Body Feels EXIT 〜ネット的意識拡張から受肉までのトピックス〜♪
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アイコン、スノー、別垢、アバター受肉、ロボット、オートチューン、同一/差異性、クローン(臓器)、臓器提供、ファッション、義手義足義体、人称選択、ルッキズム、タトゥー、自傷、整形、性差別、性自認、LGBTQ+…etc。これら現代的なテーマの定義/再定義に関する共通点は、意識と身体の関係性という意味での私たちの”身体性”です。
現代(’21)はインターネットをはじめとしたIT技術が私たちの意識を空間的に時間的に、そしてその同一性を私たちの身体から拡張し続けています。
どこにいてもSNS上でコミュニケーションをとれ、動画や音楽を楽しめ、遠くのどこかに広がり繋がることは意識の空間的な拡張といえます。
その先にあるネット空間に記録され続けるアーカイブ情報は現在のものから数日、数年前のものまでを並列にアクセスでき、そのタイムシフト性は意識の時間的な拡張と言えます。そして複数のアカウントやアイコンを使い分けてのコミュニケーションは(自己)同一性の拡張と言えるだろうと思います。
意識の拡張技術によってここでは無いどこかに繋がれることは、”今(時間性)、ここ(空間性)、私(同一性)”、という身体的制約からの意識の解放を意味し、限られた身体よりも居心地の良いどこかへと私たちの意識を繋げてくれます。
…意識の密度
意識的な空間性、時間性、同一性の拡張がただ私たちの在り方の可能性を広げるだけなら何も問題はありませんが、コインに表裏があるようにその作用に伴う副作用もあるように思えます。
その一つは密度の問題です。
意識はその空間性、時間性、同一性が拡張されることで大きく広がり様々な可能性を獲得します。ですがその広がりに応じて意識の情報処理能力や記憶力などのキャパシティが自動的に増大する訳ではありません。
サブスクで何千万という曲をいつでもどこでも聴けたとしても複数の曲を同時に聴くことは難しく、意識を同時に複数の場所に集中させることが難しいことは、私たちの意識の容量と処理能力の有限性を示しているように思います。
もしそうであれば意識の可能性の拡張はその散逸でもあり、結果としてその密度を薄めることを意味するのかもしれません。
”意識”の密度が薄まることは、意識が認識する”世界”の密度が薄まることであり、結果として意識による世界の”経験”の密度が薄まることでもあります。私たちの”意識、意識的な世界、意識的な経験”はその広がりが増すほどにその密度が希薄になるのかもしれません。
…ズレと不協和
では”意識の密度が薄まることに何か具体的な問題はあるのでしょうか。考えられることの一つは私たちの”意識の拡張”と”身体の拡張”にズレがあることです。そのズレの原因は身体と意識の拡張技術の発展速度の差です。’21現在ではまだ意識を拡張する技術が身体を拡張する技術を大きく先行しており、そのために私たちの身体は依然として空間的な”ここ”、時間的な”今”、同一的な”私”に未拡張なままに限定されており、その限定故にその”身体、身体的世界、身体的経験”は狭く、しかしその密度は濃いままにあります。
私たちの身体的な空間性、時間性、そして同一性の持つ密度の高さと、拡張された意識の密度の低さ、この違いは私たちの意識と身体のズレ、違和、不協和、あるいは乖離を生む可能性を孕んでいるかも知れません。
とはいえ意識と身体のズレや乖離が、必ずしも悪いことなのかはまだ分かりません。そこには新しい環境における意識と身体のバランスの可能性があるのかもしれません。
…耐え難き身体
私たちは日常生活でイヤホンを耳に入れ、頻繁にスマホを見てここでは無いどこか、今では無いいつか、自分では無い誰かへとその意識を拡張しています。
ですが”身体”は古傷がズキリと痛むように、日常生活の中で唐突に私たちの意識にその存在を思い出させます。
パソコンやスマホの電源が切れた時、その黒い液晶画面に反射する自分の姿は、未拡張の身体の持つその”今性”、”ここ性”、”私性”そしてそれらに紐づいた身体的な現実の持つ密度の濃さ、重さ、エグさを突きつけます。ネット空間で希釈され軽くなった私たちの意識は徐々にそれに耐えられなくなりつつあるように思えます。
未拡張の身体から逃れるために拡張空間に没頭しても、ふとした瞬間に”身体”が象徴する”今、ここ、私”は現れ、映画マトリックスのように常時完全接続でネット空間の現実に生きるということでもしない限り、それから逃れきることはできないだろうと思います。(とは言え、将来的にそれが実現されたとしても、そこには新しい身体と意識の問題はあるとは思いますが・・・。)
その”身体”の象徴する”今、ここ、私”、というのは、別の言い方をすればふとした瞬間に我に帰る、あるいは夢中になって我を忘れるという時の”我”です。
“我”とは身体によって与えられる”今性、ここ性、私性”の総体とも言えるのかも知れません。
現代的な生活環境での心身のバランスは、意識と身体の密度の差をある程度の範囲に抑え、それらの乖離やズレを防ぐことなく保てるものでは無いのかも知れません。
少なくとも現在の意識と身体の拡張技術の段階においては、意識と身体の調和、あるいはその折り合い
に必要なのは意識の無節操な拡張ではなく、”今性、ここ性、私性”、としての身体、そしてその総体としての”我”に対峙し何らかの折り合いをつけながら、その新しい関係性を見つけることなのかも知れません。
そう考えるとネットやSNS依存における心身の疲弊は、意識の拡張と未拡張の身体のズレにあるのかもしれません。
…整える形
物理的身体が象徴する”今、ここ、私”としての”我”に、拡張された意識が折り合いをつけるということが具体的にどう達成されるかは明白なことではないだろうと思います。
意識を拡張して居心地の良い場所に向かい、その空間性、時間性、同一性の可能性を広げて意識の密度が希釈され散逸することを、身体性からの退却としたとき、例えばライザップなどの肉体改造、あるいは美容整形は身体性からの退却なのか、あるいは身体に対峙することなのかは微妙なところです。
受け入れ難い身体を、受け入れ難いままに受け入れることを身体性との折り合いとすべきなのか。あるいは自分が受け入れられるように身体を作り変えることを折り合いとみなすべきなのでしょうか。
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整形を例に考えてみると、主にその目的は社会や他者とのより優位な関係を期待したものである場合と、自分自身を肯定し受け入れるためにする場合とがあるように思います。
一つめの他者とのより良い関係はざっくり言えばモテる為にすることで、一番シンプルで理解しやすい動機かも知れません。ここでの身体は他者が自分を認識するための印としての身体であり、アバター/アイコンとしての身体です。アバター/アイコンとしての身体は、意識によって選択される身体であり、選択も変更も意識の意向を反映します。
二つ目の自分を受け入れる為、というのは少し複雑でその状況も人それぞれです。例えば戦争や事故によって自らの身体を損傷し、自認できる容姿と実際が大きくズレてしまった時に整形によって自認できる容姿に近づけるというものもあれば、幼いころから自分の容姿にコンプレックスを持っていてそのために自分を好きになれず、嫌いでさえあった人が、自身を肯定し好きになるために、あるいはせめて嫌いではなくなるためにする場合もあるだろうと思います。
あるいは自分に不満は無いが、より強い自己肯定感の為にさらに良くなりたいという理由もあるかも知れません。
身体と意識(自認、理想、劣等感etc)のズレに耐えられないという感覚を解消するためになされる整形は、自分(の身体)と自分(の意識)の関係改善のためのものであり、モテる為という他者を意識した動機とは性質の違うものだろうと思います。
ですが実際はそれらの混合的な理由であることもありえ、自己肯定の為とは言っても、それは完全に他者の目を意識していないとは言えないようにも思えます。
…象徴とコンプレックス
いずれにしろ問題はその動機の良し悪しではなく、身体性の象徴する”今、ここ、私”、という”我”に対峙し未拡張の身体と散逸する意識に関係性を作るという観点から見た時には、これらのケースはそれぞれどういう意味を持ちうるのかということです。
それが逃げることなのか、対峙し向き合うことなのかは、同じ行為であっても人により異なり、その違いは本人の受け止め方次第なのかも知れません。
あるいはそれは当の本人にとっても明白なことでは無いのかも知れません。
例えば自分の”目”の形が物心ついた時から嫌いで、そのせいで鏡を見ることや、自分を見ることが嫌いになり、人生の様々な失敗もそれが理由と感じるほどのコンプレックスがある人が、整形によってそれを解消できるかは確実なことではありません。
もしかするとじぶんを肯定出来ない理由は他にあり、しかしそれがどうしようもないことであったり、あるいはそれが問題なのだと自覚すること自体が困難なことだった場合に、これさえ無ければと思える対象が必要となり、その困難の象徴としての”目”であった場合には、目の整形の後にはまた別のところが気になり、その後にはまた別のところがという風に、自分自身の抱える問題の象徴としてのコンプレックスはその根本を対処しない限りは、その個別の症状的な問題を解決しても次から次に新しいコンプレックスが現れるだけの可能性もあります。
あるいはそのコンプレックスがメディアや社会的常識などの外的要因によって外部から与えられたものだとした場合は、そのコンプレックスを克服してより良い状態に向かうことはむしろ本来の我性から遠ざかることかもしれません。
限られた特定の部分に悪しきものを象徴させ、それによってそれ以外の部分の善良さを確保するという態度は、人間は様々な状況で行います。
それは現実に確かに存在する悪しきものと、自身を含めた善良なるものの存在を矛盾なく世界を説明するための思考と行為の態度と言えるだろうと思います。
社会的規模で言えば特定の人種や宗教などへの差別、小規模集団で言えばイジメといったものであり、この習性は時代や場所を問わずあらゆる規模の人間社会で見られることで、それは人間の基本的生態なのかも知れません。故にそれは個人の内面においても同様の現象が起こり得るだろうと思います。
それが上記で挙げた例のような自分の困難や不幸の理由づけ、あるいは辻褄あわせとしてのコンプレックスであり、それは自らの困難の原因を特定の部分に帰することで、その部分以外の善良さの確保と精神の安定を図るものなのかも知れません。
このことは差別者やいじめの加害者が悪意や意識的にその理由を理解して行うことが稀なように、個人の内面の問題においても無意識的になされる可能性は大いにあります。むしろ無意識的でなくては善良なるものの善良さを確保することはできないだろうと思います。
しかしもちろん、本当に特定の具体的なコンプレックスが原因で自分のことを肯定できない無い人もいる可能性も十分あるため、それは全ての人に対して断定することはできないだろうと思います。
…身体でも意識でもないもの
意識が身体に対峙し、”今、ここ、私”としての”我性”に折り合いをつけることの必要は、拡張される意識と未拡張の身体の密度の調和と調整にあるとした時、それを具体的にどう行えば良いかは難しい問題です。意識の拡張に制限をかけてその密度の薄まりを抑え、一方身体の拡張を加速することで身体の密度を薄め、双方から歩み寄りを図ることが答えなのでしょうか?
仮に将来的に身体の拡張技術も意識の拡張技術と同程度に発展した状況を考えてみると、その時は意識も身体もその密度は薄まり、かつての濃さ、エグさ、重さなどが希釈して軽くなった場合には問題は起きないのでしょうか?
密度の差によるズレや不協和は起こらないかも知れませんが、それが本当に人間の構造という観点から見て良好な状態なのかはわかりません。
人間の”自己”を構成する要素がもし意識と身体だけなのだとしたら、何も問題は無いのかも知れません。
ですが、身体と意識がともに拡張技術によって大きくその可能性を広げられ、その結果人間が意識的にも身体的にもその存在のあり方の可能性を拡張させることで”交換可能性”を獲得し、かつて未拡張の時にはその限定性故に与えられていた”一回性”を手放した後、そこにいるものを人間とみなすことは妥当なのでしょうか?
”魂”のような神秘主義的なものを言うわけではありませんが、意識でも身体でも無い何か、昔の人々が”魂”と言う言葉で言い表そうとしていた”21グラム”の何か。そんなものがありうるかも知れないと感じる程度には、人をその意識と身体だけで説明してしまうことには違和を感じます。
ここで”意識”と言う言葉で指すのは広い意味で理性や感情など自覚、認識可能な自己の内面的振る舞いの全体です。そう考えるとわざわざ”魂”の問題を持ち出さなくても、まずは人間の意識と身体が拡張されたときそれと同様に人間の無意識や潜在意識も拡張されるのかと言う疑問が起こります。
それはどちらの可能性もあるように思えます。身体と意識が空間的、時間的、そしてその同一性を拡張すれば、それに伴い人の無意識(精神のうちの自我によっては認識できない領域)も自動的に拡張されるかも知れませんし、あるいは人間の無意識が個人の意識や身体とは異なる、集合的無意識のような独立のメカニズムを持っている場合には、未拡張のまま残されるのかも知れません。ですが今はまだその検討もつきません。
…密度のバランスと受肉的不可能性
可能性という言葉に私たちはポジティブなイメージを持ちがちですが、全方向に開かれた可能性とは無存在です。実在はそれ以外の可能性を断ち切った時に獲得されるものであり、不可能性の獲得は実在の必要条件です。意識の密度の再獲得もまた、散逸し可能性を広げる意識が不可能性を獲得することによってしかなし得ないかも知れません。
バ美肉と呼ばれるバーチャルなアバター的身体をネット空間で獲得して活動することは、生まれ持った物理的な身体の持つ空間性、時間性、同一性という不可能性の代わりに、意識的に自らが望むバーチャルでの不可能性の選択と言えるだろうと思います。その意味ではバ美肉文化は、意識の拡張による散逸を留め、身体と意識の密度のバランスを保つ手段の一つと考えることができるのかも知れません。
…誰として
拡張された意識が身体の象徴する”我性”に折り合いを付ける、あるいは回帰するということの本当の意味は、もしかすると今性、ここ性、私性としての我性に向き合い、自身の内的事象である同一性やプライド、コンプレックスなどに何らかの解を見つけるということでは”無い”のかも知れません。
それどころか自身の内面に向かうことでさえなく、それはただ”今、ここ、私”として世界に対峙するということなのかも知れません。
拡張された意識で世界に対峙することと、身体性の象徴する今性、ここ性、私性という”我”として世界に向かうことには大きな違いがあります。
それは”誰として”世界に向かうかの違いです。拡張された意識においても人は世界に向かうことが可能ですが、しかしそれはここではないどこかで、今では無いいつかに、私では無い誰かとして世界に対峙することです。
それに対し”我”として世界に対峙するということは、身体性によって規定された”今に、ここで、私として”世界に対峙することを意味するのかも知れません。
我性に回帰することの意味は内観によって自らの内的事象にとらわれることではなく、むしろ我を忘れ、プライドを忘れ、コンプレックスを忘れ、そしてそれによって”我として”その意識を外的世界に向けることであり、その時に自身の内的問題にいずれかの答えを与える必要などはなく、それらの未解決の問題を抱えたままの我として世界に向かい、自らの内的事象を肯定も否定もする必要さえなく、ただ我として世界に対する、それだけなのかも知れません。
…身体の軽さと意識の重さ
果たして身体性とは何なのでしょうか。
おそらく現代社会の人々にとっては、身体は意識に準ずるものであるという考えが大半かも知れません。日常生活では身体よりも意識の方が優先されるものであるということを特に考えることはないかも知れませんが、例えば性同一性障害の人が自分の身体の性と精神の性を適合させるために、身体の性を変えたいという考えへの理解は深まっているように思えます。おそらくそれに対して、身体の性に精神の性を合わせろという主張の方が少ないのではないでしょうか。
現代社会においては意識は身体に優先するという方が民主的で進歩的、そして自由な考えと捉えられているのかも知れません。
意識が身体に優先するという考えは、身体は意識の入れ物であり、もし不具合があるなら直すか、変更すれば良いという考えと親和性が高いのかもしれません。身体を意識が他者や社会につながる為の手段であると考えるなら、身体は確かに意識の為の道具であり、他者が”私”を認識する為の目印です。
おそらく現代ではこの”アバター/アイコン的身体”に違和感を覚える人の方が少ないだろうと思います。
現代社会の技術環境ではそれが自然の成り行きなのだろうと思います。物理的身体の司る物理的生活、立つ、歩く、掴む、持つ、走る、触る、食べる、飲む、排泄する、眠る、性行為、出産、などは部分的にですが技術によって徐々に置換されつつあり、一方意識はその技術によって拡張されつつあります。現在の技術の発展は物理的身体の比重を軽くし、意識の比重を重くする方向にあるように思えます。
なぜ技術発展が身体においては置換となり、意識においてはその拡張となるのでしょうか。
例えば仕事や趣味で特定の道具を使う時など、相当な練習と時間をかけてその扱いに馴染み、何も考えずにそれを使うことが可能になるに至ってようやくそれは外部装置としての道具から、身体の一部/拡張となることができるのだと思います。
一方意識の空間性、時間性、同一性を拡張させる技術はそれを考えずに使いこなす為の障壁が格段に低く、容易に意識の拡張につながるように思えます。
例えば意識拡張技術の典型はインターネットですが、私たちは様々な動画サービス、SNS、アーカイブを利用するという認識はありますが、その結果としていつの間にか引き伸ばされ、拡張されている自らの意識には特に注意を払うことはありません。意識は何の抵抗もなく自然にいつの間にか拡張されてしまいます。
もしかするとそれこそが意識の持っている性質なのかも知れません。非物理的で、無形の意識は明確な境界線を持たず、流動的に振る舞い、インターネットなどの技術的拡張以外でも、個人の身体的成長、所属集団の変容、トラウマ的事象など様々な影響で変化し、拡大、縮小するものなのかも知れません。
そう考えると身体の拡張しづらさは、その重さ、抵抗、摩擦、接触、反発、などの物理的な頑なさに由来し、それが身体の特性と言えるのかも知れません。
…同一性に関するトピックス
厳密なことを言えば、おそらく物理的な宇宙空間のあらゆる時間と空間の座標に完全に同一の状態は存在しないだろうと思います。あるものがある状態であることは、それ以外の存在との関係性において成立するため、例えば10分前から目の前にあるコップが、10分前と同一であるためにはそのコップの状態だけではなく、その周囲の状態も同一でなければなりません。この流動し続ける宇宙の中で、銀河系の中心を秒速240kmで回転する太陽系において、あるものが完全な同一的状態を保つということはあり得ないだろうと思います。同一性というものはいかなる形式においても物理的に”存在”するものではないのかもしれません。
ですがそれでもなお私たちは同一性を明確に感じることができます。家族や長年の友人が同じ人物だと感じ、使い慣れた道具に愛着を持ち、懐かしい好きな、あるいは嫌いな場所があります。
だとすれば同一性とは存在はせずとも感じるものであり、同一性は感受性の問題なのかもしれません。私がある対象に同一性を感じるのならば、私にとってそれは同一性を有し、そうでなければそこに同一性は無く、そこにはそれ以上の証明も反駁の余地もないように思います。そう考えると同一性の問題はクオリア的問題に属するのかもしれません。
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SF映画や小説などで使われる設定で、私たちが生きているこの世界は誰かが作った仮想現実であるというものがあります。マトリックスシリーズはその典型例です。そのようなSF的文脈とは少し違いますが、その視点はある意味では私たちが世界を認識する仕方を言い当てているとも言えると思います。
例えばものを見るということを考えると、私たちが一度に焦点を合わせて集中して観察し、それが何かを理解することのできる範囲というのは非常に狭いもので、私たちは自分の周囲の状態さえ一度に見ることはできません。それでも私たちは自分がいる場所がどんな場所かを認識しています。
それは私たちが自分の周囲の様々な部分を五感を使って常に感覚しながら、その情報を脳内の仮想空間にマッピングして自分の周囲の状況を模した空間を脳内に構築し、その仮想空間を認識して経験しているからと言えます。この仮想空間は非常に高い頻度で更新され続けているので、私たちはまるで現実の物理的空間を直接経験しているように感じることができますが、厳密には非常に早い速度で更新され続ける超短期記憶によって構築される仮想記憶空間を私たちは生きていると言えるのだろうと思います。
これは例えるなら真っ暗な部屋で懐中電灯で照らされる狭い範囲だけを見て、部屋全体を理解するようなものです。私たちが見るもの全ては直接のリアルタイムの経験ではなく記憶された世界であり、私たちは世界を見ているのではなく、思い出していると言ったほうが正確かもしれません。
私たちが世界を直接認識することはできず、五感から得られる情報を脳が解釈し、脳内の仮想空間にマッピングした世界を認識して経験しているという見方から言えば、同一性は感受性の問題であるということも少し意味が変わります。
私たちが見て触って確かめることができると感じるあらゆるものが仮想の存在であり、それを認識すると”感じる”以上の何物でもないならば、同一性が感受性の問題に過ぎないということの存在的脆弱さは相殺されるように思えます。それは他のあらゆる確かなようなものもまた、仮想空間にマッピングされた仮想の存在でしかないからです。
その意味では私たちが認識する仮想空間の中には、同一性は存在すると言えるのかもしれません。
私が私であること、その身体性と意識性を考えるとき、”同一性”は避けて通れないテーマだろうと思いますが、それがクオリア的問題に属するとなると、なかなかに厄介で面白い問題なのかもしれません。
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意識/身体、重さ/軽さ。これらのことを考えていて、その途中からある本のタイトルがずっと思い浮かんでいました。ミラン・クンデラが1989年に発表した”存在の耐えられない軽さ”です。
私たちが耐えられないのは密度を失い散逸する意識の軽さなのか、未拡張の身体の重さなのか、あるいは異なる密度の意識と身体を持った”我”のアンバランスさなのか。
そんなことが気になります。
Body Feels EXIT 2 - 傷メタフィジカル・エトセトラ https://note.com/folly12345/n/n4a42f079b8f7
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