読みたいことを、まず読む。
読みたいことを、まず読む。
はじめまして。長崎大学4回生の直塚大成と申します。両親の愛と皆さまが治めた税金によって日々支えられています。ありがとうございます。まだ大学生ですので、内面から滲み出る文学性は全くありません。時間を無駄にしたくない方は、高井浩章さんの書評をご覧ください。
僕の8兆倍くらい文章や展開が上手です。いますぐこちらを読みましょう。その方が有意義です。ほんとです。
まあしかし、がんばって書きました。読んで下さった方に後悔はさせません。時間に余裕のある方のみお楽しみください。
「高井さんのnoteは読んだから、君のを読むよ〜」
という熱心な方、とてもありがたいですが、他の書評も読んだあとで全然いいです。noteには良い記事がたくさんありますからね。全ては載せきれないので個人的に好きなものを抜粋します。
さあ、全て読みましたか?
そしてどんな感想を持ちましたか?
「……もう書くことなくてワロタ」
書評をあらかた見た僕の感想はこれです。
そもそも新しい書評なんていらなかった。
語彙もいらない。だって書くことないもん。
「みんなすごすぎて草」
で十分ですね。言いたいこと全部ありました。
だから、もうこの本について言えることは残っていません。
だけど、この本のおかげで新しく気付いたことがありました。
本書で最も印象的だった部分はここです。
そして、この一文が全ての始まりでした。
もはや読んだ人なら前後の文章は必要ないでしょう。
これを読んだ僕は、田中さんを疑いながらも(なぜならそのとき恋愛小説を書いていました)、いったん青空文庫で夏目漱石を数冊だけ読んでみました。
夏目漱石=「こころ」
くらいの認識しかもっていませんでしたが、そのとき書いていた小説を書く手を止めてまで読んでやりました。懐古おじさんの戯言だと思い、ひとまず読んでやりました。
その結果、感想はこちら。
「漱石すごすぎて草」
即堕ち2コマとはまさにこのことです。
言いたいこと全部書いてありました。
漱石に関する論文めっちゃありました。
感情の機微捉えすぎてて笑いました。
結論として
「読みたいことを、書く」ために
「読みたいこと」を知ってるのか?
と考えました。
自然と、書く手が止まりました。
漱石を読み終わると、自分の小説が
「読みたいこと」と思って書いてたけど
「読みたいこと」じゃねーわ
と気づきました。
不思議と、その瞬間は爽快でした。
次の日、図書館に駆け込みました。
これまでは小説を書くための小説や
設定に使えそうな資料本を読んでいました。
面白くなくても、嫌いなタイプの本でも
「読みたいことを、書く」ために役に立つ
と信じていました。
だけど
読みたいことは、今はまだ書けない。
そう思えば、自然とそんな本を手に取るのをやめました。
「読みたくない本よりも読みたい本があるにもかかわらず、書くためだけに無理して読んだもの」から得る心象なんてたかが知れていると思いました。
読みたいことが、俺には書ける。
その傲慢さを捨てれば、日常の景色が変わりました。
たとえば近所の本屋。
気の向くままに探検すると、気づいたら宇宙の本を手に取っていました。
元素図鑑を手に取っていました。
大学図書館でおでん大全を借りました。
意味わからん本も借りました。
それを誰に言うこともんなくひたすらボーっと読みました。
感想はまだ書けません。だけど面白かった。
読みたかったことかもしれない
と感じました。
今の自分が読みたいことは、
そもそも「小説」ではなかったのです。
書きかけの小説は進んでいません。
アイデアノートも埋まっていません。
面白いことは一文字も書いてません。
だけど「読みたいことを、書く」には近づいた気がしました。
いつか事象と心象が溢れる日が来ると信じて、
「読みたいことを、まず読む」ことを続けます。
おわりに
著者の田中泰延さん、編集者の今野良介さん。
「読みたいことを、書けばいい。」面白かったです。
本当にありがとうございました。