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白い猫と妻の失踪5、エリック 猫の失踪  2022

 翌朝、私は目を覚まし、まず、猫を探した。夜の間に、自分のベッドに移動したのか、ベッドにはいなかったからだ。猫専用ベッドにもいなかった。慌てて、風呂場や客間、庭までくまなく探した。
猫の姿は見つからなかった。私は、軽いパニックに陥った。
 
 猫は忽然と、姿を消していた。私の家では、みんな消えてしまう。
パリの家では妻が消えた。ここでは、猫まで消える。扉の鍵も、窓の鍵も全て閉まっていたというのに。どうやって、外に出たのだろう。

 一体何なんだ。せっかく、ベッドや籠や、餌やトイレも全部揃えたというのに、何が不満なんだ。あんなに一生懸命世話をして、同じ家で1ヶ月も暮らしたというのに。挨拶もないのか。挨拶くらいしていけよ。人間の言葉が話せるんだから。

 冷静になるには、数時間を要した。自分の思い違いで窓を開けっ放しにしていなかったか。
もしかしたら、どこかから出て行って、ひょっこり散歩を終えて帰ってくるかもしれない。そう思って、数日は窓の外ばかり眺めて過ごした。

 そして、1週間経った。
「待ってばかりいるのは、もうたくさんだ。妻を待って3年。猫を待って1週間。」と、声に出して言ってみると、なんだかバカバカしくなってきた。
 毎日午前中に、新聞を買いがてら、隣町に車で出かける。そうでもしないと、1日誰とも口をきかずに終わってしまうことがある。一人暮らしとはそういうものだ。なじみのカフェの店員と挨拶をしたり、たまたま前を通る人たちを眺めているだけでも、一人ではないという気持ちになった。

 今朝は、向かいの家の庭で、朝食を食べている隣人と挨拶をした。彼は、日本人と結婚していて、パリと日本に家を持っている。夏のヴァカンス中は、この別荘で暮らしている。

 「おはよう。」と、声をかけると「ああ、久しぶり。元気そうじゃないか。その後、どうだい。何か手がかりはあったかい?」と聞いてきた。
 一瞬猫の話をしているのかと思った。いや、猫のことではない。妻のことだ。彼は、私が妻を3年間探し続けていることを知っている。

 「ああ、残念ながらあれから特に情報はない。」
「そうか。近所で何か変わったことがあれば、僕も気をつけて見ているよ。大丈夫かい。君の心労は相当なものだ。」

「ああ。ありがたいことに、人間はどんな状態にもある程度、慣れる。僕がしっかりしていないと、妻も帰る場所がなくなるしね。
ところで、白い猫を見なかったかい?少しの間、うちに猫がいたんだが、いなくなってしまってね。猫にまで愛想をつかされるようじゃ、おしまいだ。」と、冗談めかして、普通の猫が家出したような口ぶりで話してみた。

 「白い猫か・・・・。そういえば、数日前に、海の方へ向かう白い猫を見かけたような気がするな。その猫かどうか・・・。」
「本当かい?それは何日前?」

「そうだなあ・・・・・うる覚えだけど。確か、日本からこの家に帰ってきてすぐだから・・・3日ほど前かな。」
「海岸に向かっていたんだね。」
「ああ、この寒い風の強い日に、何も海に行かなくてもと、思って、どこの猫かなと思って、覚えているんだ。」
「そうか。ありがとう。また見かけたら教えてくれ。」

 「もちろん。君も大変だな。どうだ、絵は描いているかい?」
「ああ、絵は必ず毎日描いている。なんとか、正気を保っていられるのは、絵のおかげだな。」

「きっとそのうち、ひょっこり帰ってくるさ。まだまだ、事情はわからない。まずは帰りやすい雰囲気を作っておこうよ。奥さんが帰ってきたら、僕は気楽な調子でこう言うんだ。
 『やあ、久しぶり。今晩、庭でバーベキューだよ。もちろん来てくれるだろう?』ってね。」
「・・・ああ、ありがとう。そうなることを祈っているよ。」と、私はそっとつぶやいた。

***

 翌日、私はグランヴィルの灯台に向かった。海を見渡せる崖の上に灯台があり、周りは遊歩道がありちょっとした小さな公園のようになっていて、パーキングもある。1角の道に続く場所を覗いてほぼ360度海に囲まれていて、いつ来ても強風が吹いている。素晴らしい景色で来るたびに、おおらかな気持ちになった。
 灯台自体は驚くほど小さな建物で、関係者以外立ち入り禁止で小さな柵で囲まれている。崖の中腹に階段が続き、海を眺めながら、散策できる。

 白い猫は「妻は生きている」と言っていた。たとえ猫でも、妻の情報を聞いたのはこの3年で初めてなので、正直とても嬉しかった。信じてみたいと思うのは、当然だ。
 
 妻が失踪したのは、パリだ。この土地ではない。でも、妻はこの土地に私と一緒に夏ヴァカンスの間は、毎年2ヶ月ここで暮らしていた。週末にもよく来ていた。何か問題があって、パリに戻れないなら、この土地に来ている可能性は大いにある。同じ服を3年も着ているわけはないけれど、つい髪の長い赤いワンピースの女性がいると、目で追ってしまう。白い猫もつい探してしまう。そんな時は、できるだけ深呼吸して、自分の体の感覚に集中する。私が正気を保つ事で、きっと妻は無事に戻ってくると信じているからだ。

 灯台の明かりというのは、回転の仕方によって、遠くから見ると、何回光っているかによって、場所がわかるようになっている。例えばグランヴィルは2回。近くのショゼイ島は、1回。モンサンミッシェル湾の反対側に位置する、カンカルの灯台は長めに1回。というように。信号のように、場所を知らせている。

 猫が言う、灯台の明かりが届く場所というのが、何を意味するのかはわからない。妻にとっての灯台といえば、まずこの場所の事だ。くまなく回りを歩いて、様子を見たけれど、特に手がかりはなさそうだった。遊歩道と広場には眺めの良い位置に、いくつかベンチが設置されている。ベンチに座っている老人の隣に、少し離れて腰を下ろす。

 「風が強いですね。」と、声をかけた。
「ああ、南風だ。明日は晴れるだろうな。」と老人は言った。

 「風が読めるのですか?漁師さんですか?」と聞いてみた。
「漁師に、場所を教える側だな」と答えが返ってきた。
「もしかして、灯台で働いていらっしゃるんですか?」
「もう引退したがね。元、灯台守りさ。」

「この灯台ですか?」
「いや、ブルターニュだ。ジュマン灯台という美しい灯台さ。灯台の中に聖堂がある。わしらの時代は、灯台の明かりは自動制御されていなかった。つまり、夜中にも誰かが、明かりを絶やさないよう、見張っていたというわけさ。」

 「灯台に住んでいらっしゃったということですか。」
「そうだ。もちろん、交代時は二人になることもこともあるけれど、基本的には一人きりだ。」と、灯台守りは静かにゆっくりと話した。
私は彼の言葉にとても興味が湧いてきた。

「それは寂しいですね。」
「そうだな。灯台の暮らしは特別な世界だ。ほとんど自分も灯台も海そのものになったように感じる。もちろん危険もある。空と海と自分の境界線がほとんどなくなるような感じだ。海で生きていると、人間は本当にちっぽけな存在だということがよくわかる。嵐の海では人間にはなんの、何の力もない。」

 「そうでしょうね。海と一体になれるなんて羨ましいな。」
「今でも、こうして海を眺める時間がないと落ち着かない。灯台守りは、私が最後の世代だ。灯台守りにしかわからないことは、たくさんあるし、それを伝承できないのは、少し残念だ。」

「是非、またお話を聞かせてください。事情があって、灯台のことを調べているんです。」
「ああ、こんな老人の話でよければな。」
「私は、キャロールに暮している画家です。また、お会いしたいです。」

「私は、毎週ジュルビルのマルシェで火曜日に買い物に出る。カジノのカフェでコーヒーを飲むのが日課だ。11時頃にはテラスにいると思う。見かけたら声をかけてくれたらいい。」
「わかりました。では、多分明後日に。」と言って、老人と別れた。

***

 妻がいなくなってしばらくの間は、もちろんそんな気持ちにはなれなかったけれど、今はたいてい1日の大半をキャンバスの前で過ごしている。大きな展示会の予定があり、新作も展示することが決まっている。
おかしな考えだということは重々承知しているけれど、絵を描くことで、妻は無事でいられるのだと、勝手に自分を励ましているようなところがあった。

 妻がいなくなった当初、僕と妻のことを誰もがとても心配してくれた。それは、とてもありがたい事だったけれど。正直「心配される」のも「同情される」のも、とてもエネルギーがいることで、何か重いものが体にのし掛かるように感じることもあった。

 警察は誘拐や事故の可能性を今でも調べてくれている。何も手がかりがないので、他のあらゆる失踪の可能性も考え尽くした。別の男性に恋をして出て行ったのだろうか。その可能性は低かった。お互いに大人になってから知り合ったので、そういうことなら、黙って姿を消す必要はない。どんなに傷ついたとしても、何年も心配して生きているかもわからず捜索する心労に比べれば、はっきりと理由を伝えてられて傷つく方が、まだ私への負担は少ない。と、彼女なら考えるだろう。

 人間というのは、私たちが思っているより複雑な生き物だ。理屈や理性では計り知れない、特別な事情があるのかもしれない。
一番考えられるのは、ふらりと思いつきでどこかに出かけたら、何かしらの事情で戻ってこられなくなった。ということだった。妻は思いつきでちょっと突拍子もないことを考えたり、行動したりするところがある。または、一番可能性が高いのは、事故などによる突然の記憶喪失ではないか。と、知人の医者が言っていた。それは私が一番恐れていることでもあった。

 今日は、火曜日で、朝からマルシェにはたくさんの人が買い物に出ている。私も、車で近くまで行き、教会のそばの駐車場に車を止めて、マルシェに向かった。
 新鮮な、魚、野菜、フルーツをいつものお店でそれぞれ買った。最後は、いつものフロマージュのお店で、フロマージュ・ブランと、ポン・レベックという名前のフロマージュを買った。いつ帰ってきてもいいようにと、つい妻の好きな物ばかり買ってしまう。今晩、この魚を一緒に食べられるかもしれないと、二人分の食材を買う癖も抜けない。

 長く一緒に暮らしていれば、二人の生活習慣が日常になって、一人暮らしの時にどんな風に暮らしていたのか、全く思いだせないほどだった。マルシェの買い物も、ずっと二人で続けている習慣の一つだった。妻はいつでも少しくらい値段が高くてもオーガニックで健康に良い食材を選んでいた。
「今週は新鮮な野菜とフルーツをたくさん食べましょう!」
そんな時「愛する妻の言うことは聞くものよ。」と付け加えるのが、彼女の口癖だった。

 12時頃に買い物を終えて、カジノのテラスを覗いてみた。見晴らしの良い、海の見える席に、老人は一人静かに座っていた。なんと気高く静かな佇まいだろう。私はしばらく遠くから老人の様子を眺めてから近づいた。

 「おはようございます。良いお天気ですね。」と声をかけると、ゆっくりとこちらを見て
「ああ、君か。今日は良い波だ。」

「今日の満潮は12時ですから、海が近いですね。」
「ああ。今日は潮汐50だから、だいぶ水面が高い。」

「ええ、今晩は満月ですから。」
 潮汐表(ちょうせき表)がこの辺りでは、とても重要な役割を示す。世界で一番潮の満ち引きが激しい場所の一つがモン・サン・ミッシェル湾で、海面がビルの5階建分くらい上がる地域もある。

 ウエイトレスにコーヒーを頼み、しばらく海の話をした。
「お名前をまだ伺っていませんでしたね。」
「そうだったかな。私の名前はロベールだ。」

「つかぬ事を伺いますが、猫はお好きですか?」
「猫?ああ、まあ嫌いではないが、どうして急にそんなことを聞くのかな?」

「先日、白い猫を保護したんですが。数日したら、いなくなってしまったんです。」
「白い猫・・・・そうか。白い猫か・・・。」
老人は、考えるようにしばらく黙ってしまった。
コーヒーが来た。

「ショゼイ島がはっきり見えていますね。」
「ああ、明日は雨だな。」と、老人は答えた。この辺りでは、島が見える時ほど、翌日雨が降ると言われている。

 「白い猫と言えば・・・・・私も、白い猫と仲良くなった時期がある。尻尾に黒いシミがあって、まるで絵の具か墨に筆を浸したような形をしていて、ユニークな猫だった。」

 私の心臓はドクンと大きな音を立て、息が苦しくなった。老人は、ポンポンのことを話している。ポンポンの尻尾には黒いシミがあった。

 「私は、灯台の孤独な暮らしに慣れている。8年間、灯台に暮らした。ある日、目の前にその猫がゆったりと座っていた。灯台は猫が渡って来られるよな場所ではない。引き潮の時にも扉は閉めているし、窓は高い場所なので上がってこられない。しかも満潮の時間帯は、その灯台は水に囲まれてしまうので安全のためにいつも扉には鍵をかけてある。」
私は、緊張しながら一言も聞き漏らすまいと、一生懸命話を聞いた。

 「私の孤独な生活に、するりと入り込んできた猫だ。多分野良猫だと思う。首輪はしていなかった。ある時、ふらりと灯台に現れたのさ。信じられなかった。」
「・・・まるで手品のように。」

 「9月の満月の日で、海面が特別高かった。灯台の周りは完全に海水で覆われていた。でも猫はやってきた。まるで、幻想か妖精みたいに。でも体温もあり撫でるとゴロゴロ喉を鳴らした。」
「もしかすると、その猫は海の上を歩けるのかもしれない。扉を通り抜けて。」と、私は恐る恐る言ってみた。
 老人は意外そうに青い瞳でじっと私の目を見つめている。

 「そして、人の言葉もわかるかもしれない。」と、私は期待を込めて言ってみた。
老人は、黙ったまま水平線を見つめたまま、否定も肯定もしなかった。

「あれはきっと・・・・20年ほど前だ。不思議な猫だった。私はとりあえず、灯台猫と呼んでいた。私の親友で家族だった。私は、猫に向かって、私の人生のこと、家族のこと、海の話、いろんな話をして聞かせた。あの猫は、特別な猫なんだ。」老人は、しばらく黙ってコーヒーを飲んでから続けた。

「私がいた灯台は特殊な灯台で、岩礁の上に建てられている。満潮時には海に囲まれ、船以外から行き来ができない。しかも、岩礁のせいで船を近づけることさえできないから、緊急時は近くに建てた塔から滑車にロープをつないで、そこから物資を運ばなければならない。大変な危険を伴う」
「そんな危険なところに、猫が来たのですね」
「ああ、そうだ。」

「実は・・・・その・・・私の妻が行方不明なんです。もう3年も。僕の家にその猫が来ました。猫は『あなたの妻は生きている。灯台の明かりのある所で』と言ったんです。」老人は、そっと目を閉じたまま、動かなかった。

 しばらくして老人は何度か小さく頷いて「・・・灯台の明かりは40キロから60キロほど届く。」とだけ呟いた。
妻の失踪の話をして、そのことについて何も言わなかったのは、この老人が初めてだった。

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