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あちらのひと (短歌)
子をつれて青やぐ山を降りながら
深く吸うなりジャスミンの香
同族になじめぬわれは子とふたり
風感ずときいちばん自由
来たるひとすべてに挨拶するわが子
われもつられて頭を下ぐる
竹をむくちいさきひとの友達は
教会にをる異国のひとら
*
あちらに浸れば浸るほど
われは水母のやうに浮かべり
感覚は深く呼びさまされていき
われはあちらのひとになりゆく
いまわれと同じ言葉を語るのは
ただキリストを宿すひとのみ
どこか遠い野に住みながら、キリストのために、なにかよくわからないものを作っているひと、として生きていきたい。もとからよくわからないひとだもの。
今日の朝、アラバマの牧師がいっていたことば、 『なんであれキリストのためにすることは、決して無駄にはならない』
それはひとりよがりになることではない。シンセアであること、謙虚でいることについて、祈りもとめている日々である。
地上に富を積んではいけない、天に積みなさい、ということばも心にある。
いろんなみことばが響きあって、その時々の雰囲気をつくりだしている。アラバマで語られたことばも、日本の教会できいたことばも、日々ふれるみことばも、どこかつながっている。
それは聖霊も神も、ひとりだからだ。それが日常において、キリストを感じ、導かれることのひとつだとわたしは思っている。
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