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白い猫と妻の失踪4、エリック 白い猫の出現2022

 妻が仕事を放棄していなくなったことが、何より、みんなの心配を募らせていた。警察は、こういう時、あまり頼りにならない。確かな犯罪性がなければ、ただの喧嘩や家出の可能性があり、さほど本気で取り合ってはくれない。ジャーナリストという仕事柄、妻の同僚は警察や医療関係者に知人も多く調べてくれたが、手がかりはない。

 できる限りの捜索をあちこちに依頼し、探し回った後は、これ以上、一体何をすればいいのかわからなかった。すでに3年近い月日が流れている。できるだけ、自分の仕事をして、普通に生活をしながら、妻の捜索をしていた。多くの知人友人も手伝ってくれている。

 妻がひょっこり、顔を出すかもしれないという期待もあって、時々ノルマンディーの別荘でも暮らした。こちらの方が、絵を描くためのアトリエが広いので、仕事がはかどる。
彼女はここでの生活をとても気に入っていた。妻は海辺の生活が大好きだった。暖かい季節は毎朝、海辺をジョギングし、午後は泳いだ。夜になると、夕日が海に沈んでいくのを、毎日必ず見に行った。
 庭には、トカゲが住み着いている。緑でとても美しいトカゲだ。妻は爬虫類は苦手だけれど、このトカゲだけは、名前をつけてよく話しかけていた。時々はカエルもやってくる。夜の間に、玄関先の階段に、のそっと座っていることがあるので、踏みつけないように、気をつけなくてはいけない。ハリネズミの親子も、時々やってくる。7月には、蛍があちこちで光っている。

 ある月の明かりが綺麗な日に、家の庭に真っ白な猫がやってきた。真っ白な美しい猫だった。その後も、時々週に2回くらいは、見かけるようになった。尻尾の先だけが黒く、真っ黒な墨をつけた筆のような形をしていて、とても目を引く美しい猫だ。

 ある日、パン屋に行った帰りに海の近くの道を歩いていると、車が急停車するのが見えた。よく見ると、例の白い猫がそばに倒れている。驚いて、そっと近寄ると猫が足を怪我しているようだった。車から降りてきた人と一緒に相談して、近くの獣医に行くことにした。困っている様子だったので、私も同行した。

 獣医は「困りましたね。首輪もないし、保健所に登録されたチップナンバーも入っていません。幸い足の怪我は大したことはありません。1ヶ月くらいはかかるかもしれないけれど、治ります。ただ、このまま野生に帰すことはできません。残念な話ですが、私から提案できることは、引き取り手を探してくれるアソシエーションと保健所に、同時に連絡するしかありません。」ということだった。動物が好きな人が獣医になるのだろうから、保健所に連絡したくはないだろうけれど、いろいろと規則もあるのだろう。

 「それは・・・・怪我もしているし、かわいそうだな。とりあえず、私が責任を持って、飼ってくれる人を探すということで、連れて帰ってもいいですか?」と、とっさに言葉が出てしまった。車の持ち主は外国からの観光客で、飛行機で帰るので、連れて帰れない。 
 これも何かの縁だ。数日だけでも家でひきとろう。と、私は決心した。庭に来だした頃から、私は猫に「ポンポン」という、あだ名をつけて呼んでいた。

 「よかったな。優しい人に会えて。」と、獣医は猫を撫でながら、笑顔で言った。「私が預かってあげられたらいいんですけど、ここには、馬に羊、猫に犬、たくさんの動物がいるので、これ以上増やすこともできないんですよ。妻がうるさくてね。」と、獣医は笑顔で言った。

 「それじゃあ、ここに住所と名前を書いてください。」と、いきなり書類を渡された。猫の名前を書くところもある。今、この瞬間に、私はこの猫の主人に任命されてしまったらしい。

「名前、仮でもいいので考えて書いて下さい。」と言われ「・・・・ポンポンでお願いします。」と、書類に自分の住所と携帯番号をとりあえず書いた。

 私が「ポンポン」と名前を言ったタイミングで、猫は「ミャー」と返事をした。獣医は、手帳を出してきて、名前の欄に、ポンポンと大きく名前を書いた。私は、おかしくなって吹き出した。ずいぶん立派な手帳に猫の氏名が大真面目に書かれている。予防注射の履歴などを書く手帳だそうだ。

 「大袈裟なものなんですね。まるでパスポートだ。」と、私が笑いながら言うと、獣医は「何かおかしいんですか?」と至極当たり前のように言った。世の中には知らないことがたくさんあるものだ。獣医にとっては、この手帳は毎日見ているものなのだろう、猫の名前を書くのは至極当たり前のことらしい。

 「ポンポン、よかったな。優しい人に出会って。今日から君に家ができたよ。」と、嬉しそうに頭を撫ぜた。猫も、まんざらでもなさそうな顔をしている。 
 獣医と猫は、もう昔からの友達のようなに見えた。初対面なのに、すごいな。と、思った。その様子を見て、私と猫も仲良くなれるかもしれないと思い始めていた。でも、猫を飼うというのは、思ったよりも大変そうだ。誰も貰い手が見つからなければ、私が15年くらいは飼うことになるんだろう。私にできるんだろうか。

 注射でナンバーのチップを入れてもらった。マイクロチップを埋め込むなんて、かわいそうに思ったけれど、医者が言うには、本人は、特に痛みはないのだそうだ。マイクロチップが入っていると、迷い猫で保護されたら、私に連絡が来ることになる。病気がないことも調べてもらった。車の主は、とても恐縮してこれらの費用を全て払い、何度もお礼を言って私に連絡先を渡して外国へ帰って行った。彼も動物好きな善良な人間らしい。人それぞれに事情があり、生活がある。

 とりあえず、獣医で猫用のカゴを貸してもらって、ポンポンを連れて帰った。
「さあ、今日から、当分の間ここが君の家だよ。妻と私の家なんだけど。訳あって、妻は今はいないんだ。大丈夫、彼女も猫が大好きだから。さあ、このサロンでくつろいて待っていてくれるかな。」と、猫にはしばらくお留守番してもらうことにした。ポンポンは、最初、家中を探索し、初めて見るものばかりで、あちこち匂いを嗅いだり、そっと手で触ってみたりしている。

 車で隣町のペットショップに出向き、猫のトイレ、砂、餌と水のための皿やおもちゃ、猫用のベッドや籠一式買って、車に積んで帰った。ついでに、いつものカフェでタバコを買い、テラスに落ち着いて、一本タバコを吸いコーヒーを飲むことにする。少し、落ち着いて考える時間も必要だ。人生、何が起こるかわからない。妻がいなくなって、今度は猫が家の中に飛び込んできた。今朝は、そんなこと思いもしなかったというのに。

 家に待っている猫のことをと考えると、不思議な気持ちだった。猫とはいえ家で誰かが自分を待っているというのは、久しぶりのことだ。隣の行きつけの紅茶専門店で、スコーンと香りの良いウーロン茶を買った。
 本屋に寄って、新聞と小説を3冊購入した。南米のガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」、チェコスロバキア生まれのミラン・クンデラの「冗談」、そして、日本人作家で柚木徹という作家の新作「逆さ水」だ。

 家に戻り、風呂場にトイレを設置して砂を敷いた。簡単にパスタを茹でて夕食を食べ。ポンポン用の食事と水を与えて、ソファーに座った。

 ポンポンは、散々探索して気が済んだらしく、猫用のベッドを無視して、ソファーの私の横に乗り、くるくると回って、ぴったりと私に寄り添って丸くなった。猫の体温が、私の腿に伝わってきた。
「飛んだら危ないよ。脚は痛くないの?」と猫を撫でた。猫は、いつの間にか、眠っている。心から平和な顔をして。幸せそうに。

 妻も、今頃どこかで、眠っているだろうか。この猫のように丸くなって。今日は、風が強かった。風が強い日は、波が高くなる。海の天気は変わりやすい。そろそろ満潮の時間だ。満潮の時間は毎日1時間づつずれる。満月の日は特に海面が高くなる。そういえば、今日は満月だ。なんだか忙しい1日だった。こんな風に妻のことを考えずに過ごしたのは、久しぶりだと、ふと気づいた。

 「そろそろ寝ようか。」と声をかけると猫は、自分のベッドを無視して、私のベッドに上がって行った。「おいおい。やめてくれないか。」と文句を言ってみたけれど、すまして、しっかりベッドの真ん中に乗って寝てしまった。結局、諦めて、私もベッドに入り、いつの間にか私も眠っていたらしい。久しぶりに、少し心が軽くなって眠ることができた。 

 朝になった。白い猫は、まだベッドで丸くなっている。私は、夢を見ていた。夢の中で、私は、どこかの海の真ん中にある灯台のようなところで、海を眺めていた。朝日が昇るのを眺めていたような気がする。
寝ぼけ眼で、猫の方を見ると、猫は私をじっと見て、何度か瞬きをして「おはよう。」と人間の言葉で言った。
 私は、咄嗟に寝ぼけているんだな。と、思った。まあ、そう聞こえただけだろう。と、頭を振り、立ち上がって伸びをした。もう一度猫の方を振り返った。

 猫はこちらをまっすぐに見つめて「おはよう。昨日はありがとう」と、言って伸びをしたように聞こえた。
「おいおい・・・・やめてくれよ。」と、頭を振りながら、台所に向かった。アルコールは全く飲まないので、酔っているはずはなかった。
「 昨日のお礼に、いいことを教えてあげるよ。君の奥さんは生きている。」と、猫は私の後をついて歩きながら言った。ように聞こえた。

 朝日が入るサロンと台所は、とても平和な雰囲気だった。庭には、ミモザの花が満開で、黄色い華やかな空気が溢れている。
とにかく、一度外に出た方が良さそうだ。猫のことは無視して、庭に出て、コーヒを飲むことにする。

 気がついたら、ポンポンも庭に出てきていた。猫は「ミャア」と猫らしく鳴いた。
ああ・・・やっぱり、私の思い過ごしだ。夢の続きを見ていたのだろう。猫は、のんびりミモザと戯れている。

 今まで散々、野良猫をしてきたせいか、足が痛いのか、庭の外に出るつもりはないらしく、その後猫はずっと家の中でのんびりしていた。「留守番を頼むよ。」と声をかけて、海へジョギングに行く。まっすぐ何キロも浜辺が続いていて、とても気持ちが」良い朝だった。
猫が「妻は無事だ」と言っていたように感じた。それにしても、はっきりとして落ち着いた声だった。疲れているのだなと思った。

 2週間が過ぎた。夜が明けた。太陽の光がサロンに入ってくる。毎朝の日課通り、ラフマニノフのピアノコンチェルト2番のCDをかけ、特別に美味しいコーヒーの豆を挽き、ハンドドリップでコーヒーを淹れ、トーストを食べた。午前中が一番集中力があるので、いつも私は朝から絵を描く。
 休息時間になると、天気の良い日ほど、ああ、ここに妻がいたら二人で笑い話をして、食事をするのに。と、心から残念に思った。

 妻がいなくなって3年程の月日が流れていた。あっという間だった。
「もう3年か・・・・」と、ため息まじりに声に出して呟いた。「3年は長いようで短い。」と、猫の落ち着いた声がした。
 「そろそろ、僕が人間の言葉を話せることを信じてくれないかなあ。ずっと話せないふりをし続けるのも、しんどい。」と、猫は可愛らしい顔で言った。「・・・・ポンポン、本当に話せるのか?」と猫の顔を覗き込む。

 「だから、最初からそう言ってるじゃないか。この2週間、ずっと話せないフリをしてきた。独り言ばかり聞かされ続けて。こっちは、言いたいことも言えないなんて、不公平だ。」と、猫のベッドから立ち上がって、ポンポンはサロンをぐるぐると歩き回り始めた。

 「それは、失礼。幻聴だと思ったんだ。」
「僕は、人間の言葉は全部わかる。ただ1日に話せる時間は短時間だ。実はどの猫も、みんな人間の言葉は大抵わかる。話せる猫は、少ないけどね。話せないふりをしている猫も多い。」

「わかった。信じるよ。すぐに信じなくて申し訳なかった。」と、僕は急に慌ててウロウロ歩き回って猫のそばに行った。この2週間、猫に失礼なこと言っていなかっただろうか。ああ、そんなことより、大切なことを聞かなければ。

「ポンポン。本当にすまなかった。」
「そうだ。君は画家だろう!芸術家にとって、猫が喋ることくらい、大したことじゃない。見えないものを見て、聞こえないものを聞くのが芸術家なんだから!」

「・・・・そう言われてもなあ・・・。なあ、ポンポン。この前、妻が生きていると言っていただろう。妻にどこかで会ったのかい?」
「いや、直接会ってはいない。でも、海鳥や野良猫やトカゲ達が話していた。奥さんはどこかで生きている。噂で聞いただけだから、はっきりしたことはわからない。」

「どこで聞いたの?どこの猫?頼む、教えてくれないか。」
「猫は、急かされるのが一番嫌いなんだ。さっきまで、僕が話せることも信じてもいなかったくせに。」と、猫はプイッと、寝室の方に行ってしまった。

「悪かった。悪かったよ。君が話せることもよくわかった。すまなかった。頼む、許してくれよ。猫と話すのは初めてなんだ。」
「仕方がないなあ。助けてくれたお礼に、教えるよ。奥さんは、灯台の明かりの届く場所にいる。僕が知っているのはそれだけさ。この世はエネルギーで出来ている。全く関係がないと思っていることにこそ、ヒントがある。すべては意識とエネルギーの問題なんだよなあ。はい、今日はここまで。もう寝る!」と、いつものように私のベッドに上って寝てしまった。外は、日が暮れて真っ暗で、波の音が聞こえている。月の明かりがカーテンから見えている。

 とにかく身支度をして、ベッドに入った。ポンポンは、背中を向けて、足元に眠っている。起こさないようにそっとベッドに入って、眠る努力をした。
 灯台は世界中にある。漠然としすぎて、何の手がかりにもなっていない。灯台か・・・。まずは、明日隣町のグランヴィルの灯台に行ってみよう。そうだ、明るくなったらすぐに。そう決めたら、少し気持ちが落ち着いた。

 猫が喋るということについては、もうどうでもよくなっている。とにかく、僕の最重要課題は、妻を探すこと。それ以外のことは、宇宙船が来ようが、猫が喋ろうが、大したことではない。という心境だった。

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