと。このことを説明するために、本書ではアイザック・ニュートンの有名な「木から落ちるリンゴを見て、万有引力の法則を思いついた」という事例が出てきます。

ニュートンの天才性をさして、アインシュタインはこう言ったそうです。

「ニュートンにとって自然は、開かれた本で、(彼は)そこに記された文字を苦もなく読めた」

そして「取材者としてのライターがめざす先も、ここにある」と古賀さんは説くのです。いきなり初っぱなから深い洞察が繰り出され、ずるずると「ライター論」に引きこまれ、もはや戻ってくることができません。

 ぼくはこれまで、さまざまな尊敬する書き手たちと出会い、ときに取材者として耳を傾け、多くのことを語り合ってきた。そこから確信を持って言えることが、ひとつある。
 すぐれた書き手たちはひとりの例外もなく、すぐれた取材者である。日常のなかに取材が溶け込んでいる。
(中略)
 たとえば清少納言の『枕草子』。あるいは吉田兼好の『徒然草』。日本の随筆を代表する両作を支えているのは、類い稀なる観察者(取材者)としての目だ。オンライン書店もなく、図書館もなく、活版印刷さえなかった時代に彼や彼女は、われわれよりはるかに精緻な目で「世界」という書物を読んでいた。それだからこそ、1000年を越える随筆が生まれた。彼らの残した随筆はある意味、「世界」という書物の読書感想文なのだ。

このように、本書では「取材の具体的なテクニック」が述べられているわけではなく(もちろんすぐに真似できる具体的なテクニックもたくさん解説されているが)、「取材とは何か?」「執筆とは何か?」「推敲とは何か?」ということをトコトンまで突き詰めて論考されています。

まさに副題の「書く人の教科書」なのです。

質問に詰まったら「つなぎことば」を使う

というように、かなりレイヤーの高い書物なのですが、一方で「さっそくこれは真似しよう」と思った取材テクニックがありました。

私も実際に著者さんを取材していて、たまに「うーん・・・ここはどういう角度で質問したら、面白い答えが返ってくるかな?」と悩むときがあります。

そんなときに使えるのが「接続詞」だそうです。

 人間の脳はありがたい設計になっていて、冒頭に接続詞を置いてしまえば、その続きを考えざるをえなくなるのだ。
 いちばんわかりやすいのは、接続詞の「でも」である。
 上司や先輩の忠告に対して、なんでも「でも、○○じゃないですか」「でも、わたしは○○だから」と返す人がいる。冒頭に「でも」を付けると――たとえでっちあげであっても――なんらかの反論が浮かぶのだ。
(中略)
 これを応用して、冒頭に「つまり」を置いてみたらどうなるだろう?
 たとえば、友人が仕事の愚痴をこぼしている場面。それを聴き、返すことばの冒頭に「つまり」を置いてみる。すると「つまり、○○ということ?」「つまり、お前は○○がしたいの?」などの質問が浮かんでくるだろう。愚痴に共感してみせるでもなく、意見したり、説教したりするでもなく、純粋に相手の思いを訊き出す質問が浮かんでくるはずだ。

なるほど。「でも」は駄々っ子みたいであまり使いたくないですが、「つまり」は質問を生み出す有効な接続詞というわけですね。

 実際の取材においては、要約や決めつけのニュアンスが混じる「つまり」よりも、「ということは」を考えるほうがいいだろう。
 相手の話を受けて、瞬時に「ということは」に続く問いを考える。
「ということは、○○でもあるわけですか?」
「ということは、今度○○をめざしていくのですか?」
「ということは、もともと○○じゃなかったのですね?」
「ということは、○○さんは仲間であり、ライバルでもあったのですね?」
「ということは、本心は違うのですね?」
 いずれも相手の話を引き継ぎ、発展させていく質問だ。
 ほかにも、「そうすると」「だとしたら」「とはいえ」「それにしても」「言い換えれば」「一方」「そうは言っても」「逆に言うと」など、いい質問につながっていく接続語はたくさんある。自分のなかに接続語(おもに接続詞)のストックをたくさん持ち、それぞれに続く問いを考え、瞬時に言語化できる訓練を重ねていこう。ここはもう、意識せずともそうなるまで、日々の習慣にしていくしかない。

いやぁ、勉強になります!

昨年11月から、編集部ではVoicyの公式チャンネル「フォレスト出版チャンネル|知恵の木を植えるラジオ」というのを始めていますが、ゲストを呼んでインタビューする回がけっこうあります。たまに質問者とゲストがかみ合わず、うまく盛り上がらない瞬間があります。そんなときにはこの接続詞を使って「質問力」を上げていこうと思います。

「ということは」
「そうすると」
「だとしたら」
「とはいえ」
「それにしても」
「言い換えれば」
「一方」
「そうは言っても」
「逆に言うと」

と、ここまでで、取材編の紹介に多くの字数を費やしてしまいました!

非常に濃いコンテンツゆえに、なかなか簡単にまとめることがむずかしいです。次の3つの発見プラスもっとも感銘を受けた話を最後にご紹介して、終わりにしたいと思います。

【なるほど!①】
取材とは「分母を増やすプロセス」であり、「書くこと」と「書かないこと」を選別しなければならない。しかし、先人から学べる素材は完成品であり、「なにを残し、なにを捨て、どうつなげたか」はブラックボックスでわからない。そこで、構成力を鍛える唯一のお手本は「絵本」である。

【なるほど!②】
章の構成は「百貨店の設計」で学べる。

【なるほど!③】
日本語は論理が弱く、レトリックが生まれにくい。その原因は「オノマトペの豊富さ」にあるのではないか。

100年後も読まれるための原稿づくりの秘訣とは?

「自分が書いた本が100年後も読まれていてほしい」
「自分が編集した書籍が100年後にも読まれていたら嬉しい」

こんな壮大な想いを抱く出版業界の人もちらほらいるかもしれません。

『嫌われる勇気』を書いた古賀さんも「100年後も読み継がれる本」を目指して執筆したそうです。で、そのときのマインドセットが面白いのです。

 2013年に上梓した『嫌われる勇気』の執筆にあたってぼくは、これをあらたな古典にしたいと考えた。笑われることを承知で言えば、100年後の読者にも読まれるような本にしたいと本気で考えた。
 具体的にどうしたか?
 100年前の読者をイメージしたのだ。100年前、つまり日本でいえば大正時代の読者が読んでも理解できるような、そしておもしろく感じてもらえるような本をイメージした。だからあの本には、コンピュータやインターネット、スマートフォンやソーシャルメディアなどの話はいっさい登場しない。どころか、テレビやラジオさえも登場しない。そうした小道具に頼らずとも説明できる、人間の根源的な悩みを探っていった。

「100年後」の読者に読んでほしいコンテンツをつくりたいなら、「100年前」の読者が読んでも楽しめる本にすればいい。いやー、この発想は大発明だと思いませんか? 私はすごい大発明だなぁと興奮しました。

100年後という時間もさることながら、さらには古賀さんは空間をも飛び越えようと画策しました。

 また、世界中の読者に読まれることを想定して、日本社会特有の悩みを取り上げなかった。受験や就活、儒教的な価値観など、日本の人生相談にありがちなテーマは、あえて避けた。ふつうであれば「日本では現在……」と表記するところも、「わが国では現在……」と慎重にことばを選んだ。偉人のたとえにもナポレオンやアレクサンドロス大王の名を選び、日本人の名前は出さなかった。その結果というわけではないものの、同書は現在、世界数十カ国で翻訳され、さまざなま言語で読まれている。普遍性を意識したコンテンツは、時間だけでなく、言語や国境の壁も越えていく可能性を――あくまでも可能性を――持ってくれるのだ。

すごい。世界でも読まれることを想定した原稿づくり。

実際に『嫌われる勇気』は2020年7月時点で、発行部数が国内228万部、韓国130万部超、台湾60万部超。世界累計で500万部のベストセラーとなっています。2013年初版の本なのに、昨年のベストセラーランキングTOP10にいまだに君臨しているモンスター級自己啓発書です。

というように、本書『取材・執筆・推敲――書く人の教科書』は『嫌われる勇気』の舞台裏としても楽しく読めます。

もちろん、古賀さんには『嫌われる勇気』以外にも手がけたベストセラーは多く、帯文によれば「編著書累計93冊、1100万部」とのこと。

ベストセラーの裏側には、七転八倒するライターさんの血のにじむような努力があるのだということがヒリヒリと伝わる。そんな本です。

すべてのライター、編集者は必読。盗める考え方がたっぷり。

最後に本の中で「おぉ!」と痺れた一文がありましたので、それを最後にご紹介します。

みずからの立ち位置において、実際に書くことをしない編集者はロマンチストであり、それを書くライターはリアリストであるべきだ。編集者とは無責任な大ボラ吹きであり、ライターは嘘を禁じられた人間だ。そんな両者が手を結ぶからこそ、いいコンテンツが生まれるのだと理解しよう。

(フォレスト出版編集部・寺崎翼)


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