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イノベーション政策とは、貧困対策である

しばらく前に某大臣が「身の丈」発言で炎上した。炎上は当然だと思うが、同時にあの一言は、ある意味本質をついている。要するに社会は、構成員の期待値をコントロールすることで生産性を上げようとするし、それはしばしば「成功」するのである。この手法を支持しようが批判しようが、肝に銘じておくべきことだと思う。

社会は、労働者の期待値を下げることで人的コストを抑制し、生産性を上げることが出来る。他方、労働者の期待値を上げることで労働の動機を調達し、生産性を上げることも出来る。しかし後者は、「期待値の上がった労働者が従事する種類の労働が生産性に結びつく」という条件があって初めて成立する。

戦後からバブルにかけてはそうだった。現代においては、「期待値の上がった労働者が従事する、生産性に結びつく種類の労働」が稀少となり、ゆえに期待値を下げ、人的コストを下げる方略が取られるようになってきたといえよう。

つまり大多数が「よし!もっと幸せになるためにもっと頑張って成功するぞ!」と気合いを入れて働くことで価値を産み出すことが出来る時代が終わったので、「今の暮らしで十分だしそれ以上はそもそも想像もつかない。でも今の暮らしは守りたいから真面目に働く」という時代にしようとしてきたのである。

そしてこの時代さえ間もなく終わる。なぜ昨今の社会がやたらと「イノベーター人材」を求めるのか。

やがて社会は、「今の暮らしで十分だしそれ以上はそもそも想像もつかない。でも今の暮らしは守りたいから真面目に働く」人材を育成・維持するコストさえ賄えなくなる。あるいはそのようなインセンティブを失う。しかし人権は守らなければならない。どうするか。加速主義はここに立脚する。テクノロジーに依る代替と救済である。

つまりイノベーション政策とは、貧困対策なのである。

さて、我々はこのような社会を望むか。受け入れるか。受け入れないとしたら、いかなる抗い方が可能か。

言葉にはパフォーマティブ/コンスタティブな要素があり、前者は更に機能的(道具的)/非機能的要素に分けられる。「社会はかくあるべき」という言葉は機能するか。

社会とは道具であり、道具として有効な限りにおいては大いに利用すれば良い。その意味において政策もマーケットもマーケットデザインも、一定程度有効である。そしてそれらの方向を定めるものとして、「社会はかくあるべき」との言葉にはそれなりの意味があることには間違いはない。

しかし社会は所詮道具であり、出来ることには限界がある。それでも、というなら社会の外に出るしかない。

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