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十字架の釘にキスして



『わたしは日々、死んでいます』

  第一コリントの手紙15:31

『わたしはキリストと共に、
十字架につけられています。
生きているのは、
もはやわたしではありません』
ガラテアの手紙2:20




 トン、トン、トン、と音がする。思っていたよりも穏やかに、やわらかな調子で、釘が打ち込まれていく。わたしの魂に、あのかたの手で。

 初めの衝撃はもう去って、いまは疼痛のように、ただ釘の打ち込まれた点が痛むだけ。それでもイタイ、イタイと意識しだせば、どんどん痛くなってくる。

 でも、もう慣れてきたのかもしれない。じぶんを哀れみたい誘惑に勝ちさえすれば、意外とたやすく、わたしはこの痛みを甘美なものにできる。十字架に付けられること、殺されることの効能を、もう経験で知っているからだろうか。

 あのかたが望むのは、この肉体が滅ぶことではない。あのかたが望むのは、わたしの内なるひと。わたしが衰えて、あのかたが栄えること。

 いつのことだったか、わたしは呟いた。もう死んでしまいたい、と。すると即座に、あのかたがおっしゃった。

 「死になさい、そうすればわたしが生きるから」

 いま、こうしてわたしは十字架に付けられている。亡くなった祖母譲りの、やせっぽっちな白い腕に、釘を打ち込まれる感覚がしている。いや、これは目に見えないわたしの身体だ。

 殺されながら、思った。こんどこそ、わたしを根絶やしにしてくださればいいのに。なんどもなんども、さざ波のように押し寄せる痛みには、なんだか感覚が狂ってしまう。いっそ富士山に登るみたいに、上りと下りがはっきりしてくれたらいいのに、と思う。富士山に登ったことはないけれど。

 これは訓練なのだ。この不安定な状態が、わたしを成熟させる。なにに頼るでもなく、ただあのかただけを頼るようにと、実践で教えられているのだ。

 釘を打たれている瞬間は、痛みのことしか頭にない。ただ、殺されていく感覚だけが、わたしを占めている。

 けれども、とわたしは大文字で書きたい。わたしは気付いたのだ。キリストと一緒に十字架を苦しむことは、その復活を共にすることでもあるのだと。死んだわたしのなかに、キリストが生まれ変わるために、わたしは十字架にかけられているのだと。

 ですからわたしは、この釘にキスしたいとさえ思う。すべては、あのかたの計らい。さざ波のような痛みであれ、まっすぐに下っていく深い峡谷であれ。いとおしい、とさえ思う。それもすべて、わたしが絶えて、あのかたが生まれるためだと分かっているから。

 

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