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『読みたいことを、書けばいい。』で 現実が変わった話。

2020年6月30日、私は10数年勤めていた会社を辞めた。

会社を辞めたあと、「死ぬまでにやっておきたい100のことリスト」というものを作成した。そう。私は暇だった。
しかし、今となっては何を書いたのか思い出せない。年の瀬迫る今だからこそ、読み返す必要があるのではないか。
私は読み返した。



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自分で書いたはずの100個の項目に、歌うことを強要された丸尾末男さながら赤面し悶えた。例えば56番目には「ドラやきについて調べる」とあるが、これは何だろう。2020年8月24日の私へ。これはいったい何ですか。

この事象は、人間が死ぬまでにやり遂げたいと欲望することは100はおろか56もないことを図らずも証明してしまっているのではないだろうか。
思いがけず人間の有り様・真理に触れてしまった。

戸惑う心を抑えつつ、私はドラやきの1項目前 55番目に目をやった。
「田中泰延さん 読みたいことを、書けばいい。 の読書感想文を書く」
と、ある。

うん、これは恥ずかしくない。
むしろ「今」やってみたい。
死ぬ前に「今」やってみよう。
なぜなら、この本は 私の現実を少し変えてくれたから。

ここに書き残すことをいつか読み返したとき、自分がクスリと笑えたら最高だ。

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出会い ~絶望の神田~

2019年の夏。
私は神田の街を歩くボロ雑巾だった。気力は失せて人と目を合わせて話すことが辛かった。

転居したばかりの新しい環境に適応できなかったのか。
通勤往復 数時間の満員電車がストレスだったのか。
子どもの夜泣きがひどく常に寝不足だったからか。
時短勤務で思うように仕事ができず、自分の能力のなさが日々露呈されていくことに耐えきれなかったのか。

原因としてそれらしいことは多々思い当たるが、どれが真因かは分からない。こんな私は誰からも信頼などされないだろうと思い込み、とにかく絶望し疲れ切っていたことだけは確かだ。「10年以上勤めてきたのだ。こんなことで挫けるわけにはいかない」という謎のスポ魂精神だけが私を支えていた。

ボロ雑巾の私を慰めてくれたのは、神田・日本橋界隈にある某書店だった。誰とも話したくない、人の目を見るだけで死にたくなる私にとって書店はシェルターのような存在だった。昼休みになるとフラフラと書店に滑り込み身をひそめた。書店で本は開かない。大量の文字に責められているような気がして開くことができなかった。何をするでもなく、ただズルリズルリと書店のなかをさ迷う。それだけで心は少し癒された。そして手負いの心で叫ぶ。

「家庭でも職場でもない、私だけのサードプレイス! 書店は愛! 書店は平和! 愛と平和!愛と平和!」

LOVE&PEACEを絶叫するのに忙しくしていたあるとき、珍しく一冊の本が気になった。
「糸井重里さんの新刊?」 思わず手にとった。

「・・・全然、違う。」
違った。作者は糸井重里さんではなく田中泰延さんという人であることに気が付いた。危うく勝手に騙されるところだったわけだが、私の注目はそこではない。

「・・物事を、正しく把握できた。」(震え)
自己肯定感が爆上がりした瞬間だった。精神状態がワヤになり仕事でケアレスミスを頻発していた私にとって、これは見逃せない成功体験だった。

調子にのって、ページをめくってみた。
「・・・字が、大きい。」(胸の高鳴り)
これなら、読めるかもしれない。こんな私でも、読めるかもしれない!

希望の光が差した気がした。
これが『読みたいことを、書けばいい。』との出会いだった。


希望 ~涙の京浜東北線~

その日の帰り道、京浜東北線の車中で私は人目を憚らずオイオイと泣いた。
ビジネス書籍の棚にあった本に泣かされるなんて思ってもいなかった。

『読みたいことを、書けばいい。』は、書くための考え方を示す本だ。
本の幹になるところを要約すると次のようになるだろうか。

・・・・・・・・・
自分が読みたいことを書けば、自分が楽しい。自分のために、読みたいことを書こう。あなたが宇多田ヒカルのような有名人でない限り、だれも読まないのだから。

自分が読みたいことを書くにあたっては、書く文章の分野が何であるか(それはおそらく随筆)、その定義を正しく把握することと、扱う一つひとつの言葉の実体を理解することが重要だ。

それができたらば、

事象に出会ったとき、
そのことについてしっかり調べて、
愛と敬意の心象を抱けたならば、
過程も含め、自分に向けて書けばいい。
本書P195

・・・・・・・・・

一見、書こうとする人たちを励まし応援するようでありながら、ペンを持つ手を怯ませてしまう厳しさが滲むメッセージだ。

私はこの太く明快なメッセージの幹をよじ登りながら、そこから派生した瑞々しい枝葉の部分に、そこから垣間見える作者の人柄に、「理想の生き方」を見出してしまった。

大事なことなので大きな声で言うのだが
作者の田中さんはあくまでも書くための考え方を述べているのであって、
生き方を語っていない。

私が自己の都合で、その論に無理やり人生を当てはめて、身勝手な解釈をしただけの話だ。しかし、この身勝手な解釈が私に希望を抱かせ、現実を変えた。少しだけ、私のご都合主義な捉え方とそこで生じた心象を並べたい。

勝手に人生論 その① 
「他人のためでなく、自分のため。」

自分がおもしろくもない文章を、他人が読んでおもしろいわけがない。だから、自分が読みたいものを書く。
本書P006

田中さんは「自分が読みたいものを書きましょうね。」と、そうおっしゃっているだけなのに、私は勝手に生き方の姿勢を見た。重い。

「他人を気にするばかりに、自分がおもしろくもない生き方をして、結局他人からも面白くなく思われる。それが私だ。」
ハッとさせられた。


他人の人生を生きてはいけない。書くのは自分だ。だれも代わりに書いてくれない。あなたはあなたの人生を生きる。その方法のひとつが、「書く」ということなのだ。
本書P115

田中さんは「書くのはあなたですよ。」と、そうおっしゃっているだけなのに、私はまた勝手に自らの人生を重ねた。重いうえにしつこい。

「そうか。私は他人の人生を生きているのか。」

心が震えた。
抱えている絶望感や疲労感の原因を全て詳らかにされた気がした。
完全なるひとり相撲であることは自覚しているが、感動は止めようがない。

バカにされたくない、優秀と思われたい、褒められたい、好かれたい。
他人の目 世間の目に踊らされ続けた10数年、こんなことばかり考えてきた。その生き方が、世界を耐えられないほど窮屈なものにして、自分の首を絞めていたのだ。

「私は私の人生を生きたいなぁ。」

そう心のなかで独り言ちると思わず涙がボロボロこぼれ、その勢いで目からウロコが落ちまくる。ついにはコンタクトレンズも外れた。
私のコンタクトはツーウィーク仕様。
まだ使用3日目なのに。あぁ。
そういえばここは京浜東北線の満員電車だ。あぁ。

勝手に人生論 その②
『物書きは「調べる」が9割9分5厘6毛』の誠実さ

書くという行為において最も重要なのはファクトである。ライターの仕事はまず「調べる」ことから始める。そして調べた9割を棄て、残った1割を書いた中の一割にやっと「筆者はこう思う」と書く。
本書P147
対象に対して愛がないまま書く。これは辛い。だが、一次資料には「愛するチャンス」が隠れている。お題を与えられたら、調べる過程で「どこかを愛する」という作業をしなければならない。それができないと辛いままだ。
本書P181


これらの言葉に、私は眩しいばかりの「誠実さ」を見た。この誠実さの先に何があるのか。それは作者田中さんの数々の記事が語っている。

秒速で一億円稼ぐ武将 石田三成 ~すぐわかる石田三成の生涯~

・【連載】田中泰延のエンタメ新党
 マッドマックス 怒りのデス・ロード 
 
 ベートーヴェン『第九』
 
 シン・ゴジラ

などなど、もっとたくさんあるのだけど、とにかくめちゃくちゃ面白いんですよ、ほんまに。

圧倒的な何かを目の当たりにすると、ドーパミンが噴出し高揚感に溢れた結果、自分の低能さを忘れ「やればできるのではないか」「やるのは今なのではないか」という勘違いをベースにした情熱を抱くことがある。例えば、『鬼滅の刃』を読んだあと、深い呼吸をしながら筋トレにいそしみ己の壁を越えたのちヒノカミ神楽を炸裂させてみせたくなるようなアレである。

作者田中さんの誠実さの一端に触れたとき、私はアレをソレした。自身が適応障害を患っていることを忘れて、うっかり情熱をみせてしまったのだ。

「私は生きるのがツラいツラい、仕事がイヤだイヤだと毎日泣いているわけであってそれは結構なのであるが、その前にやることがあるのではないか。発注された仕事を遂行する過程で、とことん調べ尽くす知り尽くす理解し尽くす、というような愚直なまでの誠実さで臨んできただろうか。目を背けて泣く前に、もっとやることがあるのではないか。」
そんなことを思った。

調べることは、愛することだ。自分の感動を探り、根拠を明らかにし、感動に根を張り、枝を生やすために、調べる。
本書P185

この一文で心は決まった。
心も体も悲鳴を上げている今、仕事を長く続けていくのは難しいかもしれない。しかし、自分の仕事が根を張って、枝を生やしているところを見てから終わりたい。
萎れた気持ちに喝を入れて、もう少しやってみよう。自分のために。


再出発 ~愛と笑いの日々~

その日から、私の現実は劇的に変わった。
と言いたいところだが、現実はそんなにドラマティックではない。
愛と笑いより、失望とため息の数のほうが圧倒的に多いパッとしない日々がのんべんだらりと続いていく。相変わらず易きに流れていく自分も健在だ。

しかし、
企画書を仕上げる一歩手前で
「上司が納得するだろうか。」ではなく、
「これは、私が参加したいと思える企画だろうか。」と問う。

発言する一呼吸前に
「みんなの考えとズレていないだろうか。」ではなく、
「これは、私が聞いて面白い話だろうか。」と問う。

判断を下す寸前に
「誰かに反対されたり批判されたりしないだろうか。」ではなく、
「これは、対象を調べ尽くし考えを重ねた結果だろうか。」と問う。

この少しの心がけと踏ん張りが、じわりじわりと私の現実を良いものにした。他人ではなく自分を判断の軸にするだけで、こうも意欲が湧くのかと不思議な気持ちがした。重い腰を上げ、あと一歩調べ深めるだけで、こうも見える景色が違うのかと晴れ晴れした気持ちになった。
徐々に心が躍る機会が増え、気が付くと仕事が好きだと思える自分がいた。

現実が少し良くなり調子は上を向いたが、しかし、私は仕事を辞めることにした。辞める決意に至る際にも、田中さんの記事に背中を押してもらったのだけれど、それはまた別の話。

田中泰延 しんどさは他人の都合ではかられる。自分を気遣えるのは自分だけ【前編】

田中泰延 他人には構わない。自分の不機嫌をどんどん削って生きていく【後編】

最終出勤の日、「既定の考えに捕らわれずに 等身大で仕事を楽しんでいる姿に刺激をもらっていました」という後輩からの餞の言葉に泣かされた。
『読みたいことを、書けばいい。』のおかげで、少しは自分らしく根をはる仕事ができたのかもしれない。

すっかり専業主婦となった今でも、『読みたいことを、書けばいい。』は私の現実に影響を及ぼしてくれている。何度も読み返しているから本はもうボロボロだ。

なぜ、私がこの本に心動かされるのか。理由は一つだろう。

『読みたいことを、書けばいい。』という大樹は、作者田中さんの愛と敬意、感動が隅々までゆきわたっているからだ。調べに調べ、考えに考え尽くす過程で生長した、太く力強い根に支えられているからだ。
だからこそ、読めば読むほど味わい深く、その度に新しい気づきの芽が生まれる。

私もやっぱりそういう生き方をしたい。
手段は文章でなくとも、なんだっていい。
自分がおもしろいと思ったことに、愛と敬意をもって誠実に向き合い、分かって、学んで、深めたい。
しっかり根を張り無数に枝葉を茂らせよう。
その枝葉を見て、私は一人ニヤニヤしたい。
そして、いつか偶然に 誰かと あなたと 共に楽しめたら最高だ。

私の「現実」はまだ変わりはじめたばかりだ。

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