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『ブルシット・ジョブ』を読むためにおさえておきたい『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

世界的ベストセラーで、7月末に発売予定のデヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)を楽しみにしている人は多いのではないでしょうか。
現在(2020-07-08)予約受け付け中のAmazonでは次のように紹介されています。

やりがいを感じないまま働く。ムダで無意味な仕事が増えていく。人の役に立つ仕事だけど給料が低い――それはすべてブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)のせいだった! 職場にひそむ精神的暴力や封建制・労働信仰を分析し、ブルシット・ジョブ蔓延のメカニズムを解明。仕事の「価値」を再考し、週一五時間労働の道筋をつける。『負債論』の著者による解放の書。

日本語版発売前にもかかわらず、英語版を読んだ日本人識者による解説がすでにネット上でいくつか紹介されており、興味をそそります。個人的には、共感できる部分や学びが多そうなので、ピケティの『21世紀の資本』のようなムーブメントになることを期待しています。


コロナ禍を経験したことで、社会にとって無くてはならないエッセンシャルワーカーへ、改めて感謝の念が生まれたという人は多いことでしょう。しかし、そうした仕事ほど報酬が低く、かつ社会の、そして人々のストレスのはけ口になる傾向がある一方、存在しなくても大して誰も困らないような仕事(クソみたいな仕事)ほど高給取りという社会――。そんなデタラメに対して問題提議しているのが、この『ブルシット・ジョブ』なのです。
ここに具体的なブルシット・ジョブの職種を書くことは控えておきます。十把一絡げで、特定の職種をブルシット・ジョブと呼ぶのはさすがに乱暴だと思うからです。それに、「そもそも、お前の仕事はどうなんだ?」と問われると、非常に強い居心地の悪さを感じてしまうのが正直なところです。ゴメンナサイ……。

さて、本書が問題定義しているテーマの1つが「労働からの解放」です。
なぜ、社会的に見ても大して意味もない、さらに本人でさえそれを自覚しているにもかかわらず、ブルシットジョブは減ることもなく、増え続けるのか?
そうした疑問を解く1つのカギとして、おそらく『ブルシット・ジョブ』でも引用されているであろう本がマックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。

昨年フォレスト出版から出版された北畑淳也『世界の思想書50冊から身近な疑問を解決する方法を探してみた』では、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』についても解説しています。上記の話題とは直接的には関係はないのですが、『ブルシット・ジョブ』を読むうえで参考になりそうな箇所を、一部抜粋・改編を加えて掲載します。
「労働」=「宗教」と考えると、ブルシット・ジョブがなくならないばかりか、それが増えていく理由が腑に落ちるかもしれません。私たちは、どんなブルシット・ジョブであっても、それにすがらないと生きていけない悲しい存在なのです。だからなのか、ブルシット・ジョブは、蔑まれるどころか、信仰の対象として過大に評価され、それに携わる者にとっては天職と実感する、価値の転倒が起きているのではないかと感じています。

●ヴェーバーが示した資本主義での成功の条件

 マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、資本主義世界で成功する条件について書いた本です。
 まずは、ヴェーバーが述べた資本主義で成功する条件を見ていきましょう。

近代的企業における資本所有や企業家についてみても、あるいはまた上層の熟練労働者層、とくに技術的あるいは商人的訓練のもとに教育された従業者たちについてみても、彼らがいちじるしくプロテスタント的色彩を帯びているという現象だ。

 ここで述べられているのは、プロテスタント的色彩を帯びている人間がどうも資本主義の社会で階級の上層にたくさんいるようだというのです。
 ではプロテスタントとはどういう宗教なのでしょうか。ヴェーバーによればキリスト教の一派の中でも、〈およそ考えうる限り家庭生活と公的生活の全体にわたっておそろしくきびしく、また厄介な規律を要求するもの〉に分類されるといいます。ただし、これだと漠然としていると感じるかもしれません。
 そこで、プロテスタントを理解する上では、何がこのような厳格な人格を生み出す後押しとなっているか考えなければなりません。
 この厳格な戒律を生活に組み込む実質的な媒介となったのが「労働」です。プロテスタントは労働を天から与えられたもの、つまり「天職」とみなす宗教だったのです。したがって、この宗派の中では神との関係性を保証できる「労働」に勤しむことがそのまま「信仰」になるわけです。だからこそ、この宗派では教会などは不要とされ、馬車馬(ソルジャー)のように働くことが奨励されるわけです。
 ここで資本主義とプロテスタントの接続が見えてくるでしょう。ヴェーバーは、〈資本主義世界では欲望に満ちた拝金主義的人間が頂点に立つ〉という認識を覆すものだと結論づけました。言い換えれば、本来であればそういう世界で敗北するはずの禁欲の精神を持った人間が成功していることがしばしばあるということを彼は述べているのです。

禁欲的で信仰に熱心であるということ、他方の資本主義的営利生活に携わるということと、この両者は決して対立するものなどではなくて、むしろ逆に、相互に内面的な親和関係にあると考えるべきではないか、と。

●プロテスタントが宗教に労働を取り込めた理由

 次に、今の話をより深く理解するために、どのような経緯でプロテスタントが労働を教義に取り込むことができたのかを考えます。
 ヴェーバーはその答えとしてプロテスタントがこれまでの宗教とは異なるものだったからだと考えます。具体的にどう違うかは、当時のプロテスタントが誕生した背景を見るとわかるようです。
 カルヴァンが現れる以前、欧州では布教家や教皇が民衆の信仰心を利用して金銭を徴収していました。高額な免罪符の販売は有名です。この宗教家たちの堕落した行いに対して、強烈な批判をしたのが(ルターと)プロテスタントを生み出したカルヴァンなのです。
 もちろん彼は批判をするだけに留まりません。彼は、〈合理的なキリスト教的禁欲と組織的な生活態度を修道院から牽き出して世俗の職業生活の中に持ち込〉むことでキリスト教を救おうとしたのです。
 しかし、宗教改革により生まれたプロテスタントにはある根本的な弱点がありました。それは、キリスト教を守ろうとする過程で禁欲の精神や生活態度だけを教義としたために、「神に対する懐疑」を解消するほうには向かわなかった点にあります。むしろ、自らが確信を持って生きられるように持ち込んだ「職業倫理」が、「神」のいた位置に取って代わることで神への信頼回復は不可能なものとなったのです。
 言い換えると〈むしろ職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され、救われているとの確信が与えられる〉状況をプロテスタントはつくり出したのです。
 こうしてひたすら労働に打ち込ませ、労働自体を目的とする人間が多く生まれることになりました。その結果といっては何ですが、禁欲の精神を持つプロテスタントが資本主義で成功者として現れたのです。
 禁欲的になって労働に打ち込むことで成功者になれる(救われる)という教えにならえというのが1つの答えだということです。

 そういった中で、最終的にヴェーバーは何を伝えたかったのでしょう?
 それは難しいところではありますが、ヴェーバーの生きた当時でいうところのプロテスタンティズムによる支配のように、自らが心地よいと思える「支配」にたどり着くため、いろいろな「支配」を経験してみることを勧めたかったのかもしれません。
 ともすれば、我々は「支配」からの解放を目指し、いかなる「権威」からも逃れ、何者にも支配されない状況というものを追いかけてしまいます。しかし、「超」のつく起業家にしても、何かしらの「権威」のもとで行動をしています。たとえば、松下幸之助や稲盛和夫といったカリスマ経営者の話に少々宗教ぽさを感じるのは、彼らもまた何かに「支配」される1人にすぎないことを示しています。
 今の話を裏付けるものとして、〈宗教改革が人間生活に対する教会の支配を排除したのではなくて、むしろ従来のとは別の形態による支配にかえただけだ〉と述べられています。
 繰り返しになりますが、人間はすべての支配から逃れることはできません。それゆえに、支配されるという前提のもと、心地の良いものを選び取るというのが現実的で良い選択ではないかということです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
以上、編集部の石黒でした。

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