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「神話の考察」(2023年1月)

●1月1日/1st Jan
新年明けましておめでとうございます。旧年中はお世話になりました多くの方々にとっても、本年が良い年でありますように。
 僕自身は今年は世界がどうであろうと良い年にすると決めたので、その方向に進んでいく。新年早々に、文化人類学者の辻信一先生から出版前の新刊本「ムダのてつがく」が届き、幸先の良いスタートを切る。

●1月3日/3rd Jan
元々、初詣になどほとんど行ったことがないのだが、呪のレイヤーを理解すると里宮での遥拝からますます足が遠のく。そんな中で、今年はなぜか瀬織津姫に導かれるように、さる奥宮へ訪れることになり、少し特別な体験をすることになってしまった。
 世界中の聖地を訪れるといつも感じるのは、自分の意図や意識を放擲した時に、向こうから出来事がやってくることだ。今年はこれまでの聖地研究も少しずつアウトプットしていきたいが、客観的に書くことが難しい領域なので少し工夫が必要か。

●1月5日/5th Jan
「ゲーテ自然科学の集い」という学術団体が年に一度発行する「モルフォロギア」という学術誌で、哲学者の影浦亮平先生に拙著「まなざしの革命」の書評を寄せて頂いた。取り上げて頂いた粂川先生にも、評して頂いた影浦先生にも心より感謝を。
 出版してから一年が経とうとしているが、メディアはおろか、アカデミズムの中でこの本をまともに評したのはわずか数人だった。それよりも学術に特に携わっていない人々の評価の方が多かったように思える。
 もちろん内容に問題があるか、取り上げるに値しないものであるという評価もあるだろう。帯の言葉を依頼した大先生がこの本の中身を読んで、自分の信条と異なると断ってこられたこともあった。一年経ち色んな事実が明らかになってきた今ではどうなのだろうか。
 個人的には学者が評価できないということ自体が興味深い現象だ。学者が評して大衆に拡がるのではなく、大衆が評価した後でしか学者が評価出来なくなっている可能性もある。あちこちで見られる原因と結果の反転現象はこんな所にも及ぶのだろうか。

●1月7日/7th Jan
 2023年の最初の満月の晩。ポッドキャスト「まなざしの革命放送」の新しいエピソードがアップロードされました。今回はTwitterでリクエストのあった「友達」について少し思うところを話してみました。
 二回ほど前に家族について話したのですが、友達も人によってそれぞれ感覚が異なるので、誰にとっても共有出来るような真ん中を考えるのはなかなか難しいですが、ハナムラなりに考えてみました。身近なテーマですのでお聴き頂ければ幸いです。

まなざしの革命放送シーズン2
Vol.031 友達を作らなくてはならないのか

2023年の最初の満月の晩は、「友達」をテーマに少し考えてみたいと思います。友達の感覚は人によってそれぞれ違いますが、そこにはどんな基準があるのでしょうか。そもそも友達になるとはどういうことで、友達は作らなくてはならないものなのでしょうか。誰にとっても身近なテーマである友達について少し思うところを話してみます。

●1月7日/7th Jan
瀬織津姫に導かれて始まった年だからか、なぜかこの数日は日本の古代史が気になり「古事記」周辺の文献を読んでいる。ただ「古事記」「日本書紀」などいわゆる「記紀」は、いわば国家プロジェクトのような形で編纂されたものなので、時の政権に都合良くまとめられている可能性は否めない。
 だから「記紀」以外の古代史に関する文献、例えば「ホツマツタエ」「先代旧事本紀大成経」「上記(新治の文)」「九鬼文献」「富士文献(宮下文献)」「竹内文献」「東日流外三郡誌」「カタカムナ文献」「物部文献」「水穂伝」なども目配せしながらになる。(そもそも瀬織津姫は「記紀」には出てこないので。)

ただ、こうした文献も出自が怪しかったり、後に手が加えられていたり、偽書とされていたり、都合良く編纂されている可能性もあるので、テクストをそのまま受け入れるわけにはいかない。テクストよりもコンテクストを大事にするとすれば、神話論理学(ミソロジック)的なアプローチをせざるを得なくなる。
 神話論理学的なアプローチとは、文献に登場する人物(神)や諸々の象徴など、その神話を構成する基本要素の関係を抽出し、それらを数学的概念つまり、神話素同士の共通するフォーマットや変換コードから分析することを指す。あるいは別の学問体系、例えば天文学や植物学、気象学や鉱物学などを参照コードにしながら解読する。レヴィ=ストロースなどは南北ネイティブアメリカンの1000以上の神話をミソロジカルに分析してまとめている。

多くの人が日本の神話を理解するのを諦めるのは、まず神様の名前がややこしく、その関係が複雑で、習合しまくっているので誰と誰が同一人物か整理しきれないところにある。それに加えて、存在が隠されたり性別が変換されまくっているので意味不明になっていることだろうか。
 聖地のランドスケープのウェブサイトにも書いたが、「表」のレイヤー見えている歴史とは別に「謀」のレイヤーで見ないと見えてこないこともある。どうしても想像と解釈が中心を占めるが気長にコツコツやるしかないか。死ぬまでには終わらんだろうし、あまり深入りすると目をつけられるので死期が早まって危険だ。ま、暇つぶし程度に。

●1月9日/9th Jan
1972年にローマクラブが石油資源はあと30年で枯渇すると警告して世間は大騒ぎした。今は2023年で警告から50年が過ぎた世界だがどうだろうか。対象物にフォーカスしていると、歴史の中で繰り返される同じフォーマットには気づけない。

●1月11日/11th Jan
新聞での書評の御依頼を頂いた。昨年出した自分の本は内容が内容だけに、四国新聞さんを除いて新聞メディアでの書評はなかったが、まさか自分が他の方の本を書評することになるとは、晴天の霹靂。今年は教育新聞さんでの連載もあり、新聞と御縁があるのかな。心より感謝。

●1月12日/12th Jan
敬愛する能勢伊勢雄さんが運営する岡山の伝説のライブハウス「ペパーランド」。そこで年に一度発行する通称"年末パンフ"にハナムラも継続的に論考を書かせて頂いており、2022-2023の号には二つの論考を寄稿させて頂きました。
 岡山芸術交流2022についての論考「同じ空のもとで異なる夢を見る」と、ゲーテ形態学とアントロポゾフィ形態学について形の文化研究で発表された能勢さんの講演についての論考「身の丈の科学の構築に向けて」という二つです。特に前者の論考では岡山芸術交流2022を題材に、現代美術の国際展の問題点について考えてみました。自分もコンセプチュアルアートの作品「わたしと居た時間はほんのわずかかもしれないけれど」で少しだけ参加させて頂いたので、そのことも書いています。

年末パンフは能勢さんの活動を中心に、その年に岡山のカルチャーシーンで起こった出来事を様々な視点から把握できるようになっています。論考には多くの方々の多岐にわたる興味深い視点が書かれており、岡山で芸術やアンダーグラウンドカルチャーに関心のある方々にとっての大事な教材のようなものになっていると思っています。パンフは無料なので、この表紙を見かけた方は文字が小さいとは思いますが、是非手に取って他の方々の記事も併せてお読み頂ければと思います。とはいえ、遠方で入手しにくい方もおられるので、自分の論考だけは僕自身のウェブにアップ致しました。ご関心ある方は是非。

●1月14日/14th Jan
丁度一年前か。「まなざしの革命」のPV。実はこの映像の中にはいっぱいメッセージを仕込んでいる。六法全書とゲーテ色彩論くらいは気づく人多いが、トランプやマルクスやシュレディンガーの波動方程式とかになると、映像止めて探さないといけない。各章に対応した謎解きを図像学的に散りばめたので、是非探して遊んでみてほしい。

●1月15日/15th Jan
物質を本当にコントロールしたいのならば、物質の外側から関わらないといけない。だが、今の社会も教育も物質の外側などないと言い、一生懸命に物質のことだけにフォーカスするようにまなざしを向けさせられている。

●1月15日/15th Jan
この土日は大学入試の共通試験。今年は試験監督として二日間フルで関わったが、色々と気づきや学びが多かった。受験生も試験監督も緊張を強いられる空間で、現代が管理社会へと収束する必然性が如実に集約されていると感じた。その詳細は次回の「革命放送」で話すかもしれない。
 試験が始まってしまえば主な仕事は巡視だけになるので、やることは少なくなる。だが人間観察と考察がライフワークのような僕は、不正行為以外でも受験生の試験中の行動をつぶさに観察する。そんな中で、その受験生の仕草や姿勢、心の状態などから、得点がある程度垣間見える。頭の問題だけではない。
 外見的な特徴では、僕が担当した約100名の受験室で、89名の受験生のうち左利きが8名だった。世界統計は概ね10%なので凡そ統計通りなのが興味深い。ちなみに女性は3名、髪の毛染めは0名、丸刈も0名、眼鏡が34名、私服が35名。勝手にカウントしながら18歳から20歳くらいの世代のムードを読み取る。
 想定内だがノーマスクは0名。法的には強要は出来ないはずだが、鼻まで覆うように試験監督が呼びかける文言が段取りにある。学生側が敢えて逆らうマインドになるはずもないのは言うまでもない。二日間立ちっぱなしでともかく疲れたが、色々と考察の深まった週末だった。

●1月15日/15th Jan
noteで「まなざしの革命」のレビューを上げてくれている人が、またちらほら出始めている。年末にもハードボイルド書店員のY2Kさんという方が、2022年の一冊に拙著を取り上げてくれていた。安易に答えを知りたい人は決して手に取らない本だが、何が起こっているのか知りたい人や、自分で考えたい人の間で拡がっているようだ。他にもnoteで取り上げてくださっている方がいる。
 ポッドキャストで「革命放送」していることもジワジワと効いているのかもしれないが、早めに本を読んだ人は落ち着いて状況を眺められるだろう。今年は昨年よりも社会状況の逼迫を感じる人が増えてくるはずなので、より多くの方々が読むことになると確信している。

●1月20日/20th Jan
自分が見てきた限りでは、社会人修士・博士の書く論文の大半はトートロジー(同義反復)になっている。特定の分野だけかもしれないが、研究目的が明確に示されておらず、「分析」と「考察」と「主張」が混在していて、最初から最後まで我田引水的に、他者の研究やデータが引用されて、同じ主張が繰り返されることが多い。
 若い学部生はそもそも論文を読んだことも書いたこともないので、素直に言われた通りのことをやってみるのだが、論文なるものへのイメージを先行して持ってしまい、主張から入る社会人はその素直さがなく勝手な解釈が入る。だから論文指導が難しいし、指導してもその意味が理解出来ないことが多い。

●1月21日/21st Jan
論文に限らず、その人の表現した文章に含まれている論理的な矛盾をいかに指摘するのかはいつも非常に悩ましい。そもそも矛盾があることを論理的に理解できないからそのような表現を取るのであり、指摘しても理解出来ないことが多いからだ。大体の場合は指摘の内容をちゃんと聞いていない。
 指摘されたということに感情的に反応して、勢いや雰囲気で強引に主張を通そうとする態度になったり、大人の場合は、指摘する者に取り入ったり懐柔するような戦略を取ることもある。少し理性を働かせれば矛盾には気づくはずなのだが、人間には感情と結びついた妄想が働くので大変厄介だ。
 論理的である必要がないような領域であれば問題ないのだが、論文査読の場合はそうはいかない。その人物を批判しているわけではなく、書かれたものを批判しているだけなのだが、表現物というのは自分のアイデンティティと一体化しやすい。だから矛盾を指摘されると自分の矛盾を指摘されたように感じる。
 もちろん人は自由に表現すればいいのだが、論理的な表現が求められる局面では熱い想いは秘めたままで、慎重に淡々と事実と分析と考察を積み重ねて、クールに語るべきだろう。実はそれこそAIでは出来ないことかもしれない。

●1月22日/22nd Jan
 新月の晩。「まなざしの革命放送」の配信日です。先週は大学入試の共通試験(かつてのセンター試験)が行われ、試験監督をしてきましたが、そこで考えたことを今夜の革命放送では話そうと思います。
 共通試験の風景の中に、今の社会が集約されているように思えます。受験勉強とは一体何をしていて、そのことで今の社会はどうなっていくのかについて、少し思うところを話してみます。

まなざしの革命放送シーズン2
Vol.032 受験制度は社会をいかに変えたか

かつて「センター試験」と呼ばれた大学の「共通試験」で試験監督をしてきました。二日間の監督をしながらそこで考えたことを少し話そうと思います。受験勉強というのは一体どういうことをしていて、受験制度がどういう社会を作ろうとしているのか。試験室の風景に集約される社会について、少し考えてみようと思います。

●1月23日/23rd Jan
 今朝はカラスたちの様子が妙だ。何かあるのか。

●1月25日/25th Jan
 今週は修論の査読週間で、朝から晩まで論文査読の日々。提出されたものの多くは調査データと分析と考察の整理が不十分で、客観的でない論述がダラダラ続いてストレスを感じることが多い。学会論文などを読んでいると、表現として自我が抑えられていて客観的な記述になっているので、内容だけが前に出てくるが、修論の場合は学術的なフォーマットに則っておらず書き手の自我が伝わるのでスムーズに内容が読めない。

一方で、文章の中に書き手の心情や深層心理が如実に反映されている。だから書き手の自我が丸裸になって読み取れるため、心理分析としては大変面白い。特に社会人大学院なので長年の心のクセがそのまま現れる。SNSのコメントから本人の性格が読み取れるのと同じだ。
 この人はナルシシズムが強いとか、頭が混乱しているとか、牽強付会で強引に我田引水するとか、少ない事実からすぐに物事を判断するとか、厚顔無恥で都合の良いことしか見ないとか、特にその人の心の弱い部分が面白いくらい表れているから不思議だ。
 きっと本人に突きつければ赤面ものだろうが、客観的な論述が身に付いて居ないと取り繕えないのだから仕方ない。フォーマットを身につける訓練として素直に学ぶ姿勢が必要だが、社会的に地位が高かったり活躍しているほど謙虚になれずに難しい。
 無論、学会論文のような温度なく淡々と論述するものが必ずしも面白いとは限らないし、お作法だけは守っているけど、何にも想いが伝わらないものを自分では敢えて書きたいとは思わない。ただ、修士諸士はひとまず規定演技を身につける訓練は通過しておく必要があると思う。

●1月28日/28th Jan
 修士論文の口頭試問終了。疲れたぜい。

●1月30日/30th Jan
 朝から研究室でインヴァージョンモデルの検証。ずっと内外反転し続けるので見ていて飽きない。日本の折紙はゲーテ形態学と相性がいい。細胞はこうやって内外反転しながら形態を変容させていく。口内炎の治り方見てるとよく分かる。

●1月30日/30th Jan
7年前はインドのヴァラナシに居た。この後で、ガンジス川の対岸で経験したハワンの儀式は得難い体験だった。ガンジス川に登る太陽を眺めながら聖地のランドスケープについて語る。

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