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「書く」をめぐるインタビュー⑫~私という「我」ではなく「魂」の私から書く~

「書く」をめぐるインタビューセッションを実施した。お話を聞かせてくれたのは、 清水みかさん。

あるきっかけで書くことに取り組んでいるなかで、書くことに対するハードルや印象が変化していくのを面白く感じている一方で、同じ「言葉」なのに、書くコミュニケーションと話すコミュニケーションのギャップに少し思うところもおありだというところからセッションがスタートした。

インタビューを終えて

みかさんのお話を聴いていると、言葉がどんどん流れ出てくるような印象を持った。みかさんのなかに言葉がたくさん詰まっていて、それが次から次へと出てきて、空に浮かぶ天の川のように、「言葉の川」が流れているような感じだ。そして、その出てきた言葉を眺めながら、一緒にしばし考える。

そんなイメージを絵に描いて表せたらいいのだけれど、あいにく私は絵が描けないし、言葉で言えることには限りがある。しかもそのイメージを細かく言葉で描写すれば伝わるというものでもない。

書くことのジレンマというのは、そんな風に自分の見えているものを伝えきれないもどかしさや難しさや制約でもあるけれど、逆にそこにこそ、その人なりの工夫や表現が生まれるというスタート地点や可能性の種のようなものかもしれないなあという気もしている。「言葉の川」のイメージから派生をしてそんなことを思ったので、書き残しておきたい。

セッション内容のリライト

ご本人の許可を得て、セッションで伺ったお話のメモをリライトしたものを掲載する。このリライトは「記事」ではなく、ご本人に「セッションを振り返ってもらうためのもの」なので、話したままに近い内容になっている。

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書くについて、このセッションに申し込んだときは note の100 日チャレンジを始めたタイミングで、12 年くらい前にホロスコープを読んでもらったときのことが頭にあった。

「書くことについての才能があるよ、映画のレビューとか書くといいかもしれませんね」と言われて。人生の後半にそういう星が強くなると言われたけど、なんか自分のなかで使いたいとかはなくて、書くことは好きでもないし、ピンとこないなあと思っていた。 

それで、ネットサーフィンをしているときにこのインタビューのモニターさんを募集しているのを知って、書くことについてあらためて考えたことはないけど、いいかもしれないなと思って申し込んだ。セッションの進め方の説明を見て、書くことについて、そんなに自分のなかの位置づけは変わったことがない気がしている。

12 年前のホロスコープのセッションの前後でも、ブログはずっとやってはやめたりを繰り返していて、何かしら言葉で表現することはやってきたけれど、書くことに対して、自分のなかで「書くとはこういうことだ」というのは、過去も今もなくて、なんとなく、普通に自然な手段としてあったなあと思う。 

これが、対人になると、自分のかしこさっぽいことを滲ませてみたりとか、素直さとか、人格をデコレーションするような感じで言葉を使うこともある。

1 人の人に対してのメッセージだったら、コミュニケーションとして完結できるけど、それがブログになると、書けば書くほど収集がつかなくなるようで、どこに向けて書くかということがぼやけるほどに、何のために書くのかわからなくなるというジレンマが出てくる。 

環境次第で書くことが変わっていく。環境で伝えたいことが変わるのであれば、何書いてもいいじゃんと思うのだけど、ただ書くために書くというのはすごく苦痛で。

仲間にこれを伝えたいなというモチベーションがないと、苦しいし、まとめられない。でもブログを書くといいらしいしというのもあって、そういう意味での書くは難しい。ツールとして使おうとすると難しいと感じるのかな。 

ネット媒体とかメールじゃなくて、手紙を書くのは好きだし、手書きのノートには、書いて自己対話をしている。note の 100 日チャレンジでは、あるオンラインサロンのでの学びを書いている。サロンに入って 1 年を超え、ものすごく自分の内面が変化した。それまでも手書きのノートを書いてきたんだけど、それまでは苦しいなと思って書いていた。それが、オンラインサロンに入ってからすごく変わった。

ノートに綴る言葉が、その言葉を紡ぎ出す感覚が、すごく変わった。言葉と書くはイコールじゃないとは思うけど、言葉によって私が考えていたことが出てくるのではなく、私が言葉を使うようになった、言葉に使われるのではなく。

そんな風になると、紙のノートに書くのが苦しくなくなって、自然になった。でも、発信するという書くは、やっぱり剥離しちゃう。人に見せるものだからか、説得力のある表現とか考えると、ただ書くって難しい。 

書いて何かを伝えようとするのは難しいので、話して伝えようとしたんだけど、話すということで自分が得た学びを的確に表現できるかというとそれも違くって、ちゃんと構成をしないと、自分が描いたものが伝わらない。 

教えることと、伝えること、表現するがまったく違うんだということを、8 月くらいに思い知らされて、note がきらいになったり、下書きばかりがたまっていくような感じ。1 人よがりな発信をしたいわけじゃないしなあと。 

オンラインサロンでの学びをシェアするために書くのではなく、話すシェア会にしようと、対談形式でシェアしたらサロンの輪の中に入れない人、ハードルを高く感じている人も参加できるかもしれないし、そういう参加型の方が楽しいなとも思ったんだけど、でも、安易に言葉にして消える形で流してしまわずに、文章化して書くほうが伝わるんじゃないかと思った。でも、書けない。 

書くのは好きだと思う。でも、ちゃんと伝わらないとイヤということを、前より気にするようになっている。こうやってしゃべっていても、みどりさんはどうなんだろうと質問したいことが出てくる。もしかしたら、書くのもキャッチボールしながら書けばラクかもしれない。 

オンラインサロンで 1 人語りふうのシェアをしたこともあるけど、相手が今悩んでいることについての学びとか気になっているところに対して放つ言葉はいいけど、一方的に話していると意味がない気がしていて。誰かに対しての感想だとかは返す形だから苦痛じゃない。話せば話すほど、ブログの難しさが浮き彫りになってしまう。

――自分の中にあるものを言葉にできるかどうかと、言葉にしたものが相手に伝わるかどうか、どちらに不便さを感じていますか? 

不便さは両方かな。書けたときはあまり不便さを感じない。いまいちだけど、気持ちよく言葉に乗せられたからいいや、まあここまで書けたからいいやというときもあれば、このことについて書きたいのに、いっこうにまとめ的な方向に持っていけない、ということもある。 

話すときに受け取ってもらえないというジレンマを感じたことはある。書いたことで、伝わったかどうかについてはどうだろう? 例えば、自分の中で感じたことを書いて、自分の中で表現できたときに、それを読みたいと思ってくれた人にシェアしたら、「理解はできるけれども、実感まではいかない」という人と、「何を言ってるかさっぱりわからないけどありがとう」という人がいた。

前者の人は、自分と感性が似通っていて本質的な追及が好きな人で、後者の人は、ホロスコープでいうと風の星座が強い人で、ものごとを深く追求することをあまり求めていない感じの人。自分が言ったことに対して、その人がよくわからないといった部分は、たしかに伝わりにくいのかも、ということはわかる。 

ただ、伝わらないときは必ずしも言語化の未熟さだけじゃない。その人の持っている星と、自分の星が違うんだなとそのときは思った。 


――「言葉を紡ぎ出す感覚がすごく変わった」というのはどういう感じですか?

紡ぐ感覚が変わったといっても、変わるまでは自覚がなかった。変わったあとで言語化するとそんな感じ。オンラインサロンで学んだこととして、肉体とか「私」という自覚は脳機能であって、魂が私たちの本質であるということがあって、私はそこに共感して、その学びを自分のものにして自分の人生に活かしていこうということでオンラインサロンに入っている。 

さらに、言葉も物質と言われていて、学び方として、方法うんぬんではなく、「私が私であることを思い出そう」ということを言われて、それが最初はよくわからなかった。わかりたいからそれをテーマに日々自分と対話をすることをしていると、あるとき瞬間的にわかったという感覚があった。 

それまでは言葉を使って、言葉遊びをしていたような感じ。書いていても、言葉の上だけで書いていて、私の存在がおいてきぼりというのがわかった。簡単にいうと、感じていることをちゃんと書くようになったという感じ。肉体を持っている私という感覚と言葉を連動させて言葉を使うようになった。


――独りよがりの発信というのは、どんな感じのことですか?

人のブログを読んでいて、ただ自分の承認欲求のための記事とか、何かを伝えたいブログなんだろうけど、伝える内容よりも、私の気づきすごいでしょという風に、自意識のほうが強くなっているブログは見ていて心地よくない。 

理想は、私という「我」を抜いて、あくまで本当に伝えたいことが伝わるように書くこと。はしはしににじみ出る自我みたいなのが見えると、毒気にあたる感じがする。なるべくそういうのがないのが理想。 

やっぱりうまく言葉を紡げていないと、そのことについて伝えたいのに、全然伝わらないし、全然言葉がうまくならべられないまま、未完のまま出すと、それは美しくないと思う。 

これを受け取ってほしいんだよねということを、いかに上手くするかがないと、ただ私の書きたいこと書いたというのが、独りよがりの発信というイメージ。

今までのブログでさんざん感情のままに書く、感じたままに書くというのはやってきたけど、今やろうとしているのは感情の発露じゃなくて、伝えたいことがあるということにのっとった上で書くということだから、ジレンマがあるのかも。

伝えたいことは最初は明確にあって、ターニングポイント、変化のいろいろなポイントなどについてで、オンラインサロンをより楽しく、できるようにしようということで始めたので、ある程度はっきりしていたはずなんだけど。 

悩んでる人がいれば、こういうことを伝えたいなーと出てくるんだけど、やめると伝えたい欲求がなくなって、あら?となってしまって。欲求ありきで伝えたいと思っていたから、100 日続けるこだわりがなくなってしまった。

ブロガーさんにはいろんな人がいるけれども、私は成功系のブロガーさんが、自身がやってきた道のりをシェアして書いてくれているものが好きでよく読んでいる。そういう人は自分の中に哲学や思いや伝えたいことがしっかりあって、その上で自分のサービスや自分のコンテンツを書いている。私はそこまで自分の哲学を伝えたいというのが、まだそんなにない。あくまでも現時点の学びを伝えたいという感じ。

見せるためだけに書くという浅さに、月のさそりが抵抗してくるというのはあるかもしれない。最近また星読みをしてもらったときに、アセンダントのおひつじをメインで読んでくれた。私の特性として、思考的には深いものを、9 ハウスでスピリチュアルなものを求めるけど、動きとしては、深く考えずにポンポンやっていきたいという、運ぶものがなくても走っている電車みたいな感じがある。 

それでいうと、書くことについて深堀りしすぎると動きにくくなる。でも深く考えずにいられない。それでいきつくところはジレンマだなと思うと、解決にはいたりはしないんだけど、ジレンマを感じながらやるしかないのかなと。 

一番思っているのは、悩んでしまうツールじゃなくて、悩まないでいいツールで表現をして、現実的な仕事につなげていけたらいいなと思っていて。書くという手段について考えると、目的をみたときに、全然効果的じゃないよなと思うことがあって、苦しいくせに書くことをなんとかしようという努力が自分の性分にあっていないと、その努力は無駄なんじゃないかなと思ってしまう。

自分のビジネスの窓口になるのは、ブログが定番みたいになっているし、自分のスキを仕事にする上で、ブログが大きな土台みたいな風潮がある。だから書くことができないと、なかなか難しいんだろうなあということは受け入れているから悩んでいる。

書くことについて苦手だなと思いながら、それでもブログとかを使って、ビジネスを安定に持っていこうとしている。書きたいことを書くで完結せず、そこにビジネスとか屋号の主張をくっつけて書くことがいやなのかな。スキ、書きたい、以上。でいいんじゃないかと思う。

オンラインサロンをやめたのも、個人セッションを募集して純粋にすき、楽しいという気持ちだけでいればよかったのに、そのなかでサービスをしようとすると、スキによけいなものがくっついてくるから。書く、書いた、やりたい、やったとかでいいのに、余計なひもづけが私を苦しめている。 

何かの表現を磨こうとしたら、黄金則があって、ひな形があって、そういうことを勉強しようと思ったらいろいろあって、ブログのアクセス数を集客につなげたければそういうのは大事だとは思うけど、その研究をしたいわけじゃない。

深いところから自分の言葉と器が合致すれば伝わるとは思う。私がいいなあと思う人は、ものすごいパワーブロガーでもあって、商品もすぐ売り切れになるような、自分のありかたで稼いできた人。 

たぶん、本当のところから書くと伝わるし、自分の核になる部分がのらずに、ごちゃごちゃとテクニックで書くと、そういうのは見ている人は感じちゃうよなと。

ここ数年、自分のスキで稼ぐとかでコンサルを受けてやってきたけど、そんなに形になってなくて、ちょっとずつモニターさんをしてみたりするなかでブログを書くことは大事なんだろうなーと思っている。 

今日話してみて、予想以上に note の進まなさもあるから、めっちゃ苦しんでるじゃんと思う。究極は「自分のあり方で稼ぐ」なんだけど、手段として書く以外でないかなあと。note でおもしろい人のを読むと、おもしろくないものを書く意味がわからないし、書くなら楽しんでもらいたいし、有意義なものを目にしてもらいたい。そういうのが書けないと私のなかでは書く意味がない。

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いただいた感想

今回、丁寧に、こんな感想をいただいた。

感想が遅くなってしまいましたが、先日はインタビューセッションをありがとうございました。とても、有意義な時間でした。

私自身、セッションを通して言語化するまで、このところなんとなく『書く』についてモヤモヤしていたものの、実際『書く』についてどの部分にモヤモヤしてるのか全く無自覚でしたし、そもそも、自覚できる様な、細分化できるものとも思っていませんでした。

しかし、自分が話し、それを言葉にしてもらい、対話し、またそれを元に浮かび上がることを話す中で、次第に『書く』について自分が感じているモヤモヤがどこから来ているのかが明らかになり、大事にしたいところとそうでないところが明確になったような気がしました。

また、今回特に『これを話そう』というようなテーマがあったわけではありませんでしたが、振り返ると『またこのことについて喋ってるぞ』と思わされるものが中心となっていて、自分の中心に今あるもの、ずっとあるもの、などが垣間見えたのも、これまで接点や共通項のなかったみどりさんがインタビュアーだったからこそなのかな?とも思いました。

ここからは少し『書く』についての感想とはズレるかもしれませんが、セッションを通して見えたものが面白かったのでシェアします。というのは、実はセッション後に話した事を書きまとめて頂いたものを見て、戸惑いを感じたのです。

話している時は全く感じませんでしたが、書き起こされたものは1つ間違えると、引き合いに出した人が見たら嫌な気持ちを抱かせるかもしれない・・と感じる部分があったり、自分の確かに話したことだけれど、文字から『無遠慮さ』が伝わってきて如何ともし難い気持ちになりました。

そのことから、話すことと伝わることの温度差を目にした様な気がして普段の話しぶりまで考えさせられましたし、逆に普段書いて伝える時にはとても気を遣っていることにも気づかされました。

その気の遣いようが、もしかしたら無自覚に『書く』のハードルを上げていて、現状時間の掛かるものにしているかもしれませんし、逆にもしかすると『表現的な配慮』のスキルなのかテクニックなのかわかりませんが、そこが備わると一気に『書く』も話すのと同じ様に、もっと自然に楽になる時が来るのかもしれないと思ったりもしました。

こうして感想を書いて振り返り、またそのことについて考えることで、更に思考や気付きが広がっていくのが面白いです。また書くことを続けていく中で、時折振り返りつつその時々により新しいエッセンスを加えてくれる気がして、このインタビューセッションの味わいの変化も楽しみだなと思います。

私のリライトの仕方が少し無遠慮だったのかもしれません(汗)
たしかに文字を読むときというのは、読み手の数だけ受け取られ方があるので、表現の配慮というのはとても重要ですよね。


あらためて「書く」をめぐるインタビューについて思うこと

今回、清水みかさんからも質問をいただいて、インタビュー中なのに自分の考えをとうとうと語ってしまったが、おかげで自分自身はどうだろうかということを、セッション中に一緒に考えさせてもらう時間にもなった。

特に明確に浮かんできたのが、書くときの「軸」のことで、「表出する」という自分の中にあるものを言語化して出すことと、「伝える/伝わる」という他者に届くかどうかということの、どちらの軸がその人にとって優位になっているかということだ。もちろん、そんな単純に分類できる話ではないし、最終的にはどちらもが一致することが理想だとは思っているが、それは書き手がどこに目的を置いているかによって違ってくる。そして、その目的自体も、その奥にもっと深い願いや理念や祈りがある場合がある。そんな最終的な目的をつきつめていくと、その手前にある目的は手段となるため、最終的な目的に照らしながら書くことに取り組んでいく必要があるのだろうという気がしている。

みかさんが感想に書いてくれたように、違う個体だからこそ浮かび上がる異質や差異のなかに、気づきの端緒がひそんでいて、そこから「はっ」とするようなことに気づくということを、このインタビューは内包している。それは個人的な期待というよりは、リフレクティングのプロセスからヒントを得たものだ。

更に、リフレクティングのプロセスには、バフチンの対話についての考え、ポリフォニーの概念が反映されている。このあたりはまた、自分なりに研究をしてまとめたい。

12名の方にモニターセッションをさせていただいて、興味深い傾向が出てきたと思う。この冬はその体験を分析してみて、さらにこのセッションを洗練させていきたいと思う。

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「書く」をめぐるインタビューセッションのモニター募集は締め切りました。年明けから、新料金で再開予定です。再開の際は、note上でお知らせします。


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