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VUCAな世界を見るまなざし

「まなざしの革命」(ハナムラチカヒロ 河出書房新社)

途中、なかなか難しかったのですが読み終わりました。

第九章の「解放」からメモ
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三つの「り」の話。

1 「利」のまなざし:利益に基づいて見ること
何をするときでも、それがどのような利益や不利益をもたらすのかを考えねばならない。資本主義は利のまなざしが強いシステムである。利は人を結びつける大きな引力を持つが、その利のスケールを今だけここだけ自分だけの利へと、時間的にも空間的にもどんどん小さくしてしまったことで、世界は破綻へと向かっている。

2 「理」のまなざし:物事の「道理」を基準に何かを行うこと
理は利と異なり、理想や理念、そして理由が重要である。己の利だけで動くのではなく、「善」であったり、「情」であったり、「愛」であったり、「哀」にもとづいて何かを選択する。だが理だけで物事を見つめると、正しさと間違いに囚われがちになる。共産主義や社会主義は理のまなざしで物事を推し量りがちなシステムだ。そこでの理は社会全体として正しいことを掲げながら、一人一人の利を犠牲にするものであったかもしれない。

3 「離」のまなざし:物事に囚われないこと
自分の欲や怒りとは離れた場所から、しっかりと物事を観察するニュートラルな視座である。自分の判断や、自分の価値基準を持つことは大切だが、私たちはつい自分の見方にこだわってしまう。これまで自分が経験してきたことにもとづいて今を判断し、その延長線上に未来を創造する。しかし本当は、私たちが見ているものは、常に初めて経験するものである。

しかし一方で離が「無知」や「痴」に囚われると、物事に無関心になり、なんでも諦めるようになり、何も考えずにその場限りの行動をしてしまうことになる。これからやってくるかもしれない監視管理システムに基づくデジタル社会主義は、私たち自身に対する「無知」を育てるシステムである。管理者や人工知能に委ねてしまうと、私たちはそのうち判断や思考すらしなくなるだろう。

それぞれの「り」には、良い側面と悪い側面がある。三つの「り」はそれぞれ「欲」「怒り」「無知」に囚われやすいが、順序を間違えるとその状態に気づけない。「り」の順序として大事なのは「離」「理」「利」である。

まず自分自身のまなざしに対して「離」を向ける。正しい判断をするためには物事を少し離れて見つめねばならないし、何かを行うことだけに囚われてはならない。何かに囚われたままだと、視野が狭くなりできることがどんどん狭まっていく。一方で離れて視野を拡げることで私たちは時代がどの方向に向かっているのかを知ることができる。その上で「理」のまなざしを向けて、今とこれからにおいて何が正しいのかを見つめる。時代の流れや自然の法則から外れたことは理にかなっていない。それに沿う形で最後に「利」のまなざしを向ける。それは自分一人の利ではなく、より多くの生命にとって利がもたらされる方向を見つめる。そのように「り」の順番を組み立てていけば、どんな問題が起こっても、適切に物事を判断していけるだろう。その積み重ねが私たちを人生の問題から解放するのではないか。

しかし私たちは正反対の順番でものごとを見つめる。どうすれば「利」が得られるのかを考え、そのために「理」を掲げて人を巻き込み、挙げ句の果てに「離」を決め込み責任逃れをする。
~~~ここまで一部引用

この章のテーマは「解放」。

「いま必要な「ソーシャル・ディスタンス」は、感染を防ぐために人から距離をとる社会的距離ではなく、常識や概念といった多くの人が共有する社会的な見方からの距離である。」と続く。

予測不可能なVUCAな時代に、僕たちはどう生きていくのか。

この本に書いてあるように、新型コロナウイルスという「未曽有の危機(と言われている)」機会に乗じて、資本主義以上に私たちを思考停止させる監視管理型デジタル社会主義が待ち受けているのかもしれない。

「解放」のために、思考をとめないこと。
「利」や「理」に流されないこと。
「離」の視座をもつために、アンラーニングすること。

そこから始めていかないといけないのだろうな。

最後にあらためてこの一節を。

私たちはつい自分の見方にこだわってしまう。これまで自分が経験してきたことにもとづいて今を判断し、その延長線上に未来を創造する。しかし本当は、私たちが見ているものは、常に初めて経験するものである。

初めて経験する機会に対して、「離」⇒「理」⇒「利」のまなざしをもって、対応していきたいですね。

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