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フードスコーレ不定期連載『食の未来仮説』#013 「良く」食べること、「良く」生きること(書き手:きしもとはるか)

お肉を食べると食べないの間に

少し前に動物を食べることについて勉強したくて、ピーター・シンガーの『動物の解放』を読んだ。これがものすごく私にとってはびっくりだった(良い意味で)。レイチェルカーソンの『沈黙の春』みたいに、ひどい現状が書き連ねてあって、読んだ後にうわーしんどいなってなる感じのを想像していたら全く違った。動物を利用することの議論はものすごく激しくて感情的なイメージが先行していたけど、彼の主張は至って冷静かつ論理的なものだった。

苦しむ能力を持つか否か。

それがその生き物の利益を考慮するか否かの唯一の妥当な判断基準であって、ヒトと同様に苦しむ能力がある動物は平等な配慮を受けなけばならない。配慮がないことは種差別であり、それを認めるならば性差別や人種差別も認めることになってしまう。
そんな感じのことがものすごく淡々と書かれていた。

私はお肉を食べる。環境や動物のことを考えて、どんなふうに作られたのかがわかる農家さんのものを買うこともあれば、若干の後ろめたさを感じつつも安く大量に作られたのであろうものを買うこともある。でも自分のことを比較的倫理的な消費者だと思っている。

私は種差別をしているのだろうか?それはつまり性差別や人種差別も認めているということなのか?
違う、そんなことない、と思いたかった。
でもシンガーの主張があまりにも論理的で反論の余地がないから、納得せざるを得ない、というのが正直な感想だった。

お肉を食べるのをやめたほうがいいんだろうか?
でも今まで出会ってきた農家さんみたいに愛情を込めて誇らしげにつくっているお肉を食べることが「良くない」ことだとはあんまり思えない。

動物倫理の話は思っていたよりもずっと複雑で、利用や殺すこと自体を認めない立場(アニマルライツ)から、利用や殺すことを否定はしないけどやむを得ずそうする場合はできるだけ苦痛を与えないようにすべきという立場(アニマルウェルフェア)まで、グラデーションがあった。食べるor食べないの二項対立ではなくて、全く食べないからなんでも食べるの間に、こういう飼い方をしたものは食べる、〇〇なら食べるみたいに幅があるということを知った。

放牧は「良い」のか?

動物を食べることをどう考えるか、については農学部に入ってすぐに興味を持った。

初めて畜産業というものを知った大学の牧場実習。
私は恥ずかしながらその時まで牛の搾乳は全部手でやるんだと思っていた。幼稚園とか小学校の遠足で牧場に行ってやった乳しぼりのイメージが強すぎた。
実際はミルカーという機械でシュポシュポと吸引するんだけど、掃除機みたいにけっこうな勢いだったから痛くないんかなーって見てた。でもパンパンに膨らんではちきれんばかりの乳房も痛そうだったから、それがだんだんしぼんでいくのを見てなんかほっとした。

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私は酪農に対して、牛乳パックにあるような、ひろーい緑の牧草地に白黒の牛がいて、しっぽをブンブンしてるような、そんなイメージを持っていた。でも実際は牛舎にいてつながれていて、自分の糞尿の上に座ってしまったのか、お尻に茶色く固まった物体がついていた。もともと想像していたものとのギャップが激しすぎてびっくりしたし、放牧したらいいじゃん、なんでしないんだろうって思った。でもいろいろ調べたり酪農家さんのお話を聞いて勉強するうちに、放牧=「良い」という自分の考えが偏っていて一面的だと思うようになった。

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一般的に牛舎にはつなぎとフリーストール(放し飼い)と放牧があって、日本だと約7割がつなぎで放牧はほぼないらしい。つなぎだと牛は歩けないけど、餌は自分の分をちゃんと確保できるし、農家さん的にも健康管理や搾乳は楽。フリーストールは自由に動き回れるけど、搾乳のところまで来なかったら無理やり連れて行かないといけなかったり、弱い牛は十分に餌が得られなかったりする。放牧は夏場なんかは日陰がなかったら体力消耗するし、虫が病気を媒介するかもしれないし、草だけだと乳量が少なくなる。

牛にとってはどんな飼われ方が一番「良い」のか。どれが「しあわせ」なのか。
人間にとってもいろんな形の「しあわせ」があるように牛もそうかもしれないし、何より牛じゃない私には考えたって答えは出ない。

動物倫理以外にも、健康や経営などいろんな観点からも考える必要がある。どの飼い方にもそれぞれの利点があって、一方で犠牲になってしまうものもある。両方成立するような方法がない限りは、選んだ先にある得るものと得ないものをちゃんと把握して、前に進むしかない。何を選ぶかは経営する農家さんの目指すところや、最終的に食べる私たち消費者の求めるものによって決まっていくんだと思う。

培養肉は「良い」のか?

最近、動物細胞を培養してラボで生産する培養肉が注目されてきている。培養肉は、今みたいにたくさんの動物を殺す必要がなくて、糞尿や牛のメタンガスなどの排出も少なくなって環境負荷を低減できるかもしれないという点では「良い」と思う反面、私たちは他の命を食べることで生きているということが今以上に見えづらくなってしまうかもしれない点では「良くない」と思っている。

多くの消費者は、自分の食べている物について、誰がどんなふうに作ったのかを知らないし、食べ物が命だという意識も薄れつつある。だからこそフードロスや動物倫理の問題、食料供給の役割や多面的機能をもつ農村の衰退や自給率の低下といった問題が生じている。培養肉によってこうした問題が助長されてしまうような気もして、受け入れることにはなんとなく抵抗がある。

私は、人間用には売れない農産物や食品残渣を飼料にして、糞尿を堆肥として畑に返す、みたいな地域の循環の一部となっている伝統的畜産を、「良い」もので重要なものだと思っている。一方で、動物倫理や環境が十分に考慮されていない、いわゆる工業的畜産は「良い」ものだと思っていない。でも、伝統的畜産だけでは需要を満たせず価格も高くなってしまうから、需要を満たして手頃な価格で提供できる点で、工業的畜産が「良い」ものだとも思う。培養肉が手頃な価格で提供できるようになるかはわかんないけど、工業的畜産を代替して伝統的畜産と共存するなら、今よりはベターな状況なのかもしれない。

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「良い」ってなんだ

食べることの倫理に関してはいろんな議論があるけれど、絶対的に正しいものというのは存在しないからすごくむずかしい。どこまでヒト以外の動物や自然や未来の世代に対して配慮すべきだと思うかは時代、地域、個々人によって変わるだろうし、いろんなものがトレードオフの中で、配慮しきれないものも出てくる。

正義の反対は悪じゃなくてもう一つの正義

何かの本で誰かが言ってた。何を「良い」とするかの違い。絶対的な正もなければ悪もない。それを分かったうえで対話して、分かり合おうと試みることが大事なのかなって思う。でも最終的に分かり合えないとしてもそれはそれでいいと思う。現実と理想のギャップが課題でその解決策を探すってプロセスで、各自の正義や倫理から生まれる理想の部分が違ったとしても、解決策が同じであれば一応前には進める。

このあたりのことを忘れずにこれからも考え続けていきたい。

『食の未来仮説』は、さまざまなシーンで活躍されている方たちが、いま食について思うことを寄稿していく、不定期連載のマガジンです。

今回の著者_
きしもとはるか
1996年生まれ。東京大学農学生命科学研究科農学国際専攻修士1年。途上国の貧困問題に食からアプローチしたいと勉強していく中で、フードロスへの関心が高まる。 フードロスも含めた様々な問題の根底には生産と消費の分断があり、農業を通して消費スタイルや暮らしをより良いものにしたいと考えるようになった。 大好きな農業で社会に貢献する人になれるように勉強中。


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