教会の庭で
これは他愛もない話。
「庭仕事とかするの?」と聞かれるたびに、わたしは答える、
「いいえ、庭仕事を夢みてるだけ」
何年か前に、趣味の園芸という雑誌を愛読していたことがあるし、ヘルマン・ヘッセの庭仕事の愉しみという本はいつくしむように愛している。カレル・チャペックの園芸家十二ヶ月だってなんども読み返した。
だけれど悲しいことに、うちには庭がない。家の外はすぐ崖になっていて、緑に包まれてはいるけれど、なにかを植えるような地面はない。それにわたしはあまり植物の面倒見が良くなくて、鉢植えのミントも、ローズマリーも、サボテンさえをも枯らしてしまった。
去年の冬、教会が引っ越した。横浜の住宅街にある一軒家で、家の周りをL字の庭が囲んでいる。石でかこまれた花壇と小路とにわけられている。そんなに広いわけでもない、と当初思ったのは、間違いだった。
冬のあいだは良かったのだ。水仙の花が咲いてくれて、子どもたちが土を掘り返して遊んでいた。そのうち春が来た。そしていつのまにか庭はジャングルになっていた。おお、あのナガミヒナゲシとヒメジオン、そしてドクダミの生命力と言ったら!
教会に来るたびに雑草を抜きながら、ああ、うちに庭がなくって感謝だったなあ、と思っていた。わたしはもう雑草が生えることがなく、固定資産税を払う必要もない、神さまの御国に行ったら、広い庭を貰おうと思う。この世では結構だ。
雑草を抜くばかりではつまらない。なにかを植えよう、ということで、駅の近くの安い花屋さんに出掛けて、多年草を10株ほど買ってきた。イングリッシュラベンダーやアスター、あとはなんて名前だったのでしょう? (ラベンダーが1株200円!)
重い思いをして持ち帰った10株も、広い庭に置いてみれば大海の一滴にしか見えなかった。そのみすぼらしさをみかねて、牧師先生が買ってきてくれた花たちとみな合わせて、さあ、どうやって植えるのだ、とわたしたちは頭を悩ませた。「誰かガーデニングの達人いません?」「小学校のとき野菜を植えたことがあるけど……」
「……高さ順に植えていけばいいんじゃないかな?」「まず雑草を抜かなきゃ」「虫除けスプレーと軍手要ります?」そんなふうに素人ばかりが三人集まって、すこし太陽の翳った午後4時の庭で。
頭のなかには自然主義だのピート・アウドルフだの、うつくしい庭園のイメージがたくさん浮かぶけれど、現実と照らしあわせてはいけない。いま目の前にある花たちと、みんながてんでに買って植えたパンジーにそら豆に、ミントにパクチーと一緒に植えなくちゃいけないのだから。
「あーあ、真木さんがいてくれたらいいのに。彼はガーデンデザイナーだもの。でも、わたしがこないだ殺したんだった」
真木さんはわたしの小説の登場人物。どうしようもないメタ発言に、ほかのふたりが忍び笑いをしてくれる。真木さんがこの庭を見たら、呆れて口もきいてくれないかもしれない。
だけれど、とても楽しかった。あまり口はきかなかった。時折遠くに電車の音がするだけの、しずかな午後の庭。子どもたちは昼寝している。わたしたちのなかを聖霊が通うのを感じながら、みんなで働いていた。いっしょにいるとキリストを感じあえる仲間がいる。それってなによりも幸せなこと。
家のなかから「ママー!」という声が響いて、わたしは昼寝から起きた息子を抱きあげてから、縁側に戻った。ほかのふたりが庭仕事をする姿を眺めながら、息子に話していた。
「神さまがはじめてエデンの園を作ったときには、こんなふうにお花屋さんで花を買わなくてもよかったの。お花よ、あれ、というだけで、神さまは言葉を語ることで世界を造っちゃったのよ」
それに対してうちの息子はまた何か独特な不思議なコメントをしたのだが、何を言ったか忘れてしまった。覚えていれば、このエッセイのパンチラインになったかもしれないのに。
そうして電車とバスを乗り継いで家に帰った。とても疲れたけれど、幸せなゴールデンウィークの一日だった。おなじイエス・キリストを宿したひとたちと、庭仕事をする休日は。