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もう半分の痛み ―アレクシエーヴィチを読みながら―



子どもを上手く寝かしつけられなくて、
何も書けない日が続いている。
この記事は、下書きに眠っていた。
去年の夏に書いたらしい。
なんで投稿しなかったかは、
もう覚えていない。
三冊目のアレクシェーヴィチである、
「チェルノブイリの祈り」を
まだ最後まで読みおわっていなかったなあ、
と罪悪感を覚えながら。




 わたしは痛みを知らないらしい。

 十代の頃のこと、毎年夏を過ごしたアメリカの教会に、介護を必要とする、ひとりの高齢のおばあちゃんがいた。彼女が淋しくならないように、いつも教会の誰かしらが、その家を訪問することになっていた。

 ある長い夏の日、玄関先に風鈴とブランコが揺れる、白い壁に緑の屋根をのせたトレーラーハウスを訪れると、おばあちゃんの意識は朦朧としていた。わたしの顔を見て、「フィリピーノ?」と聞く。いつの戦争だろうか、そこには何かはっきりとしない、悪しき記憶がまとわっているらしかった。「いいえ、ジャパニーズです」とぼそぼそ答えて、わたしは後ろに下がった。何だか怖かった。

 パールハーバー、オキュパイドジャパン、ジャップ、そう言った記憶が、まだぬるりとした感触を持って、深南部の田舎には残っていた。なにも知らない十代のわたしには、今と過去とが混乱して、積み重なった痛みの地層がひっくり返されたようなおばあちゃんは、恐ろしくてならなかった。

 逃げるように帰ってくると、ホームステイ先のお母さんに言われた、「痛みを知っているひとじゃないと、痛んでいるひとに寄り添えないものね」。そのとき言われた言葉を、そのときのわたしは、愚かしくも肯定的に捉えた。わたしは恵まれた環境で育ったのだと。



 もう半分の世界で起きていることに、目を閉じて、心を鈍らせて、見えないし、聞こえない、と言ってしまうことが怖い。「□□県で集中豪雨が起こり」「▲▲▲がロケットで攻撃され、三人が死亡」「○○で何人が殺された」という言葉を、遠い出来事のように、無関心に、スワイプして過ぎていくことに対して、自責を感じる。

 自分を罰しようとでも思うのか、いや、そうではなく、ただ考えてみたいのだ。いまわたしは、もう半分の世界のことばかり読んでいる。「亜鉛の少年」スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、これは「戦争は女の顔をしていない」の作者。アフガン戦争の帰還兵やその母の証言を集めた本。

 『国民は虐げられた貧乏のどん底にいる。つい最近まで偉大な国だったのに。もしかしたらそうじゃなかったのかもしれないけれど、でもロケットや戦車や原子爆弾がたくさんあるから偉大な大国だと思ってた。それで世界一の、最も公正な国に住んでいると思ってた。それをあんたは、俺たちが住んでいたのは違う国だっていう―恐ろしい、血塗られた国だって。そんなこと言ったら誰だってあんたを赦さないに決まってる。あんたはいちばん痛いところを衝いたんだ。いちばん根深いところを……』

 これは作者アレクシエーヴィチが、この本のために訴えられた裁判の席で、傍聴席から聞こえてきた言葉。ソ連が崩壊した数年後、ベラルーシのミンスクで。

 アフガニスタンに行った兵士たちは、国際友好のため、木を植えて、保育園を建てに行くのだと聞かされていた、人々を解放しに行くのだと。しかし現実は―。

 同じことが、いまもう半分の世界で起こっているではないか。けれど何が正しいというのか。帰還兵に石を投げることか、自衛隊員をおぞましげな目で眺めることか、権力を憎むことか、もう半分の世界から目を反らすことか。

 上手く言い表せなどしないし、考えもまとまらない。けれど本を読みながら、わたしはもっと高次な真理を求めて呻いている。この世界のすべてに打ち負かされないための、心を壊されないための方法が、なにかあるはずだと。

 *

 次のアレクシエーヴィチは、「セカンドハンドの時代 -赤い国を生きた人びと-」にしようと決めていた。ソ連時代を生きたひとびとの聞書き。帯にはこう書いてある。

 「思想もことばもすべてが他人のお下がり、なにか昨日のもの、だれかのお古のよう。わたしたちはセカンドハンドの時代を生きているのか」

 なによりも恐ろしいこと。最初の数ページを読んで、セカンドハンドの時代とは現在のロシアを指すのだと分かってしまったこと。ソ連の頃は、物資が足りなかったからみんながお古を着ていた、なんて単純な話なはずがなかった、これはアレクシエーヴィチだもの。

 それでも彼らは理想を追っていた。「社会主義を建設するのだ」と。それはお腹を満たしてはくれない、空虚な理想だったけれど、しかし比較的高邁で、精神的ではあった。けれど彼らの列車は脱線してしまった。代行の列車が向かうのは、物質主義、消費社会、ミンシュ主義。まるで背教者バックスライダーみたいな。

 結局、絶対的なものなんて、誰もきちんと読んでいないマルクスやレーニンにも、共産党にも、アメリカにも、ジーンズやラジカセにも、オリガルヒの生活にも、どこにもなかったのだ。

 (こないだ読んだ小咄、 「マルクスを読んだひとは共産主義者、マルクスを理解したひとは反共産主義者」)

 色々な人生について読みながら、いつも絶対的なものについて考える。どう生きれば安全なのだろう、どこに安心があるのか、わたしが彼らみたいな目に会わないためには。子どもの頃からそんな読み方ばかりしていたので、大して踏み外すこともなく、親孝行な生き方をしてきた。

 目に見えないものに目を注ぐことを、最近よく考えている。物質や思想の先にあるもの。この世界に満ち溢れた悲劇の先にあるもの。わたしはひとつの名前を知っていて、そこに存在の錨を見いだしている。アフガニスタンの兵隊のはなしを読みながら、ソ連の思い出を、粛清やホロドモールの思い出を読みながら、その名前のことを思っていた。

 ひとがもう半分の世界を閉じたがるのは、すべてを感じていては身がもたないからかもしれない。人間にはすべての痛みを処理できない。ともかくわたしには出来ない。わたしはどこかで閉じてしまう。わたしにはまだ理解出来ない事柄がある。まだ三十にならないわたしには、すべてを包み込むように共感することが出来ない。

 *

 その名前。もうずっと昔、ノースカロライナ州の山奥にある、友だちのお祖母ちゃんの家で、古雑誌のなかにある記事を見つけた。そこに書かれていたのは、ソヴィエトが崩壊して、宣教師がロシアに入っていったこと、人びとがキリストに出会って、洗礼を受けたこと。コピーまでしてもらったのに、英語を読むのが面倒で、いまだにちゃんと読んでいない。レーニン像と一緒に写るクリスチャンたちの白黒写真を、おぼろに覚えているだけだ。

 ずっと世界地図に挟んでいた、その記事をさっき読み直してみた。1991年の冬にソヴィエト入りした宣教師は、そこで地下教会の牧師に出会った。二十五年もシベリアの牢獄に繋がれていたお祖父さん。老牧師は宣教師を地下教会へ連れていく。彼らが集うのは、森や山、毛布で窓を覆った深夜の家のなか。牢獄や収容所で拷問を受け、死に至った仲間たちのこと。KGBに殺された他の牧師のこと。

 迫害のなかで、信仰は育つらしい。以前読んだルーマニア人牧師の話を思い出す。やはり共産主義のもとで、クリスチャンとして生きたひと。物質的に豊かで、身の安全も保証されているわたしたちには想像も及ばない環境で、彼らは価値観のパラダイムシフトを遂げていた。目に見えない目的を見つめて生きること。「神の国を生きること」それは表皮だけの宗教ではなくて、存在のすべてをひっくり返されるようなこと。

 ソ連が崩壊したあと、彼の地ではリバイバルが起こったという。聖霊が波のようにあふれた、と手元のホーリネス派の雑誌記事にもある。

 いま、彼らはどうしているかしら。ウクライナにも、ロシアにもいるであろう、わたしの同志たちは。わたしの同志、共産党のではなく、いまも生きているイエスキリストに、共に繋がっている同志たち。

 

 

 


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