「美味い」とはなんだろう。
僕たち料理人は「美味い」物を作るために日々勉強し腕を磨く。
多くの料理人は旬の食材やブランドものをどう調理するかを真剣に考える。
以前はフランス料理の古典的な影響からか美味しい食材に足し算でのアプローチによって更なる皿の上の進化を追求してきたが、
近年は素材そのものが持つ特性を活かし、あまり手をかけずに素材自体のポテンシャルを高めてあげるという料理人シフトしてきていると思う。
以前紹介した「VILLA AIDA」の本はまさにその先駆的な物だった。
それらは僕にとってとても面白く、いつまでも追求していきたい分野だが、今回話すのは
このような味を構成する成分や相性という話では無い。
美味しさで選んでいるのか
僕が思うに美味しいには二種類ある。
① 舌の上で感じる化学物質的な美味しさ
② その時々のお客様のニーズに当てはまることから来る空間的な美味しさ
今回話したいのは②で、プロの料理人として働いているのだから味の美味しい物を提供するのは当たり前で、なんらそこに市場価値も付加価値も存在しない。
そもそも僕たちは回転寿司から高級レストランに至るまで、その料理を心から求めて食べに行くという行為は一年にどのくらいあるのだろうか?
お金がかかるという面もあるだろうが、ほとんどの人はそんなに無いはずだ。
しかし、それがイコール外食に行っていないという事実に繋がるわけでは無い。
私たちは外食をよくしている。
それも「味」では無い所に重きを置く選び方によって
味以外で料理人が提供できる「おいしさ」とは
コロナ禍でZoom飲みが流行ってもすぐにその流行は消えていったように、いま多くの人が外食の楽しさをその料理の美味しさではなく「空間や環境」に本質を見出している。
料理人である僕でも、鳥貴族に行って仲間と飲むビールと焼き鳥は美味しいと思っている。
語弊がないように付け加えるが、鳥貴族は味も美味しいと思っている。
飲むビールも生か金麦か少しの違いはあれど楽しく食事している環境ではその細微な違いはどうでも良くなる。
ここ最近、「美味しさ」という言葉の持つ意味はより広く深くなってきたと思う。
旨味成分のグルタミン酸やイノシン酸から派生する味覚の美味しさだけではなく、
だれと、どこで、どのように食べるのかも美味しさの一部であるような気がする。
それに伴い多くの料理人がテイクアウトの波も借りて、イートインだけにこだわらずさまざまなシチュエーション下での食事を想定して営業方針の選択を迫られてきた。
ここ最近、料理人も「美味しさとは何か」わからなくなってきていると思う。
伝統的で普遍的な味の追求はいつまでも忘れないが、料理人とお客様の「美味しさ」の解離が激しくなっている気がする。
料理人は味のみを追求していてもダメな世の中になってきて、複合的にお客様にとってどのような空間価値を提供できるのかを、より考えなければならなくなった。
それはきっとSIO の鳥羽シェフが言う「幸せの分母を増やす」ということでもあると思う。
やっている事を「ライフイン」に
物を売る方法は二種類ある。
商品を自ら売り込みに行く方法と、その商品目当てにお客様が来てくれる方法だ。
ジャパネットは前者、マクドナルドは後者である。
どちらがいい悪いはないが、重要なのはこの方法は日々状況が変わる飲食業界では通用しないという事。
これからの飲食業界は「ライフイン」 つまり生活に寄り添った形を取らないといけないと思う。
それはコンビニに見える形でもある。
僕の家の近くにはローソンがあるが、僕は「ローソンのこの商品が欲しい」と思って足を運ぶわけでも、ローソンがわざわざ家に営業に来たからいっているわけでもない。
自分の生活圏内に存在していて文字通りコンビニエンスだからこそローソンは僕の生活の一部に慣れている。
料理もそれと同じで、味の追求は永遠のタスクだが存続していくためには消費者のインフラの一部になるほかないと思う。
「この料理ならここ!」や「インスタ映えするからココ!」というインフラ化
これは難しい事だけど、料理で舌をぶん殴るという単純な力勝負ではなく、
つい寄ってしまう。つい買ってしまう。
と言った商品自体のクオリティーよりも店主のキャラクターやその場の空間に価値を感じる方がこれからには合っている。
同時にそれは、料理人が舌で感じるおいしさではない「おいしさ」を伝えるという行動で
きっと今の世の中の本当のおいしさはそこにあるのだと思う。
美味しいものを気の合う仲間とリアルでたべる。
食べながら語り喜び笑い合う。
「イギリスは食べ物がまずい」と良く聞くが、イギリス人の方が日本人より美味しそうに食事を楽しんでいる。
本来僕たち料理人が提供しなければいけないのは、「食事」なのかもしれない。
料理人は料理だけではダメだ。
働きたい飲食店を目指して目標に進んでいます。