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フードスコーレ不定期連載『食の未来仮説』#012 食べるを通して気づいたこと(書き手:きしもとはるか)

コロナをきっかけに「食」の形が一瞬でも変わった人は多いと思う。家庭菜園をはじめたり、料理をするようになったり、家族と久しぶりに食卓を囲んだり。そういう変化はいろいろ気づくきっかけになる。特に食は身近で当たり前に繰り返してることだからこそ、意外と見逃していることや気づいてないことがたくさんある。

誰かとおいしいねーってやるのがしあわせ

コロナで外出自粛になってからしばらくの間、私は気分が沈みがちになる自分のために、いつもなら買わないおいしいものを買ったり作ったり、せっせと自分のご機嫌とりをしていた。油揚げからおいなりさん作って、ふわふわのホットケーキを焼いて、小さい時によくお母さんが作ってくれたブラウニーも焼いて、1人で食べきれないくらいの果物をちょっとずつつまんで、ってするうちに少しずつ毎日が過ぎていた。おいしかったし楽しかったけど、どこかさみしいというか虚しい気持ちがずっとあった。

私の家は4人兄弟でお母さんが専業主婦だったのもあって、いつも誰かしらと一緒にごはんを食べていて、大学で一人暮らしをするようになってから初めてごはんを1人で食べるようになった。それでも1週間に1回くらいは誰かとごはんを食べていたから、今回初めて毎日3食1人で食べるという生活を2ヶ月以上もした。虚しさはここからきていたらしかった。

オンラインで人と話しながら食べることはあったけど、それじゃだめらしい。おいしいねーとか、いいにおいだねーってしたかったみたい。誰かと食べるからおいしいし、楽しいし、しあわせだったんだなぁ。

そういえば私が食農の世界に興味を持ったのも、誰かと食べておいしいねーってやった経験からだった。国際協力がしたくて大学に入って、初めてカンボジアの農村に行った。最初はあちこちに虫とか怖そうな犬がうろうろしてるし、きれいじゃないし、日本帰りたいってなってたけど、唯一食事の時間は楽しかった。大皿から取り分けて同じもの食べて、言葉が通じなくてもおいしいねーってわいわいしてたのは今でもよく覚えている。

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買い物も料理もわかんないことだらけ

私は今でこそ農家さんや八百屋さんから旬のおいしい食材を買って料理を楽しんでいるけれど、大学生になるまでは買い物も料理もほとんどしたことがなかった。ごはんは食卓に出てくるものを特に何も考えずに食べてたし、お昼はずっと給食やお弁当で、コンビニとかお店で何かを買うこともほとんどなかった。だから、大学生で一人暮らしを初めて、まず何を買ったらいいのかもわからないし、何をどう料理すれば良いのかも全くわからなかった。食べるのは好きだけど作るのはなあ、って感じで最初はなかなか気が進まなかった。でも家でよく食べてた味が食べたかったし、中食・外食は高いからとりあえず自炊を始めた。

家の近くにはスーパーと八百屋さんがあって、いつもチラシや店頭で2つのお店の値段を見比べてた。相場がどのくらいとか、どういうのがおいしいとかよくわかんなかったから、とりあえず特売って書いてるお得そうなものを選んだ。いかに安く買うかってことが私にとっては楽しみだった。料理はレシピを見たりお母さんに聞きながらあれこれ作ったりもしていたけど、カレー、お好み焼き、お鍋にはだいぶお世話になった。

最初は自分でもびっくりするくらい知らないことだらけで難しくて、たくさん失敗もした(今でもする)。キャベツについてる白い粉が農薬だと思って捨ててたこともあるし、1/4カットのカボチャを常温で保存してカビちゃったこともあるし、夏場に味噌汁を出しっぱなしにしてて腐らせて全部さよならしたこともある。
他にも、安いことが唯一絶対的な基準だったから、単位あたりの値段が安くてお得って理由で牛乳は1L、卵は10個入りしか買いたくなくて、でも賞味期限は絶対的な存在&捨てるのは嫌だったから、期限間際は牛乳飲みすぎてしょっちゅうお腹壊したし、卵たっぷりオムレツばっか作ってた(今は必要な分だけ買うし、賞味期限過ぎてもある程度食べられることを知ったのでその都度判断して食べる)。

こんな感じで続けているうちにだんだん知ってできることが増えたし、野菜の値段は季節とか少し前の天気によって変わるんだなとか、料理してるとプラゴミたくさん出るなとか、いろんなことに気づいた。


自分の食べるものは自然と人とつながっている

そうやって気づいたことが、農学部での勉強や農村での体験と結びついてから、私の食は少しずつ変わっていった。自分の食べるものは自然や動物の命で、農家さんがつくって、運ぶ人がいて、販売する人がいて、いろんな人が関わって自分の元までやってくる。自分が買って作って食べるという行為は、そうやって関わるものとつながっていて、喜ばせることも苦しめることもできる。安い安いと喜んで買っていた自分が、誰かを搾取するとか、環境に大きな負荷をかけるとか、良くないことに加担していたかもしれないとハッとして、自分の食を考え直そうと思った。「良い」ものを買いたい、「良い」ものを食べたいと思うようになった。

でも、「良い」ものが何かっていうのは結構難しいし、どれがそうなのかわかんないものも多い。スーパーで食材とにらめっこする時間が増えた。食べものがどんなふうに作られて自分の元までくるのかを知るのは複雑で大変だけど、勉強しながらだんだん自分の中で選ぶ基準が広がっていった。日本の農家さんにお金を払いたい、フードマイレージの小さいものを買いたい、フェアに取引されたものを買いたい。産地、旬、栄養、有機、フェアトレード、MSC認証、アニマルウエルフェアとかいろんなことを考えるようになった。

そのあと、もっと知りたいなと思って、市民農園で野菜作りと、八百屋さんでアルバイトをした。そしたらまたいろんなことに気づいた。きゅうりはほんのちょっとでも収穫時期を逃すとめちゃくちゃ巨大化したし、トマトは大体割れちゃったし、かぶやルッコラはかなり青虫に食べられた。自分がいつも買っていたような形や大きさのそろったきれいなものを作るのはすごく大変らしいと知った。
「おいしい」も初めて知った。とれたての新鮮な野菜はそうじゃないのと比べて断然おいしいかった。時期や産地、品種っていう概念も手に入れた。トマトはトマト、みかんはみかんとしか思ったことがなかったのが、どこどこ産のこの時期のこの品種がおいしいなんて言うようになった。
初めましての食材にチャレンジするのもすごく楽しかった。夏でも白菜買ってお鍋するような、1年中同じ食材で同じものを食べていたただの作業みたいな生活が、旬というほんの短い期間に代わる代わるやってくるいろんな品種をその時だけ楽しむ生活になって、ものすごく食が豊かになったのを感じた。

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おわりに

食の外部化が進んで、自分で農産物を生産することも料理をすることも減ってくると、食べものが自然や命だってことも、自分のもとにくるまでにたくさんの人が関わっているっていうことも、いろんな楽しみがあることも、見えにくくなって、ひょっとすると忘れてしまう。だから、とにかく安いものや形がきれいなものをほしがったり、簡単に捨ててしまうみたいなことが起こるんじゃないかと思う。

コロナでの食の変化をきっかけに、ちょっとでも自分の食を考え直して、自分の食べるものが自然や人とつながっていることや、食べるのが楽しいんだってことに気づいたり思い出した人がいればいいなーって私は思う。

『食の未来仮説』は、さまざまなシーンで活躍されている方たちが、いま食について思うことを寄稿していく、不定期連載のマガジンです。

今回の著者_
きしもとはるか
1996年生まれ。東京大学農学生命科学研究科農学国際専攻修士1年。途上国の貧困問題に食からアプローチしたいと勉強していく中で、フードロスへの関心が高まる。 フードロスも含めた様々な問題の根底には生産と消費の分断があり、農業を通して消費スタイルや暮らしをより良いものにしたいと考えるようになった。 大好きな農業で社会に貢献する人になれるように勉強中。


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