見出し画像

白い猫と妻の失踪19、エリック クロワッサンとコーヒー 2022

 妻は少しづつ落ち着きを取り戻し、なんとか私達は穏やかな暮らしを続けることができた。失われた記憶は、そのままだったけれど。
夫婦には、二人にしかわからないやりとりが沢山ある。私たちは物によく名前をつけた。家電や車、枕にも名前があった。
例えば、枕を買った日に読んでいた小説が「ゴドーを待ちながら」だったから、枕の名前はゴドーになった。「ねえ、ゴドーを取って。」というと、この家の中では「枕を取って。」という意味だ。
そんな些細なことでも、妻はよく覚えていた。時には私が覚えていない物のありかも、妻は全て把握していた。

 例えば「掃除機の取扱説明書って、捨てたよね。もう10年も経っているんだから、あるわけがない。」というと、妻はしなやかな動きで的確に何の迷いもなく、家の中の棚のファイルをすっと手にして、どこからともなく、ふわりとそのおめあての書類を私の手に乗せた。私は家のことを何でも知っているような気持ちになっていたけれど、妻の記憶力には敵わない。そんな妻がある一定期間の記憶だけ失うというのは奇妙なことだった。

 私にとって、彼女との暮らしは一言で言えば楽しい遊びそのものだった。美味しい食事を一緒に作り、暖かい季節は庭で、寒い季節は暖炉の前で食べる。夜はベッドの上で一緒に音楽を聴きながら、それぞれ小説を読んで、感想を言い合った。一緒に映画を見て話し、くすぐり合い、冗談を言い合って、笑って過ごした。一度は諦めた、その穏やかな時間が戻ってきた。私は、多分人生で一番幸せを感じていた。妻もとても幸せそうに寛いで見えた。彼女が仕事をしたがっているのはわかっていたので、少ししたら、パリに戻ろうという計画を立てていた。

 白い猫は相変わらず、顔を出さない。灯台守りにも、会えていない。妻は医者に通っているが、特に問題も進展もなく、様子を見るようにと言われている。

 「こんなに体調も気分がいいなんて。なんだかこれじゃあ、私が記憶喪失という嘘をついているみたいよね。」と、冗談を言う余裕さえあった。妻が浜辺のジョギングから戻った時などは、ハツラツとしていて「記憶喪失」という病名のイメージとはかけ離れていた。

 時々、本当に記憶がないというのが、全て嘘だったら。という可能性について考えてみることもあった。疑っているということではない。ただ、もしそうだとしたら、ずっと嘘をつき続けるというのは、彼女にとって大きな負担になるだろうな。と思うことはあった。

 彼女は一体どうやって3年間暮らしていたのだろう。お金はどうしていたのだろうか。その点を考えると、やはり誰かと暮らしていたのかもしれない。と、時々考えた。でも、彼女は長く一線で働いてきたキャリアウーマンだ。私の知らない口座がどこかにあったとしてもおかしくはない。

 一緒に海を散歩して、私が庭の手入れをしている時は、彼女は大抵お菓子作りをしている。ジャーナリストは現場に行かなくても、調べ物が多いので、仕事もしているようだった。

 朝のカフェを淹れるのは、彼女の仕事だけれど。焼きたてのパンを買いに行くのは、私の仕事だ。ある朝、私が近くのパン屋にクロワッサンを買いに出た時、白い物体が道を横切ったような気がした。近所の犬か猫かもしれない。私は、走ってその物体の向かった方向を見に行った。どうやら、猫のようだ。もしかしたらポンポンかもしれない。

 脅かさないように、そっと近づいてみた。古い小さな、今はほとんど使われていない教会の裏側に、イチジクの大きな木がある。とても大きな木で、季節になるとたくさん緑の実をつけるので、近所の人たちが時々、実を取って、その場で食べたり、幾つかカゴに入れて持ち帰ったりする。
教会の木は誰のものでもないし、この辺りでは森に生えている木の実を持ち帰っても誰も問題にしない。11月に森の中で見渡す限り落ちている栗を拾うのも自由だし、夏の終わりのブラックベリーの季節は、見渡す限り道の両側が野生のブラックベリーで覆われ、トンネルに見えるほど実るので、この時期は誰もがカゴを持って散歩に出る。

 海では貝や小さなグレーのエビ、魚を捕ることもできる。魚たちを守るために、捕獲して良い数は厳密に決まっているけれど。自然が豊かな田舎の生活は、とてもおおらかで豊かなのだ。

白い猫がイチジクの木の近くにいた。
「ポンポン・・・?」と小声で呼びながら近づいてみた。
ポンポンは、振り返ると、少し驚いたように私のことをじっと見た。

「ポンポン。元気にしていたのかい?急にいなくなって心配していたんだよ。」と言いながら、隣に腰を下ろして、そっと猫の背中を撫でた。

ポンポンは、グルグルと猫らしい声を出して、
膝の上に乗ってきた。
逃げると思っていたので、意外だった。

「ポンポン、あれから、いろんなことがあったよ。なんと、妻が帰ってきたんだ。君が妻は生きているって言ってくれただろう。それを信じて待っていたら、ある日突然帰ってきたんだ。あの時はありがとう。一番辛い時に、君に助けてもらって本当に嬉しかったんだ。ずっとお礼を言いたかった。」
小さな声で、話しかけながら、猫の首やあごの下を撫でて、しばらく朝日を一緒に楽しんだ。

「さあ、妻がコーヒーを淹れながらクロワッサンを待ってるんだ。僕と一緒に家に行かないかい?」と声をかけた。
意外なことに、ポンポンは黙って僕の後ろをついてきた。

家について、クロワッサンの入った紙袋をテーブルに置き、妻に声をかけた。
「ジュリエット!ほら見てごらん。僕が話していたポンポンが来たよ。ほら・・・・これがポンポンだ。」と、台所を覗いた。
コーヒーの良い香りがした。
でも、妻にクロワッサンを渡して振り返ると、ポンポンはもうそこにはいなかった。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?